小説置き場2

山岳に寺社仏閣に両生類に爬虫類に妖怪に三国志にetcetc

あやかし姫~跡目争い(38)~

 微笑んでいた。
 黒羽色の衣。漆黒の髪。薄桃色の頬。白く細い両腕を、胸の前で組んでいる。
 嬉しそうに少女は立っていた。
 嬉しそうに、心底嬉しそうに――そう見えるように。
「姫様、なんだろうな」
 太郎は、大顎の奧で、消え入りそうな声を発した。
「はい、もちろん。私以外に、姫様――彩花はいませんよ」
 妖狼の姿を解き、半人半妖の姿になる。
 凛々しい顔立ちの、少年の姿。
 獣の尾。獣の耳。金と銀の瞳。ぺろりと、手の甲を舐める。
 背後に隠れた沙羅が怯えている。怯え、彩花と太郎を見やり、口を開け閉めした。
 小川にも河童がいる。そこからも怯えが伝わってくる。
 もう一度、手の甲を舐めた。火傷が出来ている。大した傷ではなく、治りかけている。火羅の舌の感触を、ふと、思い出した。
 まだ、葉子達は追いつけないようだ。
 姫様がいると感じた。いてもたってもいられず、葉子や黒之助の静止も振り払い、変化する森を突き進んだ。
 理由はないが、確信はあった。
 姫様を、追いかけて、探して、九州までやってきたのだ。
 この距離で間違えるはずがなかった。
 間違えるはずが、なかったのだ。
「俺の知っている姫様は、お前じゃない」
 金咬の首を持ってきた姫様。
 妖狼の首を持って、同じ表情を浮かべていた。
 目の前に、いる。
 だから、そう、言った。
「やだな、太郎さん。変な事、言うね」
 曖昧な地面に、波紋が幾重も浮かんだ。
 沙羅が、太郎の袖を強く握った。太郎は、落ち着いていた。
 少女の姿を目にしてから、気持ちが落ち着いていた。
「いや、俺の知らない姫様だ」
「そんなわけ、ないよ」
 否定の言葉を最後まで聞かず、太郎は視線を動かした。
 火羅がいる。やはり、一緒にいたのだと思った。気配が僅かにあるだけで、あの女の姿はなかった。
 火羅の様子が、おかしい。生気のない、澱んだ目をしている。傲慢で臆病で何事にも一生懸命だった面影は、どこにもない。
 辛いと、思った。火羅のことは、好きだったのだ。姫様と火羅が戯れている姿が、好きだった。太郎によく絡んできたが、嫌いじゃなかった。
 九尾の狐がいる――葉子に似ていた。以前の葉子と、同じ色の髪をしていた。葉子の方が綺麗だったと思った。膨らんだ腹を、腕と尾で隠している。
 姫様がいて――姫様じゃない。
 姿形、表情、仕草、声、匂いだって、姫様だった。
 それでも、姫様じゃない。
「葉子に聞いてみろ。朱桜ちゃんに聞いてみろ。黒之助に聞いてみろ。姫様とは言わないだろう。姫様の顔をした別の誰かと言うに決まってる」
「……どうしてそんなひどい事言うの? 私は、私だよ。彩華と一緒になって、もう、一人なんだよ。姿も、記憶も、ちゃんとあるよ」
 姫様が、眉を潜めた。
 困ったような、悲しげな顔。
 太郎の胸は、何も痛まなかった。
 彩華と一緒になって――きっと、あの女のことだろう。
 おぞましく、艶やかで、寂しげだったあの女と、一つになったのか。
 一つになるというのは、どういうことだろうか。
 白い毛に包まれた耳をくるりと動かした。
 多分、姫様は、別れてしまったのだ。
 人でも、妖でも、神でもないと、よく、言われていた。
 人の、妖の、神のようであったから――ようではなく、人であり、妖であり、神だったのではないか。
 半人半妖というものが存在する。
 朱桜がそうで、死んだ瀧夜叉がそうだ。
 良い言われ方は、しない。境界線にいる者の扱いは、どこでも酷いものだ。
 金銀妖瞳と同じである。そうであるというだけで、忌み嫌われる。
 頭領は、そのことを隠していたのか。そんなことを隠していたのか。信じてくれなかったのか。
 姫様は、人に、妖に、神に――三つに別れたのではないか。
 あの女は、禍々しい――妖怪だった。
 目の前の姫様は、多分――神だ。
 頭の奧で、誰かがそう言ったような気がした。
 また、耳を動かす。頭を動かすのは柄じゃなかった。
 それに、どうでもいいことだった。
 姫様が何であろうと、太郎の好きな姫様は変わらない。
「姿と記憶が一緒でも、姫様じゃない。じゃあ、聞くがよ。姫様――俺の事、好きか?」
 沙羅が、太郎を見上げた。
 火羅の視線が、僅かに、太郎へと向けられた。
 葉美が、遠くの方を見やり、安堵したように瞳を潤ませた。
「彩花は、太郎さんのことが、好き」
 一字一句、確かめるように、姫様は言った。 
 言って、戸惑うように、頭を振った。
 怜悧な瞳。ゆっくりと、頭を上げる。
 その仕草は、本物だと思った。
「それは……お前の気持ちなのか?」
「彩花は太郎さんのことが好き。私は……どうでも、いい? あれ、おかしいな。そんなこと、ないはず。好き、のはずだけど、どうして、何も思わないの? 逢いたいと、思った。逢えて、嬉しかった。あれは、彩花の記憶? 私の想いじゃないの? あんなに、望んでいたのに」
「俺のことだって、葉子のことだって、朱桜ちゃんのことだって、黒之助のことだって、火羅のことだって、頭領のことだって、どうでもいいんだろう? 会いにも、来てくれなかったのは……どうでも、よかったからだろう?」
