小説置き場2

山岳に寺社仏閣に両生類に爬虫類に妖怪に三国志にetcetc

あやかし姫~跡目争い(9)~

「朱桜ちゃんの、お姉さん?」
 姫様は、腕の中の幼子と目の前の女を何度も見比べると、形のよい眉を吊り上げ、頬の血を掌で拭った。頬の傷は掠り傷で、一度拭うと傷痕は幽かなものになった。
 顔を露わにした女を食い入るように見つめ、その細首を傾けさせる。
「そのような話を窺ったことは」
 姫様の疑問を遮るように、鬼の女はまなじりを吊り上げ、大きな声を出した。
「姉だよ。私は、鬼の王の娘だ。母は、鬼の王に慈しまれたことを、誇りにしていた。なのに……あの男は腐っている、冷酷な男だ。十年も前に姿を消し、母が病に倒れても、どれだけ逢いたいと願っても、決して顔を見せなかった。角のある私を育てるために、人である母さまがどれだけ苦労されたか……お前に、わかるか!?」
 火羅は、茨木童子を倒した者に対する彩花の予言じみた言葉の意味が、やっとわかった。
 女は人と妖の混じり子。恐らくあの金色の棒に神が関連しているのだろう。どこぞの武神の持ち物なのかもしれない。
 酒呑童子の好色なこと甚だしいと聞いたことがある。
 稀に見る貴公子だった。通う女は数知れず、人も妖も神も弄んだ。燃やした恋文の呪いを受けたと揶揄されるほど浮き名を流した。
 子供もたくさんいたことだろう。
 朱桜一人というのがおかしいのだ。
 目の前の女も子供の一人。太郎や彩花は、親子喧嘩のとばっちりを受けているに過ぎない。世を動かす――妖の世も人の世も神の世も動かす、親子喧嘩だ、跡目争いだ。
 左の瞼が腫れ、狭まった世界で繰り広げられているのは、そんな物語だ。
「それは、真なのですか?」
 姫様は、不思議そうに言い、掌を舐めた。
 太郎の傷を舐めていた火羅のように、掌についた自分の血をひちゃりと舐め取った。
「私には信じられませんが」
 火羅はびくりとした。佇まいに変化はない。衣が所々破れ、きめの細やかな肌が覗いている。胸元が大きく裂けていて、薄桜色の頂が見えそうだ。柔らかな腹部が晒されている。道中、襲われたのか。頬の掠り傷以外、目立った怪我はない。襲われたが、朱桜が返り討ちにしたのだろう。
 朱桜だ。
 戸惑いながら、姫様の顔を窺った。
 鬼の女だけを見つめている。毅然として、清らかで、嘲るような妖しさはどこにも感じられない。火羅と違い、艶やかな髪先まで活力に満ち、惚れ惚れするほど凛々しかった。
「……お前に話しても、意味はない。その鬼を、渡せ」
 鬼の女の我慢は限界に達している。
 早く朱桜を渡してやれと火羅は叫びたかった。胸を掻きむしるが、声は喉に粘ついて、一つも出てこない。女の妖気に圧倒されている。
 彩花の揺るがぬ落ち着きが頼もしく、もどかしかった。
 そんなことをするわけがないと理解していても、恐怖には抗えなかった。
「お前に何がわかる。人と妖の混じり子が、どのような扱いを受けるか……そんな私が、王になる。素晴らしい復讐だよ。父が大切にしているものを、全て粉々にしてやる。私達を捨てた父への、復讐だ」
 最後の方は聞き取りにくかった。
 自嘲するように笑っていた。
 火羅は、ふっと自分が女と溶け合ったような気がした。似ている。火羅も、父に棄てられ、彩花に心身を託した。女のように復讐の念に縋っても、おかしくはなかった。偶々、そうしなかっただけだ。
 棒が唸りを上げた。
 女が距離を詰めた。
 神気を帯びた金色の棒が、真っ直ぐに姫様の頭に落とされた。
 火羅は、彩花が、死んだと思った。
 避ける素振りを全く見せなかった。幼子を抱えたまま、不思議そうに、太郎の血の付いた棒を受けた。
 あやかし姫と謳われても、彩花が、人が、妖に、茨木童子をも倒した鬼に、抗えるわけがないのだ。
 彩花は、朱桜と一緒に、死んでしまった。
 頭が真っ白になった。次は、激情だった。
 爆発した激情で、真っ白な頭はいっぱいに満ちた。
「いやだ、いやだぁぁぁあ!」
 涙が出た。
 叫んでいた。
「さ、彩花さん、彩花さん、駄目、貴方がいなくなったら、私は、どうすればいいの!」 
 濛々と湧く、鬼ヶ城の残骸。
 女の棒の凄まじさを物語っている。
 火羅の疑問に応える者はいなかった。
「嘘……」
 彩花は玉藻御前を退けてくれた。
 彩花は阿蘇の火龍の亡霊から救ってくれた。
 彩花は孤独だった火羅を友達だと言ってくれた。
 何もかも失い拠り所のなかった火羅の中心になってくれた。
 生きる意味を与えてくれた。
 だから、そんな簡単に、死ぬわけがない。
「へん、返事、してよ。ふざけないで。悪い冗談は、やめてよ」
