小説置き場2

山岳に寺社仏閣に両生類に爬虫類に妖怪に三国志にetcetc

あやかし姫~火羅、家出する~

 地面に映る影を追い、紅髪の少女は歩を早める。
 着崩した華美な着物、露わになった両肩が上下する。
 紅潮した頬には涙の痕、形の良い眉が忙しなく動く。
 時折はみ出る尾を押さえ、妖狼の姫は彷徨っていた。
「……どこよ、ここ」
 古寺を降り、ふらふらと歩き、いつのまにやら知らぬ場所。
 ねえと人の子に尋ね、今は一人だと思い直し、火羅は立ち尽くした。
 堪えるように唇を噛み、初春の匂いに身を浸す。
「寒い、わね」
 妖狼なのにねと呟き、一人で歩き出す。
 水の匂いがすると思った。
 
 
 
「ひ、一人ですか?」
「悪い?」
「わ、悪くはないです」
 河原に腰を下ろし、水面を見やる。
 風にうつろう川霧の中、頭が浮いていた。
 皿を頭に乗せた、おどおどとした少女――河童、であった。
 名を沙羅といい、あの子の友人の一人である。
「私が何をしようと私の勝手でしょ」
 碧い川面に顔を近づける。綺麗に透き通っていて、川底で落ち着く蟹や忙しない海老の姿が見えた。
「違うかしら?」
「ち、違わないです」
「……これ、美味しいの?」
 爪を伸ばせば届きそうな距離で、ゆっくりと泳ぐ丸々とした魚。
 川の主に似たのと思う。
「太郎さんがよく釣ってます……つ、釣ろうとしてます」
「釣れなさそうねぇ」
「釣れませんねぇ……あ、た、たまには、釣れてます」
 火羅は、太郎様、待つの苦手だものと思った。
 沙羅は、太郎さん、竿を上げないものと思った。
 筋道こそ違うが、釣れないという方向は一致した。
 爪を伸ばそうとし、出来ないんだっけと首を振り、掴み捕ろうかと考える。
 着物が濡れると嫌だから、捕るのはやめにした。
「お、お寺で、何かあったの?」
「あん?」
 お皿が隠れた。
 火羅は、煌めく川面に目を凝らした。
 藍色の糸蜻蛉が、すっと視界を横切った。
 河童の娘が、ちゃぽんと川岸に姿を現す。
 ふくよかだなとぼんやり思う。
「……大したことじゃないわ。大したことじゃないのに、あんなに怒ることないのに」
 沙羅が、火羅の隣に、三角座りした。
「聞きたいの?」 
 膝を抱えた河童の子は、こくんと頷いた。
 
 
 
 今日の火羅は、珍しく早起きだった。
 廊下を静かに、眠い目を擦りつつ台所に向かう。
 ちょっと小腹が空いたので、何かつまもうと思ったのである。
「……早いわね」
 先客がいた。
 はむっと何かを口に含んだ彩花がいた。
 向かい合って、視線が合って、彩花はしばし固まった。
「……んぐ!?」
「ちょ、ちょっと!?」
「ふー、ふぅ。どうしました?」
 薄い胸をとんとんと叩きながら、ぎこちなく彩花が微笑んだ。
「あ、うん。小腹が空いたから、何かないかなって」
「……昨日の残りなら」
「いいわよ。彩花さんが残してたやつでしょ」
「どうぞどうぞ」
「太ったから我慢するなんて……ちょっとお腹に肉が付いても、気にすることないのよ。少し太った方がいいぐらいだわ」
 姫様が唇を釣り上げた。
「食べない」
「え、あの、え?」
「食べないもん。ふ、太ってないもん! これは火羅さんの分!」
「そ、そんなの……な、何で、怒ってるのよ! 私はただ、貴方が心配で!」
「……」
「待ってよ! 待ちなさいよ! 何で怒ってるのよ!」
 湯飲みとお皿を持って彩花を追いかけた火羅は、盛大にすっ転んだ。
「いったぁ……あ」
 お皿も湯飲みも目の前で割れ、中身は台所の土まみれになっていた。
 ひくっと息を呑み、恐る恐る彩花の表情を窺った。
「ごめんなさ……」
 彩花は無言で湯飲みの欠片を一つ拾った。
 倒れたままの火羅に目をくれることなく、欠片の方が大事というように。
「彩花さん?」
「これ……太郎さんが買ってくれたんです」
 噛み締めるように言って、感情を隠すように微笑んだ。
「危ないから片付けますね」
「何、よ。何よ何よ!、私が悪いんじゃないわ!」
「うん」
「そうよ、私は、たまたま」
「うん」
 集めた欠片を抱く彩花に、火羅は言葉を失った。
 失って、立ち上がって、彩花を押しのけるようにして台所を出て――。 
 
