小説置き場2

山岳に寺社仏閣に両生類に爬虫類に妖怪に三国志にetcetc

あやかし姫~風邪引き~

 呼吸が少し穏やかになったのは、首筋に浮かんだ汗を拭ったからか。
 枕の冷たさを確かめ、姫様はほっと一息吐いた。
 布団の中で身体を丸める火羅の肌は、相変わらずの薄紅色。
 薬を飲んだためか、昏々と眠り続けている。
 書を捲る姫様の目は、火羅の横顔に据えられていた。
 はらりはらりと捲りながら、火羅の寝顔を見続けていた。
  
 
 
 朝、姫様が火羅を呼びに行くと、返事が返ってこなかった。二度三度と声を掛けても起きる素振りがないので、失礼しますと殺風景な部屋に入り、よいしょと布団の中で縮こまる火羅の身体を揺すった。
 姫様も朝は弱いが、火羅は輪を掛けて朝に弱い。起こすのは、姫様の役目になっていた。
 ぼんやりとした表情で起き上がった火羅は、おはよぅと間延びした声を出した。着衣の乱れもそのままに、部屋から出ようとしたので、姫様は慌てて引き留めた。
 そこまではいつものことだった。
 そこからがいつもと違っていた。
 居間に向かう間、会話が弾まなかった。向かい合って座ると、朝餉の箸が進まない。外は雪だというのに、白い肌に汗が滲んでいる。そのくせ肩も胸元も晒していない。鼻をずずっとすすっている。
 風邪の症状に似ていると姫様はぼんやりと考え、本当に風邪なのではと思い直した。
「失礼します」
 尋常ではない早さで詰め寄った姫様に、葉子や太郎が目を見張り、黒之助はしゃもじを思わず落とした。
「な、何!?」
 吐息が鼻をくすぐっても構うことなく、しげしげと観察する。
 火羅の額に手を当てると、熱があった。
「風邪、ですか?」
 ぼっと頬が紅潮したので、姫様は眉間に皺を寄せた。すぐ元に戻ったので、姫様は眉間を柔らかくした。
「……風邪って、あの風邪? まさか」
「でも、熱があるし」
 息も荒いような気がする。
「彩花さんの顔がこんなに近くにあるから……何てね!? 何てね!?」
 確かに近すぎたかと、姫様は距離を取る。距離は大事で、近づきすぎても遠すぎても駄目。ちょっと昂ぶりすぎてしまったようだ。
「口、あーんとしてみて下さい」
 こうです、あーん。
「あー、あーん?」
 牙の間を、目を細め見やる。
「喉が何時もより赤い……手首に触れますね」
「どうぞ」
「脈も早い。きっと風邪です」
 薬の調合があるので、火羅の普段の体調は把握している。
 知る限りの妖狼の病と、頭の中で照らし合わせ、姫様は風邪だと結論づけた。
「ねぇ、私は妖狼よ。妖怪で、その、人じゃないのよ。妖怪も風邪をひくものなの? 病はあるわ。病は、ある。でも、風邪って……ね、太郎様」
「そもそも風邪なんて妖怪はひかないんじゃないのか? 姫様が風邪になって知ったぐらいだし。葉子は、どうだ?」
「……葉美も木助も風邪に罹ったことなかったねぇ。姫様の時は慌てた慌てたって、ま、何時ものことだったさか。クロちゃんは?」
「恥ずかしながら、拙者も太郎殿と同じです。そういえば、朱桜殿も、健やかでござったな」
「……では、火羅さんは、何ですか?」
 むっと、異を唱えた三人が言葉に詰まる。
 火羅の喉がごくりと鳴る。
 一度視線を彷徨わせ、それから、
「薬師なんでしょ?」
 と、固い声を発した。
 猫背になるのを見やり、物事を悪く考えている時の癖だと姫様は思った。
「風邪だと思うけど……その、多分」
「はっきりしないわね」
「妖気に異常はありません。だから」
 人よりもずっと長生で、ずっと頑丈に出来ている妖怪の病は、さして多くはない。
 数少ない病の主因は、存在の源である妖気だ。
 例えば、赤麗の病がそうである。本来、火の妖気を抱く身体の内側その臓腑に、火と正反対の性を持つ水の妖気が生じるようになったため、妖気は相殺し、減衰し、死に至ったのだ。
「妖気が弱ってるから、風邪に罹ったのかも」
 正確には、風邪らしきもの、です。
 風邪と一口にいっても、色々ですから。
「人と変わらないものね」
 そういうこともあるかもと、火羅は頷いた。
「きっと、私のせいだ。昨日、雪遊びしたから……」
 火羅に引き摺られるように外に出て、結局姫様が一番楽しんだ気がする。はしゃぎすぎたのかもしれない。どんなに楽しくても体調が悪くなっては元も子もない。気をつけるべきだったのだ。
「楽しかったもの」
 そう言ってくれたけど、姫様は何度も謝った。
 
 
 