 でも、あれは、彩花であって、彩花でなくて、だから、彩花は。
「太郎さんも、葉子さんも、黒之助さんも、朱桜も、皆、貴方をあんなに愛してるのに、肝心の貴方がいなくなったら……駄目じゃない」
 女の影。
 鬼の女。
 彩花ではない。
 棒を担いだ、あの女だ。
「影も形もなくなってしまったのか……力を使いすぎだ、馬鹿者」
 火羅は、ふらと、壁にもたれかかった。
 全身が弛緩していた。
 涙は止め処なかった。
 顔を覆い、髪を振り乱した。
「いやだぁ……いやだぁ……いやだぁ……」 
 彩花がいなくなってしまった。
 そんな日が来ることは、わかっている。わかりきっている。自明のことだ。生命力に充ち溢れた彩花も老いからは逃れられず、何時か妖達を残していく。それでも良かった。一緒にいたかったし、一緒にいることを許してくれた。
 でも、それは、こんな、ここじゃ、ない。
「いやだぁ、いやだよぉ……彩花さん」
 激情が鎮まっていく。後に残るのは、ぽっかりとした喪失感だ。
 城の破片。鋭くなっていて、刃物のようだ。手に取った。首に当てた。血の雫が生まれ、大きくなる。
 力無く嗤った。
 いやだぁと泣きじゃくりながら、そうすればいい、そうしようと決めていたのだと思いだし、嗤った。
「彩花さん、赤麗、その……私と、仲良くしてね、お願い」
 喉を掻き切ろうとした。出来なかった。手首を握り締められていた。
 自害も許されないのか。後を追うことも出来ないのか。悔しくて、悔しくて、目を瞑った。
「駄目ですよ、火羅さん」
「……?」
 恐る恐る目を開けると、彩花が、困ったように、微笑んでいた。
「そんな危ない真似、してはいけません」
 子供を嗜めるように、姫様は言った。
 からりと――火羅は破片を落とした。
 不思議なほど素直に頷いていた。
 彩花しか見えていなかった。
「朱桜ちゃんと太郎さんのこと、宜しくお願いします」
 幼子が火羅の隣に置かれた。
 その時、身体を抱き締められた。暖かな抱擁だった。彩花の細い両腕が背中に回されている。
「あとでまた可愛がってあげます。だから、二人のこと、しっかりと見ていて下さい」
 背中を撫でながら、姫様がそう耳打ちした。
 火羅の左目に唇が触れる。
 傷口を舌がゆっくりと這っていく。
 とてもくすぐったかった。そっちに気を取られ、姫様の言葉の意味がわからなかった。
「骨の髄まで蕩けさせてあげますよ」
 頭の奥にじんわりと甘い刺激が湧いた。
 背中の火傷が疼き、肌の火照りが昂まった。
 赤い華、嬌声、冷たい肌、熱い吐息、貪る唇、蠱惑的な瞳、蛇のような白い指、執拗に火傷を嬲る舌、転がされる乳房の頂き、まさぐられる醜い傷痕、意識を失い波立つ身体、絶頂の度に物足りぬと注がれる唾、誇りも意地も理性すら捨て去り全てを委ねた深い悦楽――昨夜の痴態を思いだし、火羅は右目を見開いた。
 淫らな宴を、何故、語る? 
 それは、紛うことなく、彩花の顔なのに。
 彩花の顔のはずなのに。
 あの妖艶さはないのに。
 雪のように白い肌、清楚な佇まい、綺麗な顔立ち。
 火羅の知っている、火羅が思い描く、たった一人の友である彩花なのに。
「さ、さ、さ、」
 抱擁が終わり、朱桜の肩が火羅の肩に触れる。
 たおやかな手つきで幼子の位置を整えると、火羅の膝の上に頭を乗せた太郎を愛おしむように撫でた。
「彩華は彩花で、彩花は彩華、境目は朧に、境界は融け合い、あってないようなもの……火羅が毀れる様を見るのは、楽しいですよ」
 くつ、くつ、くつ。
 あの子の声で、あの女が嗤っていた。
「彩花、なの? 彩華、なの?」
 声は震え、上擦っていた。黒い大きな瞳が、火羅を覗き込む。怯えながら、上目遣いに見やる。
「火羅さん、私がわからないんですか? 私の後を追おうとまでしてくれたのに?」
「彩花さん、彩花さんだぁ」
 赤子のように火羅が手を伸ばすのと、姫様の身体が足下から蝶になっていくのとは、同時であった。
「私は、彩華ですよ。そう、お前が名付けたのに」
 姫様が火羅を見下ろす。その身体は、腰まで、黒く蒼く紅く金色の蝶に変じていた。蝶の群れの中に、姫様の半身がぼんやりと浮きあがっていた。
「……あ、ああ。あああ!!!」
 彩花の声で、姿で、彩華が、あの女が――それは、火羅を毀すに、十分であった。
 彩花と彩華は別人――そう思いこむことで、精神の危うい均衡を保っていたのだ。
 昼に戯れ、夜に肌を重ねることを、肯んじてきたのだ。
 姫様は、くつ、くつと、嗤いながら、呆気にとられている鬼の女に目を向けた。
「火羅を、太郎を、よう、可愛がってくれたな……許さぬよ。火羅は妾の物なのに、紛い物風情が」
 瞳が、紅く、金色に、輝いていた。