あやかし姫~跡目争い(17)~
泣き出した火羅をあやすために腕を廻した。
齢に似合わぬ幼い仕草をされると、ついつい甘くなってしまう。
一族を率いる峻厳な姫君の仮面を脱いだ妖狼は、甘え癖のある姫様と対等な可愛らしい――
だけど、姫様の名前を言わなかった。
似た名前を告げ――抱くのと、囁いた。
「火羅さん――」
ぼぉっと上気した火羅の顔は、とても妖しく、とてもとても美しく、艶やかな紅眼に見つめられ、姫様はどきりとしてしまった。
潤んだ瞳が、何かをねだるように、色香を増していく。
着物に焚きつけられた甘い香の匂いと、傷に塗られた苦い薬草の臭いが、鼻腔をくすぐる。
きめ細やかな肌が薄桃色に染まっていた。
涙の痕がうっすらと頬に残っていた。
綺麗な人だと、しみじみと思う。
それは、よく知っている。
お風呂場で、傷の手当てで、葉子さんに負けず劣らず立派な肢体を見せつけられている。
見比べ、落胆し、嘆息し、感嘆していた。
火羅と出会ってから、そんなことを気にするようになった。
それまで、気にするような相手もいなかった。
平坦で貧しく幼い肢体を、誰も自覚させなかった。
毎年柱に刻んだ線が、なかなか伸びなくなったと思うぐらいだ。
火羅が、誘うように、後ろに倒れた。
一緒に倒れた姫様は、何とか手をついてぶつかるのを防ぎ、妖狼と鼻をつき合わせる形になった。
寝具の上に広がった真紅の髪が戦慄くのは、どんな感情の揺れのせいか、きちんと読み切れなかった。
「ふざけないで下さい」
火羅の腕が絡まっていて、身体を離せない。
深呼吸し、気持ちを落ち着け、鷹揚な振る舞いになるよう心がける。
着崩していた衣がさらに乱れ、はだけた胸元から柔らかそうな白い膨らみが零れている。
ふっくらとした唇を淫靡に舐める。
熱い吐息が牙の間から溢れる。
形の良い太股も露わにした半裸の姿は、同姓の姫様にも扇情的に見えた。
「それとも……寝ぼけているのですか?」
お酒は飲んでいないはず。
何かに、例えば朱桜の妖気に、あてられたか。
鼓動は早くなるばかりだ。
「彩華……私」
顔が、近づいた。
息が、唇にかかる。
これは――もしかして、さ、誘われていて、あ、危ういのでは?
夢。
夢じゃない。
寝具はあるけど、それは、その、ね。
ごめんなさい。
太郎さんが、いるのですよー。
火羅さんは、とても綺麗で、可愛くて、大好きだけどー!?
「私は彩花ですよ」
さいはな?
誰と間違っているのか。
いや、間違っているのか。
「それは……私?」
何を言っているのだろう。
悪い冗談だ。
だけど、火羅の表情が、くしゃくしゃに歪んだ。
また、幼子のようになった。
視線が戸惑うようにあちこち彷徨い、胸元を隠すように腕で覆った。
上目遣いの視線が、助けを求めるように姫様に向けられた。
困惑と、哀願と、怯えかな――ほっと安堵し、ちょっと意地悪したくなった。
頬に触れると、逃げるように首を反らした。
それでも構わず指の背で触れると、包帯を巻いた指が重なった。
「選べるわけ、ないのに」
何を選ぶのだろうか。
太郎さんか私をだろうか。
火羅の視線が固まった。
空気がひやりとした。
少し熱いぐらいだったのに。
肌と、そして頭が冷めた。
もう一つ、部屋に気配がある。
もう一人、結界の張った部屋にいる。
禍々しい感情を――強い嫉妬を感じた。
結界が解けた形跡はない。
湧いて出たように、気配は現れた。
金色の妖狼。
まさかと、思う。
「……」
こんなところに鏡を置いていただろうか。
そんなことを、首を傾げた姫様は考えた。
表情が無く、肌が蒼白い。
妬みが感じられた。
妬みと、餓えが。
「やっと、やっと、やっと……妾に、気づいたな」
姫様が、にたりと嗤い、姫様は、口を押さえた。
「火羅、火羅、ようやった。後で、可愛がってやる。好きなだけ、狂わせてやる。さしあたっては……お前を、喰らわねば」
火羅が鏡に近づいた。
鏡の中の姫様が、火羅の肩を噛んだ。
赤い痕を残すと、黒い蝶の群れになって姿を溶かし、また形を定めて姫様を見下ろした。
「駄目……駄目よ。彩花さんが、いなくなったら」
「妾が、いる。そなたには妾がいて、妾にはそなたがいる。ずっと傍にいてやるから、ずっと傍にいるのだ」
首が、ずりと動いた。
火羅をみやり、ずりと一周し、視線を天井にやり、けたと嗤った。
狂喜が滲んでいた。
ああ、鏡なのだと思った。
