あやかし姫~跡目争い(6)~
金色の髪、蒼い獣の眼。白色の衣で全身を包み、音無く気配無く忍び寄り――その爪で哀れな獲物の心臓を抉り出す。
伏した鬼は二十匹余り。
対した妖狼は僅か三匹。
東西南北四方に散った妖狼の、生粋なる暗闘集団。
それが南の妖狼だった。
「同族?」
くんと白頭巾を動かし、鬼の心臓を投げ捨てると、真ん中の一匹はそう呟いた。
「南の妖狼が何やってんだ」
火羅を右手で庇いながら、太郎が吠えた。
少年の色が残る、若い男。牙があり、爪があり、尾があり、耳は獣、瞳は金銀妖瞳――半人半妖の姿になっていた。
「我らがわかる? やはり同族か」
間違いなく南の妖狼だった。
火羅は唇を噛んだ。炎の使えない今の火羅は、太郎の足手まといになるだけだ。
「金銀妖瞳……北の太郎か」
忌まわしき瞳に怯みかけた南の妖狼達は、何とかその場に踏み止まった。
「その紅髪……随分と弱々しいが西の火羅だな」
どこかで会ったことがあるのだろう。南と東とはそれなりに交流があり、大抵は火羅の仕事だった。
南が単独で動くことはないと火羅は思った。
孤高に生きようとした北の妖狼、火羅の卓越した政治手腕で勢力拡大を図った西の妖狼。
主を失い、四方に散った妖狼の生き方は様々だった。
南の妖狼は――忍びを生業とした。
頼まれれば何でもやる。
望まれれば殺しもする。
自分からは動かない。
「どうする?」
「他の奴らに手柄取られっぞ」
「他にもいるのね」
何匹なの、主不在の鬼の城に乗り込んだのは。
「狙いは鬼の王の娘だしな」
火羅は身を震わせ、太郎は怒気を発した。鬼の王の娘の傍には、二人にとって一番大切な少女がいるのだ。
「妖猿に敗れた北に、妖狐の下に就いた西……この二人は妖狼の恥の象徴だ。殺せ」
「おう」
「そうだな」
二匹の姿が火羅の視界から消える。
空気を裂く音は聞こえた。姿は見えない。動きが捉えられない。風が火羅の紅髪を巻き上げる。爪がきらきらと軌跡を描く。驚くほど俊敏だった。それで鬼達も殺されたのだろう。力があれば炎で焼き尽くせる。悔しい。悔しくて堪らない。
地面が窪み、太郎が腕を振り下ろしていた。
頭を砕かれた二匹の狼が窪みにめり込んでいた。
「邪魔なんだよ」
太郎が腕を交錯させると、空気がぱんと破裂した。
巨大な風の刃が岩の壁を砕き、残った一匹を切り裂いた。
全身を裂かれた妖狼は、一吠えしてぼろ切れのような金色の狼の姿になり、ぱたりと倒れ動かなくなった。
「くそ、誰かが南を雇ったのか。こいつら面倒なんだろ。親父……お袋が言ってた」
「ええ、敵に廻すと厄介な相手ですわ。味方にしたいとも思いませんが」
あまり関わりたくない相手だ。穏健な東の妖狼とは特に仲が悪い。
太郎は鬼達を見やった。争いの跡はない。抵抗する間もなく殺されたのだろう。
「南は何匹いる?」
北は七十、西は五百、東は四百、南は――百五十といったところだろう。
「百五十程度だと思います」
全員でこの城に入り込んだ可能性が高い。少数で鬼の姫を殺せると耄碌してはいないはずだ。
「鬼はこの城にどれだけいるんだ?」
「……千のはずですわ」
四つの支城を考慮の外に置いても、数では圧倒的に鬼が有利だ。しかし、その全員が戦えるわけではない。それに、皆をまとめられる鬼がいない。あの幼い姫では役に立たない。主不在の鬼ヶ城は案外に容易く墜ちるかもしれないと火羅は思った。
「姫様を捜す」
「ええ……私も行きます」
「そうさせてもらう」
火羅を守る。姫様との約束だった。
獣の姿に戻った太郎は、背中に乗れと言った。
火羅は、いいのいいのと何度も確かめてから、おずおずと太郎の背に乗った。妖狼にとって、背中に乗せるということは、大きな意味を持つのだ。柔らかくて逞しい背中だった。かって言い寄ってきたどの妖狼よりも立派で惚れ惚れする。触れてもあまり気分は悪くない。
