あやかし姫~跡目争い(10)~
「何なのさ、この騒ぎは」
鬼ヶ城に、血の匂いがたちこめたのは、突然のことだった。
葉子は、すぐに部屋を飛び出し、姫様達と合流したかったが、思い直してその場に留まった。
意識のない茨木童子と動転しっぱなしのやまめを置いていくことが、どうしても出来なかったのだ。
「私がここに来たから……ごめんなさい、あそこにずっといれば良かった」
茨木童子に縋りつき、またやまめが泣いている。
そんなやまめを置いて姫様達を探しに行けば、きっと幻滅されるだろう。
それに、妖としての力をほとんど失った葉子がいても、足手まといになるだけだ。
「しっかりするさよ。やまめがそんな調子じゃあ、茨木童子様も、おちおちぐっすり寝てられやしない」
姫様の傍には朱桜とその護衛がいる。
火羅には太郎がついている。
大丈夫だと繰り返し自分に言い聞かせる。
この部屋には、強い結界を敷いてあるので、今のところ自分達の身は安心であった。
慌てふためいた鬼達が次々と姿を消し、誰も部屋に残らなかったことが、鬼ヶ城の混乱ぶりをよく表していた。
「私が死ねば起きられるのでしょうか……」
今にも首を括りそうで、葉子はげんなりした。
「そんなわけないさよ」
「……残念です」
ぐずとやまめが鼻水を啜る。
笑うとなかなか愛らしいのに、勿体ないなと葉子は思った。
「いやいやいや。やまめがいなくなったら、茨木童子様、悲しむし」
「そうでしょうか」
「そうさよ」
「……だと、嬉しいです。でも、私と出会ってから、辛いことばかりで……そろそろ、忌み子の私に疲れてきたのでは」
「いやいやいや」
鈴鹿御前や火羅と似た性格なのかなと、葉子は思った。
「優しいですね、こんな私に。金銀妖瞳を持っているのに」
「慣れてるからね」
「茨木童子様も、そうでした。この瞳のことを、最初から嫌わないでいてくれました。そんな方は、生まれて初めてで、だけど、あの時も、無様な姿を見せて、茨木童子様を苦しめることになって、結局私は、最初から……でも、会わない方がいいと思っても、あの方は、少ない時間を割いて会いに来てくれて、ただただ慈しんでくれて、一緒にいない方がいいとわかっているのに、辛くて辛くて」
葉子は、うんうんと頷きながら、あまりわからないなと思った。
傍にいるのに、やまめの言葉が遠く聞こえる。
だから妹に憎まれるのだろう。
胸に広がる苦い思いを、葉子ははっきりと感じていた。
なずなと最後に会ったのは、古寺に預けられる前、あの忌々しい宝玉を盗もうとした黒之丞と一緒に捕らえられてすぐのことだった。
平静だった。平静を装っていたように、思う。
短く、別れを告げた。
あれから会う機会はなかった。
会うと、楽しかった時間を思い出すから。
「黒之助は、強いね」
薙刀を受けた錫杖が悲鳴をあげていた。
白装束の天狗は強かった。気を抜けば、あっというまに斬り捨てられる。よほどの修練を重ねてきたのだろう。
「どうして、まだ、鴉天狗なんだろう?」
一旦、離れる。離れ際に、薙刀が腕を掠めた。
傷口に目を向けたなずなは、あの時のような顔をしていた。
「大天狗様、おかしいよね。こんなに強いのに、私達、どうして山の主になれないんだろう」
肩で息をつく。
黒之助は、天狗になることを拒んでいた。
天狗になれば、どこかの山の主になり、古寺に別れを告げなければならなくなる。それは、嫌だった。姫さんが来てからは、その思いがいっそう強い。太郎と同じだった。太郎も、郷里に戻ることを、頑なに拒んでいる。
葉子と火羅とは違い、黒之助と太郎には帰る場所があった。
「天狗になってどうするのだ?」
「……今より、ましな扱いを受ける。もう、あんな思いは、嫌だ。黒之助……お前が、いてくれたら」
牢を破った黒之丞を捕らえに来た、若い天狗の威圧的な態度を、黒之助は思い出した。
昔とは、天狗になる意味合いが違うのかもしれない。
ああいう輩は天狗になれなかった。黒之助もその一人だ。
「もう少し、違った未来が」
「なずな殿!」
若い鴉天狗が、引きつった表情で駆け込んできた。