「……ええ、そうです。私が、喰らわねば」
齢に似合わぬ幼い仕草をされると、ついつい甘くなってしまう。
一族を率いる峻厳な姫君の仮面を脱いだ妖狼は、甘え癖のある姫様と対等な可愛らしい――
だけど、姫様の名前を言わなかった。
似た名前を告げ――抱くのと、囁いた。
「火羅さん――」
ぼぉっと上気した火羅の顔は、とても妖しく、とてもとても美しく、艶やかな紅眼に見つめられ、姫様はどきりとしてしまった。
潤んだ瞳が、何かをねだるように、色香を増していく。
着物に焚きつけられた甘い香の匂いと、傷に塗られた苦い薬草の臭いが、鼻腔をくすぐる。
きめ細やかな肌が薄桃色に染まっていた。
涙の痕がうっすらと頬に残っていた。
綺麗な人だと、しみじみと思う。
それは、よく知っている。
お風呂場で、傷の手当てで、葉子さんに負けず劣らず立派な肢体を見せつけられている。
見比べ、落胆し、嘆息し、感嘆していた。
火羅と出会ってから、そんなことを気にするようになった。
それまで、気にするような相手もいなかった。
平坦で貧しく幼い肢体を、誰も自覚させなかった。
毎年柱に刻んだ線が、なかなか伸びなくなったと思うぐらいだ。
火羅が、誘うように、後ろに倒れた。
一緒に倒れた姫様は、何とか手をついてぶつかるのを防ぎ、妖狼と鼻をつき合わせる形になった。
寝具の上に広がった真紅の髪が戦慄くのは、どんな感情の揺れのせいか、きちんと読み切れなかった。
「ふざけないで下さい」
火羅の腕が絡まっていて、身体を離せない。
深呼吸し、気持ちを落ち着け、鷹揚な振る舞いになるよう心がける。
着崩していた衣がさらに乱れ、はだけた胸元から柔らかそうな白い膨らみが零れている。
ふっくらとした唇を淫靡に舐める。
熱い吐息が牙の間から溢れる。
形の良い太股も露わにした半裸の姿は、同姓の姫様にも扇情的に見えた。
「それとも……寝ぼけているのですか?」
お酒は飲んでいないはず。
何かに、例えば朱桜の妖気に、あてられたか。
鼓動は早くなるばかりだ。
「彩華……私」
顔が、近づいた。
息が、唇にかかる。
これは――もしかして、さ、誘われていて、あ、危ういのでは?
夢。
夢じゃない。
寝具はあるけど、それは、その、ね。
ごめんなさい。
太郎さんが、いるのですよー。
火羅さんは、とても綺麗で、可愛くて、大好きだけどー!?
「私は彩花ですよ」
さいはな?
誰と間違っているのか。
いや、間違っているのか。
「それは……私?」
何を言っているのだろう。
悪い冗談だ。
だけど、火羅の表情が、くしゃくしゃに歪んだ。
また、幼子のようになった。
視線が戸惑うようにあちこち彷徨い、胸元を隠すように腕で覆った。
上目遣いの視線が、助けを求めるように姫様に向けられた。
困惑と、哀願と、怯えかな――ほっと安堵し、ちょっと意地悪したくなった。
頬に触れると、逃げるように首を反らした。
それでも構わず指の背で触れると、包帯を巻いた指が重なった。
「選べるわけ、ないのに」
何を選ぶのだろうか。
太郎さんか私をだろうか。
火羅の視線が固まった。
空気がひやりとした。
少し熱いぐらいだったのに。
肌と、そして頭が冷めた。
もう一つ、部屋に気配がある。
もう一人、結界の張った部屋にいる。
禍々しい感情を――強い嫉妬を感じた。
結界が解けた形跡はない。
湧いて出たように、気配は現れた。
金色の妖狼。
まさかと、思う。
「……」
こんなところに鏡を置いていただろうか。
そんなことを、首を傾げた姫様は考えた。
表情が無く、肌が蒼白い。
妬みが感じられた。
妬みと、餓えが。
「やっと、やっと、やっと……妾に、気づいたな」
姫様が、にたりと嗤い、姫様は、口を押さえた。
「火羅、火羅、ようやった。後で、可愛がってやる。好きなだけ、狂わせてやる。さしあたっては……お前を、喰らわねば」
火羅が鏡に近づいた。
鏡の中の姫様が、火羅の肩を噛んだ。
赤い痕を残すと、黒い蝶の群れになって姿を溶かし、また形を定めて姫様を見下ろした。
「駄目……駄目よ。彩花さんが、いなくなったら」
「妾が、いる。そなたには妾がいて、妾にはそなたがいる。ずっと傍にいてやるから、ずっと傍にいるのだ」
首が、ずりと動いた。
火羅をみやり、ずりと一周し、視線を天井にやり、けたと嗤った。
狂喜が滲んでいた。
ああ、鏡なのだと思った。
「……ええ、そうです。私が、喰らわねば」