この妖狼はあの子の物で、この身はあの女の物――わかっていても、少しだけ心が弾んだ。
嫌な予感がして姫様は立ち止まった。
嬉しそうに城の案内をしていた朱桜が、訝しげに姫様を見上げた。
こじ開けようとしている。こじ開けた穴からたくさんの獣が入ろうとしている。
「彩花姉さま、どうしました?」
「わからないけど、戻った方がいいかも」
「彩花姉さまがそう言うなら……あの、私と一緒だとつまらないですか? 私、駄目な子だから、駄目な鬼だから、案内も言葉足らずで」
護衛の鬼達が鋭い視線を姫様に向けた。明らかに敵意を持っている。朱桜は大切にされていて、この眼差しはその裏返しだと、姫様は嬉しく思った。
「楽しいよ。朱桜ちゃん説明上手だし。朱桜ちゃんぐらいの時、私はもっと……」
「もっと?」
今よりもっと太郎の傍にいた。同じぐらい葉子や黒之助や――頭領の傍にいた。
馬鹿なことばかりやっていたような気がする。朱桜の方が大人だった。
「うん、うん、私の方がお馬鹿だったかな」
「彩花姉さまがお馬鹿なわけないです!」
「障子全部に穴を開けて、それでも物足りなくて、壁に穴を開けてみたり」
「……」
「クロさんのお菓子をみんなで勝手に全部食べたこともあります。クロさん甘党で私に甘々だから、あんまり怒らないんだよね」
「うわー」
「代わりに葉子さんに怒られて、葉子さん大嫌い、顔も見たくないって言って……あれは悪いことをしました。世も末という顔になって、本当に悲しそうで、ごめんなさいと私が泣いてしまいましたから。今でもこの手は使いますけど」
「私も同じ手を使うです」
「……あまり変わりませんね」
「そうですね」
「狼姿の太郎さん、白いでしょ。あの白毛に無性に字を書きたくなって、寝ている隙に書いたこともあります。何を思ったか呪符の字をびっしり全身に。凄かったですね、色々な意味で」
「……」
他愛もないことを話している間も、嫌な予感は繰り返し襲ってきた。
朱桜はまだ城の案内をしたそうだが、早く戻った方がいいと感じ続けていた。
「早く、戻ろう」
「……そんなに、火羅が」
「どうしてそこで火羅さんの名前が」
「だって、だってだって」
「私の勘はよく当たる……朱桜ちゃんも知ってるでしょ」
「知っていますですが」
年長の鬼がこほんと咳をした。
「彩花殿、鬼ヶ城は幾重もの結界の中にあります。今は下界との結びつきを絶ちましたゆえ、近づくことすら不可能。安心して朱桜様と遊行して下さい」
「壊れているのは……結界!?」
「結界が壊れる? そんな馬鹿な」
鬼達が笑おうとした時だった。
風。城の中で、風。血風であった。
白い狼。太郎と違うのは、白い衣を着た妖狼だということだ。
頬に血が飛ぶ。
朱桜の衣にも血が飛ぶ。
鬼の反応は早かった。
妖狼の動きはもっと早かった。
不意を突かれた守り手達は呆気なく死んだ。
「え?」
「白じ!?」
式神を喚ぼうとした姫様の手首を、白衣の妖狼が掴んだ。
細い手首を捻られると集中が乱れ、術が崩れた。
大きく目を見開いた朱桜は、しきりに目を擦っている。
狼は六匹。鬼達の骸を踏み、朱桜を覗き込んだ。
「これを殺せばいいのか?」
「その娘は?」
「さぁ」
姫様が押し倒された。精一杯の力を込めて頬を打つと、狼の眼に嗜虐の色が満ちた。
「馬鹿なことやってると、怒られるぞ」
「少しの遊びは御館様も認めている」
姫様にのし掛かった妖狼の爪が衣にかかる。睨みつけると下卑た笑い声をあげた。
「はぁ、やだやだ、けだもの、最低、馬鹿、阿呆、そんな子供のどこがいいの」
憐れむように朱桜を見ていた女の妖狼が、呆れたように言った。