「ひどい……私は、ただ、楽しくて、楽しくて、見る物全て面白くて、この地がすごく面白そうで、あっちへふらふら、こっちへふらふら、ふらふら、ふらふら、ふらふら……」
 頭領を倒して、笑うことが出来た。
 その声は小さく、太郎には聞こえなかった。
「姫様は、時々、怖い顔をした」
 冷ややかな、顔。
 全てを見通すような瞳。
 虚無を抱いていた。
 『姫様』ともあの『女』とも違っていた。
 姫様が嫌い、恐れていた少女。
「そうなの?」
「お前は、その時の姫様だな。同じ顔をしてやがる」
 敵意が、胸に浮かんだ。淡い、敵意だ。それが、殺意に変わるまで、時間は掛からなかった。
 同じ顔をして、同じ声で喋る分だけ、暗い気持ちは強くなった。
「……つまり、私は、姫様じゃない?」
 少女が、笑みを深めた。
 相変わらず、感情のない笑みだった。
 唇を左右に釣り上げる。
 ただ、それだけだった。
「俺の知ってる姫様じゃない」
「そう、か。そうだね。でも、私も、彩花だよ。彩花――みんなが知ってる、みんなの好きな姫様はね、嫌だったの。色々、我慢してたの。些細な事、大きな事、たくさん、たくさん、心に澱を積もらせて……ついには、抑えられなくなったの。あの女が飛び出して……私も、吐き出された。私はね、我慢したくないの。火羅さんのよく知るあの女みたいに、振る舞いたい」
 太郎さん、好き。
 そう、姫様が言った。
「嬉しい?」
「……どうすれば、俺の好きな姫様は、戻ってくる?」
「さぁ? 彩華が、馬鹿だったんだよ。彩花が、もう一人の自分に気づけば、現世に現れられると思ってしまったもの。彩花は、知らなかった。知ろうとしなかった。私の存在も、彩華の存在も、認めなかった。でも、認めさせた。そんなことをすれば……私だって、こうして現れられる。あの子は、器の蓋だったんだよ。私は、器の中身、あの女は、器の歪み。無理があったんだよ。存在自体に、その在り方に。それでも、よくやっていたし、悪くはなかったし……悪くは、なかったよ」
 火羅が立ち上がった。
 太郎は、その動きも、近づいてくる気配にも、注意を向ける事が出来なかった。
 視線を外すと、白い肌に牙を突き立ててしまいそうなのだ。
 襲うなと、何かが頭の中で訴えかけているので、踏み止まっていた。
 目の前の少女は、気にする素振りも見せない。
「姫様、葉美!?」
「お母さん……妹さんが、心配?」
「彩花姉様……火羅、なの?」
「朱桜ちゃん……どうして仲良くしてくれないのかな」
「姫さん、では、ないのか」
「ああ、クロさん。クロさんも、勘が鋭いなぁ」
 葉子が、葉美の傍に降り立った。
 朱桜が火羅の前に降り立つ。
 葉子も、朱桜も、少女に背を向けていた。
 黒之助となずなが続き、沙羅に何か言いかけて口をつぐんだ。
 美鏡に抱えられた稲荷の末姫が、心配そうに木の上から眺めている。
「姉さん……来て、くれたの? 本当に、来て、くれたの? 私は」
 両腕を伸ばそうとした葉子が、苦笑した。葉美が、顔を歪ませた。片腕で、葉美の身体を抱き寄せると、
「重くなったね」
 そう言った。 
「私も、年を取るもんさよ」
「私は、私は」
 隻腕に触れた葉美は、何度も、私はと呟いた。
「気にする事、ないさよ。好きでやったことさ。そう、娘のために、好きでやったことさよ」
 あの娘のためなら、悔いはないのさ――お前、何故、私の娘の真似をしている?
 そう、葉子は、言った。
 白尾が一つ、その背で揺らぐ。
 白尾の傍らに、八本の影が揺らぐ。
 葉美が、葉子の隻腕を離した。
 許してと、言った。
 葉子は、応えなかった。
「……真似じゃないんだけどな」
「どうなっているのだ? 姫さんと、同じ? いや、この在り方は、まるで……太郎殿?」
「俺に聞くなよ。頭使うの、苦手なんだよ」
 答えはすぐ近くにあるのではないか。
 どうして頭領がいないのだと思う。 
「太郎さん、らしいや」
 くすくすと、声を出して、少女は笑った。
「笑うな」
 朱桜が、低い声で言った。
「同じ顔で、笑うじゃないですよ」
「これだけ揃ったんだよ。楽しいに決まってるじゃない」
「火羅が、彩花姉様の大切なお友達が、こんなに、こんなになってるのに、同じ顔で笑うな!」
 痛むですよねと、朱桜は言った。
 こんな姿になってと、朱桜は言った。
 少女が、きょとんとした。
 荒い息を吐いた朱桜の黒瞳と白目の色が反転する。
 ぴしっと、割れるような音がして、額の角が大きく伸びた。
「黒之助、人の娘と聞いていたが……神、だったのか?」
「ここまではっきりと、神の姿を取った事は、ない」
 自然と、沙羅を庇うように、黒之助は動いていた。
 なずなも、意を察して、沙羅を庇うように立ち位置を変えた。
「姫様と、どうすれば、会える?」
 太郎が、呟いた。
 ふっと、静かになった。
「知らないよ……方法なんて、ないもの」
 少女が、言った。
「だって、みんな、食べちゃったから」
 その瞬間、九尾の狐と、小さな鬼が、少女に襲いかかった。