 妖狼の病をまとめた書に何度目を通しても、火羅の症状に当てはまる病は見つからない。赤麗を看た時から、何度も読み返しているので、細部まで覚えているとはいえ、姫様は安堵してしまった。
 安堵は恐怖の裏返しだ。
 如何せん、経験が少なすぎた。人はたくさん看てきたが、葉子も太郎も黒之助も朱桜ですらも、風邪はもとより、病らしい病に罹ったことがないのである。
 怪我ならあった。古寺の三妖は、諍いによる生傷が絶えなかったのだ。ほろほろと泣きながら手当したものだ。そんなことを繰り返すうちに、手当てしなければいけない傷は少なくなった。
 風邪でも人は死ぬときがあり、今の火羅は人と同じだ。
「なぁ、クロ。馬鹿は風邪をひかない、って言うらしいけど、俺達って馬鹿なのかな?」
 暇そうにしていた小さな狼が言った。
「姫さんはよく罹っていたからなぁ」
 同じく暇そうにしていた鴉が言った。
 二人とも、火鉢の傍にいた。
「俺達、馬鹿なのか……」
「拙者が罹ったことはないから、それは迷信でござろうよ」
「……ん?」
「葉子殿も罹ったことはないそうだし、やっぱり迷信でござろう」
「……お前、俺が馬鹿だって言ってるのか? それに、さっき、俺と一緒で恥ずかしいと言ったよな」
「え、今頃気づくとは、やはり馬鹿でござるな? いや、馬鹿に付ける薬はないというのは真に名言」
「おい、お前、」
「太郎さん、クロさん、睡眠の邪魔をするなら出て行って下さい」
「……姫様、だって」
「いや、これは太郎殿が」
「出てけ」 
「葉子の手伝いしてくる」
「拙者もしてきます」
 くつくつと忍び笑いが聞こえ、五枚重ねの布団が揺れた。
 姫様は、居間の戸をきっと見据え、溜息を吐き、目を開いている火羅に顔を向けた。
「起こしてしまいましたか?」
「何時もながら、楽しい方々ね」
 以前は二人のじゃれ合いに身を竦ませていた。
 ここの暮らしに慣れつつあるのだ。
「反省させます」
「太郎様も黒之助さんも、反省してたわ。それに、声、小さかったし」
「ごめんさい」
「あら、二人の代わり?」
「私、力不足だよね」
「……薬、とっても苦かったわ。鼻、曲がりそうだった。鼻が利くって知ってるくせに、嫌がらせ? 酷い人ね」
「う、その、急で、苦めのしかなくて」
 差し出すと、顔を背けた。貴方がそこまで頼むなら仕方ないと四の五の言いつつ、目と鼻を瞑って呑んでいた。
「この枕、ひんやりとして、気持ちいいわ」
「雪を詰めたんです」
 獣皮の袋に、押し固めた雪を詰め、頭の下に入れた。
 額に布を当てても、怯えるように身体を丸め、すぐ落ちるからだ。
「着替えはどうですか?」
「……このままで、いい」
 何度も見ているはずなのに、火羅の裸から、ぞっとする色香を感じることがある。
 布団に入る前、汗を拭うのを手伝っている間、お似合いの、綺麗な人なんだよねと思った。
 葉子には感じた事がないので、不思議と言えば不思議だった。お母さんだからだろうか。鈴鹿御前様にも、魅入られた事はなかった。
「何か食べますか? 蜂蜜大根と卵酒なら、すぐ用意出来ますよ?」
 いらないと火羅は言ったが、葉子さんに持ってきてもらおうと姫様は思った。
「ふん、ずっと傍にいてくれたの?」
 火羅が、柱の影を見やった。
 雪化粧を頂に抱いた山々の後ろに、夕日が落ちる頃合いである。
「そんな、ずっとじゃないですよ」
「貴方のことだから、ほとんどなのでしょう? 居候の分際で風邪なんかひいて、迷惑よね」
 言葉尻が震えたのは気のせいだ。上目遣いの瞳が潤んでいるように見えるのは夕日のせいだろう。
 姫様は首を横に振った。
「迷惑だなんて思ったことないよ。火羅さんと一緒に暮らせて、嬉しいもの」
 悪い事だと、姫様は思った。西の妖狼の里に想いがあるとは知っている。どう取り繕っても、未練は隠し切れていないのだ。
 本心でも言うべきではなかった。
 それでも、本心だから言ってしまった。
「ごめんなさい、私、ごめんなさい」
 風邪をすぐに治せなくて、傷を癒せなくて、その上に酷い失言をする自分が、本当に情けなかった。
 赤麗のことも、妖虎のことも、九尾の事も、朱桜の事も……太郎の事も、情けなかった。
 火羅にとって、自分は、厄災そのものかもしれない。
「馬鹿ね……何言ってるの。私も、今の暮らしが楽しくないわけじゃないし、嬉しくないわけじゃないわ。でも、小賢しい貴方が意味なく気を回してちょっとでも気に病むのなら……手を握ってくれたら、許してあげる。勿論、私が寝るまで、ずっとよ」
「うん」
「……断りなさいよ」
「え?」
「子供じみてるわ。私はね、齢三百を数える歴とした妖なのよ。でも、どうしてもと言うなら、握らせてあげる」
「うん。おやすみなさ……寝るのはや」
 しばらく握っていようと、姫様は思った。