小説置き場2

山岳に寺社仏閣に両生類に爬虫類に妖怪に三国志にetcetc

あやかし姫~跡目争い(1)~

 馬がゆったりと歩いていた。
 炎をまとった蹄は、地面を踏み締めない。
 巨馬が踏み締めるのは、空、であった。
 鬼馬だ。
 額に角ある、妖の馬である。
 跨っているのは、美しい男であった。恐ろしく整った容貌は、見る者に冷たい印象を抱かせるだろう。
 腕を組み、考え事をしている男の額には、愛馬と同じように二本の凛々しい角があり、銀色の髪がさらりと風に流れていた。
 茨木童子
 西の鬼の王、酒呑童子の双子の弟。
 かって大妖の一人に数えられた男である。
「ちっ」
 茨木は、一つ舌打ちをすると、馬の首筋を軽く叩いた。
 機嫌悪げな表情でさらに舌打ちを重ね、
「兄上も兄上なら、虎熊も虎熊だ」
 そう、一人ごちた。
 虎熊童子は、双子の鬼の次位にある、力ある鬼だ。
 鬼ヶ城の東西南北の支城を任されている四つ子の末子で、東の鬼を憎む気持ちが強かった。
 かって東の鬼を支配し、全国の鬼にまで手を伸ばそうとした悪路王と酒呑童子との間で諍いが生じたとき、虎熊童子は友を失っている。
 悪路王が妹であった鈴鹿御前に殺されたため、東西の鬼の争いは避けられたが、虎熊童子は大きな怨みを抱いた。
 そも、それ以前から、東西の鬼達はあまり仲が良くなかった。
 そんな鬼達の融和が、少しずつ図られている。
 鈴鹿御前にも、兄にも、もはや強いわだかまりはないのだ。
 酒呑童子の一粒種である朱桜は、東の鬼の庇護にある雪妖の巫女とかみなり様と親しくしていた。朱桜本人に自覚はないだろうが、鈴鹿御前やその夫である俊宗は、朱桜に後を譲ろうと考えている節がある。鬼姫夫婦に子供はなく、鈴鹿御前の義兄である大獄丸は、上に立つよりも下から支えることに力を発揮する鬼だ。
 茨木童子自身も、東に大切な妖がいる。
 争い事は嫌いではないが、東の鬼と争うことは避けたかった。
 大事な姪姫が、大切な女性が、きっと泣くからだ。
 だというのに――虎熊は、争いを煽るようなことを言った。それも、暴走する力に呑み込まれた朱桜を助けるでなく、だ。助けようとした星熊童子の邪魔すらしたのだ。
 兄が、東の鬼との争いを煽る言葉に怒ったのか、腑抜けと言われたことに怒ったのか、愛娘を助けようとしなかったことに怒ったのかは、わからない。兄の考えは読みにくくなっている。思えば、黄蝶という身体の弱い人の女に惚れ込んでからだ。それまでは、言葉を交えずとも互いの考えていることがわかった。先代の酒呑童子を討ったときも、相談は特になかったのだ。
「虎熊はしばらく使い物にならないな」
 兄は、虎熊童子に真の姿を見せた。直にあの姿を見て、耐えられる者は滅多にいない。娘である朱桜にも、真の姿を見せていないのだ。
 虎熊童子の精神は打ち砕かれた。
 鵺と争ったときも露わにしていない。周りに人がいたからだろう。
 黒夜叉を返り討ちにしたときは、真の姿を見せた。
 黄蝶という女は、兄の真の姿を見ても、嫌悪感を示さなかったという。逆に、褒めそえたのだ。兄は、気に入った女に、真の姿を見せては関係を壊すということを繰り返していた。くるりと心変わりする様を、嘆きながら楽しんでいたのだ。
 所詮この程度なのだと嗤いながら。
 陽気に見えるが、兄はどこか屈折していた。
 一度、黄蝶と会っておくべきだった。
 兄がこの世でたった一人、屈した女なのだから。
「うん?」
 末っ子である虎熊への制裁を、他の四つ子はどう思ったのだろうか。兄は関心がないようだが、茨木はそういうわけにはいかなかった。西の鬼という巨大な組織をきちんと動かしていくには、酒呑童子という絶対的な力を頂きに抱くだけでは駄目なのだ。
 円滑に動くよう采配するのは、茨木童子の仕事だった。俊宗や大獄丸と同じである。東西の鬼は、頂点があまり頂点らしくない。九州の九尾の狐や四国の八百八狸とは、その点が違う。だから、王よりも王らしいと言われる。
 そんなことをやっていたから、約束より少し遅れてしまった。
「なんだ、お前?」
 茨木童子は鬼馬の歩みを止めた。
 金色の雲が目の前にあった。
 金色の雲に乗り、顔を黒い布で覆い、鈍く光る棒を持ち、茨木童子と鬼馬の前を遮った者がいた。
「邪魔だ」
 それは、答えなかった。
 目だけが、布の間から覗いた。
 男だろうか。
 若い。
 全身を黒い衣装で固めたそれを一瞥すると、茨木童子はそう判断した。
 雪妖の巫女と真逆の色だと思った。 
茨木童子か?」
 凛とした声であった。それは、人でも妖でもなく、人でも妖でもあった。
 あの古い建物に住む、大妖にも物怖じしない気性の激しく聡い娘と似通っていた。
「妖違いだな」
 金色の雲を横切ろうとした。
 茨木童子は、大きく跳ねた。
 頭のあった場所に棒が突き出されている。
 かわしながら、茨木は鬼馬に小さくなるよう命じた。懐に鬼馬を潜りこませると、木の頂きに両脚を揃えた。
「なにをする?」
「なにをする、だって? 決まっているさ。お前と戦うんだ」
 それが、棒を向けた。心持ち、黄金色の棒は長くなっていた。
 まともな武器ではなさそうだ。
「馬鹿が。俺は急いでいるんだ。手加減はせんぞ」
「そうか。ありがたい」
「……大馬鹿か、それとも大阿呆か、綱と同じ戦狂いか」
 茨木童子は一気に片をつけようと思った。
 殺しはしない。半殺しでいい。これからやまめの許へ行くのである。姫と呼ばれる娘の育った場所と違い、静謐で穏やかなやまめの宿に、血の臭いは似つかわしくなかった。
「馬鹿でも阿呆でもない。戦狂いは、否定しないさ。私は……次の鬼の王だ」
「次? 次の鬼の王?」
「私は……王の、子だ。だから、次の王なのだ」
「兄上の、子だと? いや、しかし、兄上の子は」
「朱桜という娘は、私の妹なのだろうね」
 父の愛を、皆の愛を、独り占めして、狡い妹だ。
 私には母しかいなかったというのに――ね、叔父上。