「ば、化け物が、仲間は、ほぼ、全滅して」
強い妖気が、黒之助の肌に触れた。
「姫さん?」
思わずそう口にしていた。
天狗が、妖狐が、妖狼が、鬼が、入り交じったような妖気だった。
姫様の発する気配と似ていた。
「仲間が全滅? そんなことが……」
すっと、生温い風が奔った。
若い鴉天狗の頭が地面にめり込んだ。
「すまない、踏んだ」
涼やかな少女の声だった。
黒之助となずなは、同時に息を呑んだ。
百鬼夜行が、そこにいた。
「源頼光の刀、渡辺綱、推参」
長い黒髪を靡かせながら、金色の棒を軽やかにかわしていた。
鬼の女が焦っている。
彩華は楽しそうだった。それが、ふと、冷ややかな顔付きになった。舞いのような柔らかな動きが、ぴたりと止まった。
「もう、飽いたぞ。お前、そんなに強くないな。それでは喰い甲斐がないではないか。せめてこの程度は欲しいものよ」
彩華の左半身が黒い霧となり、そこからぬっと白虎が脚を踏み出した。
首のない、左の前脚のない、白虎だった。
「白刹天……」
火羅は、左目を押さえながら、言った。
豪傑と謳われた妖虎の、哀れな末路だった。
もしかしたら、自分もこうなっていたのだろうか。
彩華は火羅も喰おうとしていたのだ。
虎の隻腕と金色の棒が打ち合いを始める。白刹天の残骸が押し気味だった。
左目から手を離す。さっき彩華に舐められてから、傷の痛みが軽くなった。癒してくれたのだろう。気紛れに見せる女の優しさが、火羅は恐かった。
胸が切なくなり、彩華とずっと一緒にいたいと思ってしまう。
「……他愛もないなぁ」
太い脚で鬼ヶ城の壁に押しつけられた鬼の女は、身動きがとれなくなっていた。
決して弱くはない。彩華が強すぎるだけだ。あの金銀九尾の大妖すら退けたのだ。
ただ、違和感はあった。この程度で本当に、茨木童子を倒すことが出来るのだろうか。
「おい、何時までわしを遊ばせておくぜよ」
「まだだ……私は」
「いやいや、これは、主様では勝てんぜ」
「もう少し待て。今、私が」
「……それ、面白いな」
彩華がにぃっと嗤い、鬼の女に語り掛ける金色の棒を指差した。
綺羅綺羅とした、火羅を弄ぶときに見せる、純真無垢な瞳の輝きがあった。
少し、鬼の女に嫉妬した。
小娘のようだと、火羅は思った。
何百年と齢を経たはずなのに。
「何がある? 何が出来る? その、玩具は? 妾をどう楽しませてくれる?」
棒から、腕が伸びた。太い、獣の腕だ。両の掌で白刹天の身体を挟むと、押し潰し、霧散させた。
彩華が首をのけぞらせ、悲鳴をあげた。
火羅は、よたよたと、四つん這いで、彩華の傍に寄ろうとした。
「なんてな。火羅、妾を、心配してくれたのか?」
「……違うわ」
「……うい奴よ」
彩華が微笑を浮かべた。黒い霧に変じていた半身が、元に戻っていく。
「だから」
反論しようとしても、彩華に駆け寄ろうとしたのは事実だった。
何事もなかったかのように嗤っている彩華の姿に安堵しているのも、事実だった。
火羅は、太郎の頭の位置を整えると、彩華の後ろに目を転じた。
金色の棒から、何かが出てこようとしている。
神仙に近い獣――その何かは、まさしく、彩花の言葉通りであった。
「主様では話にならん。あの鬼の時と、同じだて」
猿であった。極彩色の武具で身を固めた、金色の猿だ。
赤ら顔の、金色の毛の、色鮮やかな縁取りを目の下に施した、尾の長い、猿。
くるりと回転すると、棒を構え、派手に見得を切った。
「ここからは、わしが相手にするぜよ――この、美猴王がよ」
「ああ、お前は、そこの紛い物よりも、楽しめそうじゃな」
鬼の女が、悔しげに壁を叩いた。
「紛い物だと。半妖だからといって、お前も、馬鹿にするのか」
「違う。お前は、鬼の王の娘ではない。朱桜とは、ものが違う」
火羅は、思わず頷いていた。
朱桜の鬼の姿には、認めたくないが、腹の底が冷えるような威厳と畏怖があった。
鬼の女には、それがない。
美猴王と名乗った猿には、それがあった。
「だまれ! この瀧夜叉を、どこまで愚弄すれば気が済むんだ! お前達など、お前達など」