 
 
「……私が悪いわよね」
「は、はい」
「はっきり言わないでよ」
「……火羅、さん。あの、彩花ちゃんは、きちんと謝れば、許してくれるよ?」
「もう、厭いて、呆れて、諦めてるんじゃないかしら。だって、私……本当は、あの子にとって」
 それ以上続けられないわねと思った。
 ごめんなさいと、火羅は言った。
「話を聞いてくれて、ありがとう」
「こ、これから、どうするの?」
「もう少し頭を冷やすわ」
「ちゃんと謝った方が、いいよ。火羅さんは、彩花ちゃんの大切な友達だもの」
「へぅ」
 そう言われると、変な声を出して喜ぶ自分がいた。
 彩花の友人だわと、火羅は思った。
 
 
 
「珍しい客人だな」
「どなたさまでしょうか?」
 この森に来たのは初めてである。
 瑞々しい新緑が視界に映える。
 逆さに浮いた細面の男が、神経質にこちらを見やった。
 後ろの小屋から、盲いた女が顔を覗かせていた。
「ふ……ん」
 きらり、きらりと、横に連なる露が、木々の間で光っている。糸が張り巡らされているのだ。身体が少し重いのは、糸が絡まっているからだろう。
 身を捻らせた黒之丞が、ゆっくりと地面に降り立った。
「何のようだ」 
 そう言いながら、手を上下に動かす。すると、身体の重みはなくなった。なくなったが、全部ではなかった。
「用などないのだけれど」
「……ないのか、そうか、ないのか」
「あった方が良かったのかしら?」
「用がないのに、何故、一人でここに?」
「私が一人で出歩いちゃ駄目なの? 私にだって……少しぐらいの自由はあるもの。あの子だってそう言ってくれたもの」
「駄目ではないが……大丈夫なのか」
 蜘蛛の妖怪は、心配してくれているらしい。
 陰気な見かけと違い、心根は優しいのかもしれない。
 彩花と付き合いがあるのだ。
 悪い性ではないのだろう。
「別に、道に迷ってるわけじゃないし」
「この森は迷いやすいですからね」
 琵琶を持った白蝉が言うと、火羅は顔を赤らめた。
「迷ったわけじゃないもの! 西の妖狼の姫である私が、迷子になるわけないでしょ!」
「早くこの森を出た方がいい」
「……ず、随分と、嫌われたものね」
「俺は好きでも嫌いでもないが……お前は、その……あれだろ? 仲が、悪いだろう?」
 火羅は、白蝉を見やった。
 たおやかな容貌の女性である。
 彩花がもう少し大きくなったら、このような姿になるかもしれない。
 人の良さそうな顔をして、火羅を嫌っているのか。
 案外腹黒な女なのか。
「まずいな、約束の時間だ」  
 黒之丞が頭を抱えた。
「約束の時間?」
 火羅は、ひっと悲鳴をあげた。
 殺意を感じたのである。
 膝が笑う。
 怖くて後ろを見られない。
「彩花、さん……怒ってるの?」
「彩花姉様に、怒られるようなことを、したですか?」
 振り返る。
 鬼がいた。
 
 
 