 太刀を上段に構えていた。
 白銀の刃に禍々しさが乗っている。
 大人の丈ほどに切られた太い竹が、目の前にあった。
「くぁ」
 小さく声を零すと、一息に振り抜いた。
 地面すれすれで静止した太刀。
 真二つになった竹が、かぽりと小気味いい音を立てて、左右に別れた。
「すごい、すごい」  
 幼い声が、ぱちぱちという拍手と共に聞こえてきた。
 太刀を鞘に戻すと、ふぅと肩で息をつく。
 あまり満足していないようだった。
「母上、母上、僕にも」
 二人、並んでいた。
 男の子と、女の子だ。
 男の子は五歳ほど、女の子は三歳ほどだった。
「かあしゃま、かあしゃま、あたしにも」 
 舌っ足らずに、男の子に負けないようにと、ちょっと背伸びして女の子が言った。
「駄目だ、頼国、相模。この太刀は、父上にも扱えないのだ」
 まぁ、あの方がまともに扱える武器など、数えるほどしかないのだがと、付け加えた。
「母上、ちょっとだけです」
「かあしゃま、ちょっとだけでしゅ」
「駄目だ。死ぬぞ」
 鋭い目で射竦められ、小さな男女はくしゃりと顔を歪めた。
 今にも涙が溢れそうになった時、
「おや、珍しい物を持ち出しているじゃないか」
 そう、のんびりとした声がかけられた。
 穏やかな容貌をした三十前の男が、三人に向かって近づいていた。
「父上」
「とうしゃま」 
 子供二人を足にすがりつかせながら、男は憮然とした表情の女に苦笑を向けた。
 女は気の強い顔立ちをしていた。
 男のような装いをしていて、それがまたよく似合っていた。
「綱、綱姫。子供達を怖がらせてくれるな」
「申し訳ありません、頼光様」
 女が頭を下げた。怯え顔の子供達を見て、すまないなと小さく言った。