「瀧、夜叉……黒夜叉に、縁のある者か」
「あ……誰だと?」
打ち捨てられていた星熊童子が、首をもたげ、そう、言った。意識を取り戻したらしい。
「いいや、そうだ。誰かに似ていると思っていた。お前は、黒夜叉に似ているのだ、瓜二つなのだ」
「黒夜叉……」
火羅は、黒夜叉という名前に聞き覚えがあった。
四天王を越える地位に就いただけでは飽きたらず、茨木童子が鵺に敗れたのを好機として謀叛を起こした鬼だ。
「良き僚友であり、憎い裏切り者の、黒夜叉だ」
「違う、母上は、鬼の王の妻と、鬼の王の娘と」
「黒夜叉は、鬼の王になろうとして、酒呑童子様に討ち果たされた」
鬼の王――母は、酒呑童子とは、決して言わなかった。
そんなわけが、あるものか。
そんなわけが、あるものか。
私は、何のために、ここまでやったのだ。
「火羅殿、朱桜様は?」
「……無事だと思うわ」
ほっとした星熊童子の姿が消え、朱桜の傍らに現れた。それほど傷は酷くないようだ。気遣わしげに覗き込み、また、ほっとしていた。
ふと、朱桜が羨ましくなった。
火羅が手に入れられなかったものを、朱桜は持っている。何故だろうか。朱桜が、西の鬼のために、何かをしているようには思えない。自分と何が違うのだろうか……どうして、自分には、赤麗しかいなかったのか。あんなに頑張ったのに。一人で頑張ったのに。心身を磨り減らして尽くしたのに。
毒の匂を感じ、肩から腹にかけて、肌が沫立った。
まだ身体が覚えている。
生きたいと願い、すぐさま訪れた絶望を。
彩華の手が、金銀の霧に変じていた。
「さて、妾と、戯れようぞ」
「わしの勝手にやらせてもらうぜよ」
「待て、美猴王、待つんだ!」
「ぬぁあ」
あっという間だった。
困惑の表情を浮かべた鬼の女の首筋に、金と黒の紋様を肌に浮かべた鬼が噛みつき、少なからずの距離を持っていった。
その鬼は、涎を垂れ流し、瀧夜叉の首に噛みついたま、対峙している彩華と美猴王を、焦点の合わぬ瞳で見やった。
それは、虎熊童子だった。
「あぐ、あぐ」
毀れた、虎熊童子だった。
鬼ヶ城に、血の匂いがたちこめたのは、突然のことだった。
葉子は、すぐに部屋を飛び出し、姫様達と合流したかったが、思い直してその場に留まった。
意識のない茨木童子と動転しっぱなしのやまめを置いていくことが、どうしても出来なかったのだ。
「私がここに来たから……ごめんなさい、あそこにずっといれば良かった」
茨木童子に縋りつき、またやまめが泣いている。
そんなやまめを置いて姫様達を探しに行けば、きっと幻滅されるだろう。
それに、妖としての力をほとんど失った葉子がいても、足手まといになるだけだ。
「しっかりするさよ。やまめがそんな調子じゃあ、茨木童子様も、おちおちぐっすり寝てられやしない」
姫様の傍には朱桜とその護衛がいる。
火羅には太郎がついている。
大丈夫だと繰り返し自分に言い聞かせる。
この部屋には、強い結界を敷いてあるので、今のところ自分達の身は安心であった。
慌てふためいた鬼達が次々と姿を消し、誰も部屋に残らなかったことが、鬼ヶ城の混乱ぶりをよく表していた。
「私が死ねば起きられるのでしょうか……」
今にも首を括りそうで、葉子はげんなりした。
「そんなわけないさよ」
「……残念です」
ぐずとやまめが鼻水を啜る。
笑うとなかなか愛らしいのに、勿体ないなと葉子は思った。
「いやいやいや。やまめがいなくなったら、茨木童子様、悲しむし」
「そうでしょうか」
「そうさよ」
「……だと、嬉しいです。でも、私と出会ってから、辛いことばかりで……そろそろ、忌み子の私に疲れてきたのでは」
「いやいやいや」
鈴鹿御前や火羅と似た性格なのかなと、葉子は思った。
「優しいですね、こんな私に。金銀妖瞳を持っているのに」
「慣れてるからね」
「茨木童子様も、そうでした。この瞳のことを、最初から嫌わないでいてくれました。そんな方は、生まれて初めてで、だけど、あの時も、無様な姿を見せて、茨木童子様を苦しめることになって、結局私は、最初から……でも、会わない方がいいと思っても、あの方は、少ない時間を割いて会いに来てくれて、ただただ慈しんでくれて、一緒にいない方がいいとわかっているのに、辛くて辛くて」