「かなりの美人だ。少なくともけだもののお前よりは」
「死ね、いいから死ね、馬鹿」
襟元を大きく裂かれると、姫様はあっと胸元を隠した。狼の爪が髪に触れ、荒く獣臭い息が近くなる。
顔を背けると、顎を押さえられ、真っ直ぐに向きを変えさせられた。
「細身だが、綺麗な肌だ。いいぞ、そそられる」
「――!?」
淡い胸の頂がぎりぎり隠れていた。
太郎にもあまり見せたことのない柔肌を、この狼藉者達に――羞恥で身体が熱くなった。顔だけでなく、両腕も頭の上で押さえられた。必死に抗ったが力で勝てるはずもなかった。
「そんな痩せっぽっち……人のくせに綺麗な顔してる。肌もずいぶんと綺麗、髪もいいわ……傷、つけたい。顔を壊してから、殺したい」
「売り物にするべきだ。奴隷として、高く売れる」
「女に生まれたことを怨むほど、弄ばれるのでしょう? 可哀想だわ。私に頂戴」
「この子も可哀想に。王の娘に生まれたばかりに、ここで死ぬのか」
「そっちはひと思いに楽にしてやれ」
「ごめんな、仕事なんだ」
眩しいほどの肌を晒し、羞恥に震えていた姫様が、くつと嗤った。のし掛かっていた狼もつられて笑った。
つられて笑った顔が消える。
先の無くなった首から血が噴き出る。
黒い薄幕。
鬼の娘が向けた手から、その薄幕は伸びていた。
「は?」
朱桜の心臓を抉ろうとした鬼の両腕が消し飛んだ。
悲鳴をあげる前に上半身が消し飛んだ。
骸を軽々とどけた姫様が、身体を起こす。
ぬたりと狼の血を舐めると、戦慄く妖狼と無表情な幼い鬼を見やった。
すぅっと、朱桜は涙を流した。
ずぅっと、小さな身体を黒い薄幕が覆った。
薄幕が弾けるように晴れると、黒い衣にしなやかな身を包んだ艶やかな鬼が姿を見せた。
冷ややかな美しさを誇る鬼だった。
暗い眼差しの鬼だった。
「面白い」
姫様が言った。
黒い薄幕は強い妖気であった。その薄幕が、残りの妖狼を包み込む。
命乞い。
絶望。
じわじわと悲鳴が続く。
暗く成長した鬼の姫は、全てをくちゃりと握り潰した。
薄幕が退くと、子供の頭ほどの肉の塊が残った。
「朱桜ちゃん」
妖艶な笑みが影を潜めていた。姫様は、胸元を隠すのも忘れ、再び遭遇した西の鬼姫を見やった。
「死んじゃった。死んじゃいました。いっぱい死んじゃいました」
冷ややかな表情が崩れ、黒い少女が泣きじゃくる。
衣がはだけるのも忘れ、姫様が細腕でその身体を抱く。
しゅぅと肌が灼ける音がした。幕のような黒色の妖気が姫様を蝕む。
それでも、姫様は抱き続けた。
「死んじゃい、ました……」
抱いた身体が縮んでいく。
幼子は大きな声でわんわんと啼いた。骸の名前を一つ一つ呼びながら。
「狼です。妖狼です。きっとあの女が……殺してやる、八つ裂きにしてやるです」
「……妖狼だから? それだけで、火羅さんが命じたと、関わりがあると? 太郎さんも妖狼ですよ? 太郎さんが私を襲うと? ありえません、そんなこと。絶対にありえません!」
「う……」
姫様の剣幕に呑まれ、すんと唇を噛んだ朱桜が、急に顔色を変えた。
顔を背け、胃の中の物を吐き出すと、
「死んでる」
そう、鬼と妖狼の骸を見ながら、言った。
「妖狼を、私が殺したですか?」
「……ええ」
「殺したですか」
義妹の身体をさらに強く抱き締める。
血の臭いが鼻につく。
鬼と妖狼の血の臭いが。
「彩花姉さま、肌に傷が!」
朱桜が掌を姫様の傷に向けた。何をするのだと思っていると、淡く光った。
小さな掌も、姫様の肌も。
痛みが引いていく。肌についた傷が、跡形もなく消えた。
「これは……」
嬉しそうな顔をした朱桜がよろめいた。姫様は、疲弊した身体を支えると、
「太郎さん」
と呟き、ぎゅっと目を閉じた。