「というわけなの」
 火羅は、琵琶の音が響く中、あらましを伝えた。
 白蝉の膝の上にいた朱桜が、ふぅんと言った。
「酷い女……彩花姉様、可哀想。こういうのを泥棒猫と言うのです」
「そうなのか?」
「そうなのですか?」
 黒之丞と白蝉に問われると、朱桜は口をぱくぱくさせた。
「こ、これから、どうするのですか? まさか、ここにいるわけないですよね? 空気が不味いので早く出て行ってほしいのですよ」
「言われなくても出て行くわ」
 朱桜の傍にいたくなかった。
 犬猿の仲、いつ牙を剥くかわからない。
 牙を失った狼に、対抗する術はないのである。
「待つですよ。彩花姉様に、どう許しを請うつもりですか?」
「そんなの、貴方に関係ないでしょう」
「誠心誠意尽くせば、許してもらえるかもですよ……傲慢な貴方に出来るとは思わないですが。そこで、良い方法を教えてさしあげましょう」
「子供の知恵に、縋れと?」
「私は彩花姉様の妹なのです」
 朱桜が小さな胸を張った。
「彩花姉様の気持ちは手に取るようにわかるです……わかるつもりです」
「本当に?」
「お金ありますか?」
「お金? そんなものないけど」
「ここは贈り物攻勢なのですよ。父上様が言っていたのです。女心を変じさせるには有効な手段だと。湯飲みの一つや二つがなければ、彩花姉様はきっと怒ったままなのです」
「ぶ、物々交換で手に入れろと?」
 今、交換できそうなのは、着物だけだ。
 大切な着物……本当に、大切な着物だ。
 だけど、あの子が許してくれるなら……。
「使うですよ」
 ずっしりと重い巾着を、火羅は受け止めた。
「貴方、これ」
「今日のお小遣いなのです。貸してやるですよ。貸しは重要だと、黒之助さんが言ってました。ふふ、火羅に貸し……んふふ」
 黒い笑みを浮かべる朱桜に、火羅は引きつった笑みを返す。
 朱桜に借りを作るなんて最悪である。
 しかし、背に腹は代えられなかった。
「わかった……貴方の言うとおりにしてみる」
 深々と頭を下げ、火羅はいそいそと庵を後にしようとして、
「村にはどう行けばいいの?」
 そう、顔を俯かせながら尋ねた。
 黒之丞が、面倒そうに指を擦る。
 火羅の眼前に、緋色の糸が現れた。
「この糸を辿っていけばいい」
「ありがと!」
 駈けだした火羅の背中に、朱桜は溜息をぶつけた。 
「火羅はお馬鹿さんなのですよ」
「人の悪口は、言わない方がいいですよ」
「一緒に暮らしてるのに、彩花姉様の気持ちがちっともわかってないのです。だから、お馬鹿さんはお馬鹿さんなのです。そもそも、割れた湯飲みなら……」
 
 
 
「彩花さん、彩花さん」
 彩花は、塵一つない古寺の門前を、一人箒で掃き清めていた。
 顔を上げた彩花は、怒っていないように見えた。
 しかし、油断は禁物である。
 少女は――万華鏡のように変化する。
 だから、細心の注意を払う。
「あの、これ、使ってほしいの」
 素朴な作りの湯飲みを、火羅は差し出した。
 朱桜のくれたお金を全部使って、湯飲みを一つ、手に入れたのである。
「代わりには、ならない。わかってる。そんなの、わかってる。でも……私にはこのぐらいしか出来なくて。許してよ。何でもするから、許してよ。身体で払えば、許してくれる? 私、いいよ。好きにしていい。こんな私の、醜い身体でいいなら、いくらでも.……いいよ」
「……不穏な言葉を聞きましたが……これ、どうしたのですか?」
「買ったの」
「私のために?」
 一瞬顔を綻ばせ、また、眉を顰めた。
「そうよ。これで許してもらえる? ど、土下座すれば、いいの?」
「あのね、火羅さん。朝の件なら、怒ってませんよ」
「嘘よ。怖い顔、してたじゃない。太郎さんの贈り物なのでしょう? 大切な贈り物を、私なんかが壊してしまって」
「直りましたから」
「誤魔化さなくてもいいわよ! 木っ端微塵になったじゃないの!」
「……火羅さん、ここには、太郎さんや黒さんが、いるのですよ?」
「それがどうしたの?」
「あの二人がじゃれ合って……大喧嘩をよくするのは知ってるでしょう?」
「うん」
「そうなれば、古寺だって吹っ飛びます。年中行事です。だから、すぐに直せるよう、この場所には術が施されています。食器にも、です」
 知っていた。
 火羅が暴れてしまったときも、集めて直していた。
「あ……じゃあ、何で、あんな怖い顔を」
「……太って、ないもん」
 彩花が、そう、恥ずかしげに言った。
「太ってないもん」
 火羅が、その場に崩れ落ちた。
「……ばかぁ、彩花さんのばかぁ」
「大切に、しますね」 
 火羅は、泣きながら、馬鹿と言った。