葉子は、うんうんと頷きながら、あまりわからないなと思った。
傍にいるのに、やまめの言葉が遠く聞こえる。
だから妹に憎まれるのだろう。
胸に広がる苦い思いを、葉子ははっきりと感じていた。
なずなと最後に会ったのは、古寺に預けられる前、あの忌々しい宝玉を盗もうとした黒之丞と一緒に捕らえられてすぐのことだった。
平静だった。平静を装っていたように、思う。
短く、別れを告げた。
あれから会う機会はなかった。
会うと、楽しかった時間を思い出すから。
「黒之助は、強いね」
薙刀を受けた錫杖が悲鳴をあげていた。
白装束の天狗は強かった。気を抜けば、あっというまに斬り捨てられる。よほどの修練を重ねてきたのだろう。
「どうして、まだ、鴉天狗なんだろう?」
一旦、離れる。離れ際に、薙刀が腕を掠めた。
傷口に目を向けたなずなは、あの時のような顔をしていた。
「大天狗様、おかしいよね。こんなに強いのに、私達、どうして山の主になれないんだろう」
肩で息をつく。
黒之助は、天狗になることを拒んでいた。
天狗になれば、どこかの山の主になり、古寺に別れを告げなければならなくなる。それは、嫌だった。姫さんが来てからは、その思いがいっそう強い。太郎と同じだった。太郎も、郷里に戻ることを、頑なに拒んでいる。
葉子と火羅とは違い、黒之助と太郎には帰る場所があった。
「天狗になってどうするのだ?」
「……今より、ましな扱いを受ける。もう、あんな思いは、嫌だ。黒之助……お前が、いてくれたら」
牢を破った黒之丞を捕らえに来た、若い天狗の威圧的な態度を、黒之助は思い出した。
昔とは、天狗になる意味合いが違うのかもしれない。
ああいう輩は天狗になれなかった。黒之助もその一人だ。
「もう少し、違った未来が」
「なずな殿!」
若い鴉天狗が、引きつった表情で駆け込んできた。
「ば、化け物が、仲間は、ほぼ、全滅して」
強い妖気が、黒之助の肌に触れた。
「姫さん?」
思わずそう口にしていた。
天狗が、妖狐が、妖狼が、鬼が、入り交じったような妖気だった。
姫様の発する気配と似ていた。
「仲間が全滅? そんなことが……」
すっと、生温い風が奔った。
若い鴉天狗の頭が地面にめり込んだ。
「すまない、踏んだ」
涼やかな少女の声だった。
黒之助となずなは、同時に息を呑んだ。
百鬼夜行が、そこにいた。
「源頼光の刀、渡辺綱、推参」
長い黒髪を靡かせながら、金色の棒を軽やかにかわしていた。
鬼の女が焦っている。
彩華は楽しそうだった。それが、ふと、冷ややかな顔付きになった。舞いのような柔らかな動きが、ぴたりと止まった。
「もう、飽いたぞ。お前、そんなに強くないな。それでは喰い甲斐がないではないか。せめてこの程度は欲しいものよ」
彩華の左半身が黒い霧となり、そこからぬっと白虎が脚を踏み出した。
首のない、左の前脚のない、白虎だった。
「白刹天……」
火羅は、左目を押さえながら、言った。
豪傑と謳われた妖虎の、哀れな末路だった。
もしかしたら、自分もこうなっていたのだろうか。
彩華は火羅も喰おうとしていたのだ。
虎の隻腕と金色の棒が打ち合いを始める。白刹天の残骸が押し気味だった。
左目から手を離す。さっき彩華に舐められてから、傷の痛みが軽くなった。癒してくれたのだろう。気紛れに見せる女の優しさが、火羅は恐かった。
胸が切なくなり、彩華とずっと一緒にいたいと思ってしまう。
「……他愛もないなぁ」
太い脚で鬼ヶ城の壁に押しつけられた鬼の女は、身動きがとれなくなっていた。
決して弱くはない。彩華が強すぎるだけだ。あの金銀九尾の大妖すら退けたのだ。
ただ、違和感はあった。この程度で本当に、茨木童子を倒すことが出来るのだろうか。
「おい、何時までわしを遊ばせておくぜよ」
「まだだ……私は」
「いやいや、これは、主様では勝てんぜ」
「もう少し待て。今、私が」
「……それ、面白いな」