押さえつけられたときの恐怖が蘇ってきた。
死んでよかったと思っていた。
伏した鬼は二十匹余り。
対した妖狼は僅か三匹。
東西南北四方に散った妖狼の、生粋なる暗闘集団。
それが南の妖狼だった。
「同族?」
くんと白頭巾を動かし、鬼の心臓を投げ捨てると、真ん中の一匹はそう呟いた。
「南の妖狼が何やってんだ」
火羅を右手で庇いながら、太郎が吠えた。
少年の色が残る、若い男。牙があり、爪があり、尾があり、耳は獣、瞳は金銀妖瞳――半人半妖の姿になっていた。
「我らがわかる? やはり同族か」
間違いなく南の妖狼だった。
火羅は唇を噛んだ。炎の使えない今の火羅は、太郎の足手まといになるだけだ。
「金銀妖瞳……北の太郎か」
忌まわしき瞳に怯みかけた南の妖狼達は、何とかその場に踏み止まった。
「その紅髪……随分と弱々しいが西の火羅だな」
どこかで会ったことがあるのだろう。南と東とはそれなりに交流があり、大抵は火羅の仕事だった。
南が単独で動くことはないと火羅は思った。
孤高に生きようとした北の妖狼、火羅の卓越した政治手腕で勢力拡大を図った西の妖狼。
主を失い、四方に散った妖狼の生き方は様々だった。
南の妖狼は――忍びを生業とした。
頼まれれば何でもやる。
望まれれば殺しもする。
自分からは動かない。
「どうする?」
「他の奴らに手柄取られっぞ」
「他にもいるのね」
何匹なの、主不在の鬼の城に乗り込んだのは。
「狙いは鬼の王の娘だしな」
火羅は身を震わせ、太郎は怒気を発した。鬼の王の娘の傍には、二人にとって一番大切な少女がいるのだ。
「妖猿に敗れた北に、妖狐の下に就いた西……この二人は妖狼の恥の象徴だ。殺せ」
「おう」
「そうだな」
二匹の姿が火羅の視界から消える。
空気を裂く音は聞こえた。姿は見えない。動きが捉えられない。風が火羅の紅髪を巻き上げる。爪がきらきらと軌跡を描く。驚くほど俊敏だった。それで鬼達も殺されたのだろう。力があれば炎で焼き尽くせる。悔しい。悔しくて堪らない。
地面が窪み、太郎が腕を振り下ろしていた。
頭を砕かれた二匹の狼が窪みにめり込んでいた。
「邪魔なんだよ」
太郎が腕を交錯させると、空気がぱんと破裂した。
巨大な風の刃が岩の壁を砕き、残った一匹を切り裂いた。
全身を裂かれた妖狼は、一吠えしてぼろ切れのような金色の狼の姿になり、ぱたりと倒れ動かなくなった。
「くそ、誰かが南を雇ったのか。こいつら面倒なんだろ。親父……お袋が言ってた」
「ええ、敵に廻すと厄介な相手ですわ。味方にしたいとも思いませんが」
あまり関わりたくない相手だ。穏健な東の妖狼とは特に仲が悪い。
太郎は鬼達を見やった。争いの跡はない。抵抗する間もなく殺されたのだろう。
「南は何匹いる?」
北は七十、西は五百、東は四百、南は――百五十といったところだろう。
「百五十程度だと思います」
全員でこの城に入り込んだ可能性が高い。少数で鬼の姫を殺せると耄碌してはいないはずだ。
「鬼はこの城にどれだけいるんだ?」
「……千のはずですわ」
四つの支城を考慮の外に置いても、数では圧倒的に鬼が有利だ。しかし、その全員が戦えるわけではない。それに、皆をまとめられる鬼がいない。あの幼い姫では役に立たない。主不在の鬼ヶ城は案外に容易く墜ちるかもしれないと火羅は思った。
「姫様を捜す」
「ええ……私も行きます」
「そうさせてもらう」
火羅を守る。姫様との約束だった。
獣の姿に戻った太郎は、背中に乗れと言った。
火羅は、いいのいいのと何度も確かめてから、おずおずと太郎の背に乗った。妖狼にとって、背中に乗せるということは、大きな意味を持つのだ。柔らかくて逞しい背中だった。かって言い寄ってきたどの妖狼よりも立派で惚れ惚れする。触れてもあまり気分は悪くない。
