あやかし姫~跡目争い(29)~
その怪物の名を葉美は知っていた。
異国の書の中に、古老達の御伽話に、幼き頃の寝物語に、その名はあった。
間違いない。
――混沌だ。
四凶と呼ばれる四匹の怪物の一匹だ。
いや、怪物ではない。
四凶は元来、神なのだ。
この辺りの土地神とは格が違う、天地開明より存在する神だ。
八百万の神々とは異なる大陸の神々も――海を渡り、この島国に攻め入ったのか。
九尾の血が何かを訴えている。
畏れか、怯えか、その捉え所のない感覚は、葉美をさらに混乱させた。
「待、て、待て、待て」
浅ましいと思った。
それでも、そう言わずにはいられなかった。
右手を混沌の前に出し、左手を膨らみ始めた腹の上に置き、
「もう少し、待って。この子が、この子が生まれたら、私は、どうなってもいいから、この子だけは」
助けて下さい――。
そう、平伏した。
「私の命など、惜しくはない。でも、この子に、未だ形もない命に、何の罪が」
弱肉強食はこの世の常とわかっていても、神の情けに縋るしかなかった。
混沌が、言った。
「子供?」
銀毛九尾の亡骸が地に落ちる。
音を耳にするだけで、その姿を見ることはなかった。
「もうすぐ、なの」
「……腹を、裂いて」
「は?」
上目遣いに、混沌を見やった。
「嬰児を、引きずり出して」
身体が、勝手に逃げようとした。
爪が、左脚を地面に縫い付けた。
「お前も、子も、死ぬがいい」
混沌の言ったことが、しばらく理解できなかった。
意識は弛緩し、痛みを感じることもなかった。
熱だけがある。湧き出るような熱が、葉美の頭にゆっくりと届く。
「お願い、見逃して、何でもするから」
「いらない」
「……お前は、お前は! 助けて、助けてよ!」
葉美は、顔をぐしゃぐしゃにしながら、懇願し続けた。
左脚を貫き留めたまま、混沌はしばし眺めていた。
それから、帯と腹の薄皮を一枚裂き、いっそう狂乱する様を見ていた。
面白がるわけでも興奮するわけでもなく、視線をくれるだけであった。
痩せぎすの半人半妖が、地面を搔きながら腹を庇う。
何もかも見透かしたような瞳が、その姿を映す。
拙い鼻歌が聞こえる。
必死になって逃れようとしていた葉美は、嫌な幻聴だと思い、少し動きを止めた。
姉の子守歌に似ているのだ。
姉の背中で、よく、聞いた気がする。
姉は、酷い女だった。
混沌と姉がだぶる。
どちらも、葉美の理解を超えた存在だった。
「葉子ねえ、どうして、私の気持ちが、わかってて」
ふと、疑問に思った。
姉は、葉美の想いを、わかっていたのだろうか。
わかっていたはずだと、これまで考えていた。
木助と葉美を、他の誰よりも傍で見ていたのが、育て親でもあった葉子だからだ。
姉は、面倒見がよく、皆から慕われていて、玉藻御前に目を掛けられていた。
葉美は、何もかも、姉に劣っているような気がしたものだ。
憧れだった姉が、何時の間にか、妬ましい存在になった。
木助の相手を選ぶとき、当然のように葉子も候補に選ばれた。
葉美は、狼狽えた。
葉子は、平然としていた。
自室から出ることすら出来なくなった葉美と違い、葉子は何時も通り過ごしていた。
その余裕も妬ましかったが、あれは、余裕があったのではなく、元から選ばれる気がなかったのではないか。
姉は、母であった。
木助にとっては、そうなのだろう。
ただ、それだけだ。
木助に選ばれ、それでも以前と変わらず親しくする葉子に耐えられなくなり、積もりに積もった怨みをぶつけたとき、姉は驚いていた。
そうだ――姉は、驚いていた。
葉美が理解できないという顔をしていた。
それでも、里を離れた。
気持ちが、少し晴れた。
どこぞの名のある妖に拾われたというと、地団駄を踏んだ。
人の娘と玉藻御前様の間で懊悩する姿に喝采し、玉藻御前に牙を剥いて片腕を失ったと聞くと溜飲を下した。
「結局、私は……惨めだなぁ」
姉は、多分、人の娘と葉美を天秤にかけてくれたのに。
「わからなかったの、葉子ねえ、私の気持ちが……葉子ねえでも、わからないこと、あるの」
浮いた話のない姉だった。
葉美よりずっと長生きだというのに。
考えてみるとおかしな話だ。
葉子に思いを寄せたという話は何度か聞いたことがあるが、葉子が応えたという話も思いを寄せたという話も聞いたことがなかった。
姉は……鈍いのではないか。
いつも人のことばかり気にかけていたから、自分の想いがわからなくなって、そんな女に他人の想いがわかるわけがなくて――そう考えると、とてもしっくりきて、少しだけ許せる気がした。
混沌が顔を近づける。
身体を丸め、腹を抱きながら、葉美は血の気の失せた顔を少しだけ綻ばせた。
「ねぇ、ねぇ、火羅さん。あれは、誰ですか? 葉子さんに、とても似ています」
「葉美……葉子さんの妹よ」
「あれが、妹さん……葉子さんよく自慢してたから、あの人達が死んだら、きっと悲しむよね。もう一つ。あれは、何?」
「……知らないわよ」
九尾ではない。
妖狼でもなさそうだ。
見たことのない妖であり、感じが小太郎に似ていなくもなかった。
「ここは火羅さんの、そう、故郷なんでしょう?」
火羅はぎゅっと口を閉じた。
彩花なら言わないだろうと思った。
「知らないわよ。私がいたときには、いなかった」
「ん――同じ、かな。では、滅すると、しましょうか」
「滅するの?」
「滅しないの?」
「それは」
交渉してみるとかと、火羅は口ごもりながら言った。
交渉ですかと、姫様は微笑を浮かべたまま言った。
「妖というのは、結局力押しですよ」
無茶はしないでと火羅が言うと、姫様ははぁいと返事した。