彩華がにぃっと嗤い、鬼の女に語り掛ける金色の棒を指差した。
綺羅綺羅とした、火羅を弄ぶときに見せる、純真無垢な瞳の輝きがあった。
少し、鬼の女に嫉妬した。
小娘のようだと、火羅は思った。
何百年と齢を経たはずなのに。
「何がある? 何が出来る? その、玩具は? 妾をどう楽しませてくれる?」
棒から、腕が伸びた。太い、獣の腕だ。両の掌で白刹天の身体を挟むと、押し潰し、霧散させた。
彩華が首をのけぞらせ、悲鳴をあげた。
火羅は、よたよたと、四つん這いで、彩華の傍に寄ろうとした。
「なんてな。火羅、妾を、心配してくれたのか?」
「……違うわ」
「……うい奴よ」
彩華が微笑を浮かべた。黒い霧に変じていた半身が、元に戻っていく。
「だから」
反論しようとしても、彩華に駆け寄ろうとしたのは事実だった。
何事もなかったかのように嗤っている彩華の姿に安堵しているのも、事実だった。
火羅は、太郎の頭の位置を整えると、彩華の後ろに目を転じた。
金色の棒から、何かが出てこようとしている。
神仙に近い獣――その何かは、まさしく、彩花の言葉通りであった。
「主様では話にならん。あの鬼の時と、同じだて」
猿であった。極彩色の武具で身を固めた、金色の猿だ。
赤ら顔の、金色の毛の、色鮮やかな縁取りを目の下に施した、尾の長い、猿。
くるりと回転すると、棒を構え、派手に見得を切った。
「ここからは、わしが相手にするぜよ――この、美猴王がよ」
「ああ、お前は、そこの紛い物よりも、楽しめそうじゃな」
鬼の女が、悔しげに壁を叩いた。
「紛い物だと。半妖だからといって、お前も、馬鹿にするのか」
「違う。お前は、鬼の王の娘ではない。朱桜とは、ものが違う」
火羅は、思わず頷いていた。
朱桜の鬼の姿には、認めたくないが、腹の底が冷えるような威厳と畏怖があった。
鬼の女には、それがない。
美猴王と名乗った猿には、それがあった。
「だまれ! この瀧夜叉を、どこまで愚弄すれば気が済むんだ! お前達など、お前達など」
「瀧、夜叉……黒夜叉に、縁のある者か」
「あ……誰だと?」
打ち捨てられていた星熊童子が、首をもたげ、そう、言った。意識を取り戻したらしい。
「いいや、そうだ。誰かに似ていると思っていた。お前は、黒夜叉に似ているのだ、瓜二つなのだ」
「黒夜叉……」
火羅は、黒夜叉という名前に聞き覚えがあった。
四天王を越える地位に就いただけでは飽きたらず、茨木童子が鵺に敗れたのを好機として謀叛を起こした鬼だ。
「良き僚友であり、憎い裏切り者の、黒夜叉だ」
「違う、母上は、鬼の王の妻と、鬼の王の娘と」
「黒夜叉は、鬼の王になろうとして、酒呑童子様に討ち果たされた」
鬼の王――母は、酒呑童子とは、決して言わなかった。
そんなわけが、あるものか。
そんなわけが、あるものか。
私は、何のために、ここまでやったのだ。
「火羅殿、朱桜様は?」
「……無事だと思うわ」
ほっとした星熊童子の姿が消え、朱桜の傍らに現れた。それほど傷は酷くないようだ。気遣わしげに覗き込み、また、ほっとしていた。
ふと、朱桜が羨ましくなった。
火羅が手に入れられなかったものを、朱桜は持っている。何故だろうか。朱桜が、西の鬼のために、何かをしているようには思えない。自分と何が違うのだろうか……どうして、自分には、赤麗しかいなかったのか。あんなに頑張ったのに。一人で頑張ったのに。心身を磨り減らして尽くしたのに。
毒の匂を感じ、肩から腹にかけて、肌が沫立った。
まだ身体が覚えている。
生きたいと願い、すぐさま訪れた絶望を。
彩華の手が、金銀の霧に変じていた。
「さて、妾と、戯れようぞ」
「わしの勝手にやらせてもらうぜよ」
「待て、美猴王、待つんだ!」
「ぬぁあ」
あっという間だった。
困惑の表情を浮かべた鬼の女の首筋に、金と黒の紋様を肌に浮かべた鬼が噛みつき、少なからずの距離を持っていった。
その鬼は、涎を垂れ流し、瀧夜叉の首に噛みついたま、対峙している彩華と美猴王を、焦点の合わぬ瞳で見やった。
それは、虎熊童子だった。
「あぐ、あぐ」
毀れた、虎熊童子だった。