この妖狼はあの子の物で、この身はあの女の物――わかっていても、少しだけ心が弾んだ。
嫌な予感がして姫様は立ち止まった。
嬉しそうに城の案内をしていた朱桜が、訝しげに姫様を見上げた。
こじ開けようとしている。こじ開けた穴からたくさんの獣が入ろうとしている。
「彩花姉さま、どうしました?」
「わからないけど、戻った方がいいかも」
「彩花姉さまがそう言うなら……あの、私と一緒だとつまらないですか? 私、駄目な子だから、駄目な鬼だから、案内も言葉足らずで」
護衛の鬼達が鋭い視線を姫様に向けた。明らかに敵意を持っている。朱桜は大切にされていて、この眼差しはその裏返しだと、姫様は嬉しく思った。
「楽しいよ。朱桜ちゃん説明上手だし。朱桜ちゃんぐらいの時、私はもっと……」
「もっと?」
今よりもっと太郎の傍にいた。同じぐらい葉子や黒之助や――頭領の傍にいた。
馬鹿なことばかりやっていたような気がする。朱桜の方が大人だった。
「うん、うん、私の方がお馬鹿だったかな」
「彩花姉さまがお馬鹿なわけないです!」
「障子全部に穴を開けて、それでも物足りなくて、壁に穴を開けてみたり」
「……」
「クロさんのお菓子をみんなで勝手に全部食べたこともあります。クロさん甘党で私に甘々だから、あんまり怒らないんだよね」
「うわー」
「代わりに葉子さんに怒られて、葉子さん大嫌い、顔も見たくないって言って……あれは悪いことをしました。世も末という顔になって、本当に悲しそうで、ごめんなさいと私が泣いてしまいましたから。今でもこの手は使いますけど」
「私も同じ手を使うです」
「……あまり変わりませんね」
「そうですね」
「狼姿の太郎さん、白いでしょ。あの白毛に無性に字を書きたくなって、寝ている隙に書いたこともあります。何を思ったか呪符の字をびっしり全身に。凄かったですね、色々な意味で」
「……」
他愛もないことを話している間も、嫌な予感は繰り返し襲ってきた。
朱桜はまだ城の案内をしたそうだが、早く戻った方がいいと感じ続けていた。
「早く、戻ろう」
「……そんなに、火羅が」
「どうしてそこで火羅さんの名前が」
「だって、だってだって」
「私の勘はよく当たる……朱桜ちゃんも知ってるでしょ」
「知っていますですが」
年長の鬼がこほんと咳をした。
「彩花殿、鬼ヶ城は幾重もの結界の中にあります。今は下界との結びつきを絶ちましたゆえ、近づくことすら不可能。安心して朱桜様と遊行して下さい」
「壊れているのは……結界!?」
「結界が壊れる? そんな馬鹿な」
鬼達が笑おうとした時だった。
風。城の中で、風。血風であった。
白い狼。太郎と違うのは、白い衣を着た妖狼だということだ。
頬に血が飛ぶ。
朱桜の衣にも血が飛ぶ。
鬼の反応は早かった。
妖狼の動きはもっと早かった。
不意を突かれた守り手達は呆気なく死んだ。
「え?」
「白じ!?」
式神を喚ぼうとした姫様の手首を、白衣の妖狼が掴んだ。
細い手首を捻られると集中が乱れ、術が崩れた。
大きく目を見開いた朱桜は、しきりに目を擦っている。
狼は六匹。鬼達の骸を踏み、朱桜を覗き込んだ。
「これを殺せばいいのか?」
「その娘は?」
「さぁ」
姫様が押し倒された。精一杯の力を込めて頬を打つと、狼の眼に嗜虐の色が満ちた。
「馬鹿なことやってると、怒られるぞ」
「少しの遊びは御館様も認めている」
姫様にのし掛かった妖狼の爪が衣にかかる。睨みつけると下卑た笑い声をあげた。
「はぁ、やだやだ、けだもの、最低、馬鹿、阿呆、そんな子供のどこがいいの」
憐れむように朱桜を見ていた女の妖狼が、呆れたように言った。
「かなりの美人だ。少なくともけだもののお前よりは」