「慣れない」
「慣れないか」
 庭で子供達が戯れる様を眺めながら、男と女は肩を寄せ合い、言葉を交えていた。
 女は、また、太刀を抜いている。
「穏やかな暮らしは苦手だ」
「私は嫌いではないのだが」
「頼光様は好きそうだな」
「最近は都も静かだ。よい事だよ」
「また鵺のような妖が出ないかと、私はよく思う」
 女は薄く嗤った。
「鵺か……」
「不思議だったよ、最初の夜は。隣に茨木童子がいたのだから。私が腕を斬り落とした鬼と、一緒に戦ったのだから」
 しかも、この鬼切を持って――そう、女は続けた。
茨木童子が傷つき、鵺に逃げられ、次の七日目の晩は、酒呑童子と共に戦った。それも不思議だった。あれも、私達が討とうとした相手だから」
「若いというのは恐ろしいな」
 いやはや若気の至りだよ。
 男が頭を掻くと、それもそうだと、女は言った。
 女の物言いは冷たかった。男は優しげな話し方であった。
「あの日々が懐かしい」
「今は退屈か? 満足できないのか?」
「退屈ではない。あの子達が成長する様を見るのは、楽しいし、嬉しい。でも、これは、戦いを欲する気持ちは、心身にこびり着いていて、絶対に消えないと思う。金時や季武もそうだ。貞光の爺様は落ち着いてしまったが……だから、満足できないのかと問われると、はいと答えるしかない。すまないと思っている。こんなに良くしてくれているのに」
「わからないでもないが」
「私は、妖と戦うために産まれ、妖と戦って生きてきた。頼光様と一緒になってもその性は変わらないらしい」
「綱姫は、綱姫だ。私の妻だ。渡辺の家の剣ではなくなったのだ。それは忘れないでくれよ」
「感謝している。こんな化け物を好いてくれて。こんな化け物を受け入れてくれて」
 馬鹿だなと、頼光が口を開きかけたとき、綱姫の目が見開かれた。
 鬼切がりんと鳴ったのである。哀しげに澄んだ音だった。
「……聞こえたか?」
「ああ」
 子供達も、不思議そうな顔をしていた。
「今のは?」
「……茨木童子の身に何かあったらしい」
 渡辺綱はそう言って、源頼光から身体を離した。
 頬に七色の鱗が現れ、耳の先が鋭く獣のように毛に覆われた。
 斑の紋様が腕に浮かび、背中に黒い羽が生えた。
 額の真ん中を割る一本の角、その両横に、蛾の触角がひらひらと。
 女は、様々な妖の特徴を、その身体に現した。
「負けたのか、茨木童子が」



「叔父上! 叔父上!」
 朱桜が意識のない茨木童子の身体にしがみついていた。
 その傍らで、酒呑童子が、顔色を失いながら唇を噛み締めていた。
 王と同じように顔色を失っている三匹の鬼は、黒く長い髪を振り乱して狂乱する美しい少女を見ながら、ただただ怖気を堪えていた。王の妖気も少女の妖気も、鬼の四天王を圧倒していた。
「誰だ、誰にやられた」
 ぽつりと、王が言った。童女から少女へと姿を変えた朱桜を受け止めると、同じ言葉を呟いた。