「死ね、いいから死ね、馬鹿」
襟元を大きく裂かれると、姫様はあっと胸元を隠した。狼の爪が髪に触れ、荒く獣臭い息が近くなる。
顔を背けると、顎を押さえられ、真っ直ぐに向きを変えさせられた。
「細身だが、綺麗な肌だ。いいぞ、そそられる」
「――!?」
淡い胸の頂がぎりぎり隠れていた。
太郎にもあまり見せたことのない柔肌を、この狼藉者達に――羞恥で身体が熱くなった。顔だけでなく、両腕も頭の上で押さえられた。必死に抗ったが力で勝てるはずもなかった。
「そんな痩せっぽっち……人のくせに綺麗な顔してる。肌もずいぶんと綺麗、髪もいいわ……傷、つけたい。顔を壊してから、殺したい」
「売り物にするべきだ。奴隷として、高く売れる」
「女に生まれたことを怨むほど、弄ばれるのでしょう? 可哀想だわ。私に頂戴」
「この子も可哀想に。王の娘に生まれたばかりに、ここで死ぬのか」
「そっちはひと思いに楽にしてやれ」
「ごめんな、仕事なんだ」
眩しいほどの肌を晒し、羞恥に震えていた姫様が、くつと嗤った。のし掛かっていた狼もつられて笑った。
つられて笑った顔が消える。
先の無くなった首から血が噴き出る。
黒い薄幕。
鬼の娘が向けた手から、その薄幕は伸びていた。
「は?」
朱桜の心臓を抉ろうとした鬼の両腕が消し飛んだ。
悲鳴をあげる前に上半身が消し飛んだ。
骸を軽々とどけた姫様が、身体を起こす。
ぬたりと狼の血を舐めると、戦慄く妖狼と無表情な幼い鬼を見やった。
すぅっと、朱桜は涙を流した。
ずぅっと、小さな身体を黒い薄幕が覆った。
薄幕が弾けるように晴れると、黒い衣にしなやかな身を包んだ艶やかな鬼が姿を見せた。
冷ややかな美しさを誇る鬼だった。
暗い眼差しの鬼だった。
「面白い」
姫様が言った。
黒い薄幕は強い妖気であった。その薄幕が、残りの妖狼を包み込む。
命乞い。
絶望。
じわじわと悲鳴が続く。
暗く成長した鬼の姫は、全てをくちゃりと握り潰した。
薄幕が退くと、子供の頭ほどの肉の塊が残った。
「朱桜ちゃん」
妖艶な笑みが影を潜めていた。姫様は、胸元を隠すのも忘れ、再び遭遇した西の鬼姫を見やった。
「死んじゃった。死んじゃいました。いっぱい死んじゃいました」
冷ややかな表情が崩れ、黒い少女が泣きじゃくる。
衣がはだけるのも忘れ、姫様が細腕でその身体を抱く。
しゅぅと肌が灼ける音がした。幕のような黒色の妖気が姫様を蝕む。
それでも、姫様は抱き続けた。
「死んじゃい、ました……」
抱いた身体が縮んでいく。
幼子は大きな声でわんわんと啼いた。骸の名前を一つ一つ呼びながら。
「狼です。妖狼です。きっとあの女が……殺してやる、八つ裂きにしてやるです」
「……妖狼だから? それだけで、火羅さんが命じたと、関わりがあると? 太郎さんも妖狼ですよ? 太郎さんが私を襲うと? ありえません、そんなこと。絶対にありえません!」
「う……」
姫様の剣幕に呑まれ、すんと唇を噛んだ朱桜が、急に顔色を変えた。
顔を背け、胃の中の物を吐き出すと、
「死んでる」
そう、鬼と妖狼の骸を見ながら、言った。
「妖狼を、私が殺したですか?」
「……ええ」
「殺したですか」
義妹の身体をさらに強く抱き締める。
血の臭いが鼻につく。
鬼と妖狼の血の臭いが。
「彩花姉さま、肌に傷が!」
朱桜が掌を姫様の傷に向けた。何をするのだと思っていると、淡く光った。
小さな掌も、姫様の肌も。
痛みが引いていく。肌についた傷が、跡形もなく消えた。
「これは……」
嬉しそうな顔をした朱桜がよろめいた。姫様は、疲弊した身体を支えると、
「太郎さん」
と呟き、ぎゅっと目を閉じた。
押さえつけられたときの恐怖が蘇ってきた。
死んでよかったと思っていた。