小説置き場2

山岳に寺社仏閣に両生類に爬虫類に妖怪に三国志にetcetc

あやかし姫~妖狼料理~

 怖い顔をした火羅が、包丁を睨みつけていた。
 大丈夫かなと姫様は、火羅のすらりと白い手元を見ていた。
 握り方は大丈夫。
 猫の手のように指を丸めている。
 うんと火羅が頷いた。
 がつん――姫様は、びくりと肩を揺らした。
 がつん、がつん、ざくり、ざくり――呆れたような、怯えたような、そんな表情を姫様は浮かべた。
「ひ、火羅さん、もう少し、優しく」
 切るというより、叩きつけるという方がぴったりだった。
 まな板が鈍い音をたて、野菜の切れ端が勢いよく姫様の眼前を横切った。
「何!? 危ないから話しかけないでよ!」
「火羅さんの方が危ないよ……」 
 牙を剥いて、眼が怖い。頬についた葉におかしみを覚える。
 野菜をみじん切りにするだけなのに、どうして肩で息をするのだろうと姫様は思った。
「出来たわ!」
「ほ、包丁を向けない!」
「あ、ごめん」
「投げないの!」
「え、あ」
「刃を握らないでー!」
「あ、あうぅ」
「……怪我、ないですか?」
 そろっと足下の薬籠に目を向けながら、姫様は言った。
「ないわ。勿論、ないわよ。当たり前じゃない。さ、次よ次」
「先が思いやられます……」
 そう、姫様は呟いた。
「何か言った?」 
「いえ、はい、次ですね。次は」
「肉、肉斬るわよ!」
「……ちょっと待て」
 すっと目を細めた姫様に、今度は火羅が身を竦めた。
 
 
 
 冷たい井戸水を汲み、昼餉の片付けをしているときだった。
 暗い表情の火羅が、背後に現れたのである。
 俯き、眉間に皺を寄せ、何度も口を開きかけては押し黙った。
 姫様は、赤くなった掌に息を当て、火羅の言葉を待った。
 初冬――空気は一段と冷え、井戸水の透明さが増していた。
 くしゅんと姫様がくしゃみをすると、火羅は意を決したように口を開いた。
 料理をしたいと、火羅に言った。
 私も、彩花さんと同じ、食事をしないと生きていけない。
 なのに、彩花さんや太郎様や黒之助さんに料理は任せきり――それでは心苦しいのだと。
「はぁ」
 姫様生返事。
 古寺の家事は大体姫様がやっている。
 火羅は古寺での生活が短いし、これまでお付きの人に傅かれていた本物の姫君だし、身の回りのことが色々と得意ではなかった。
 絵も楽も書も、惚れ惚れする腕前なのに、家事になるとさっぱりなのだ。
 火羅の部屋の掃除も、姫様が行っている。
 最近、掃くことを覚えたばかりな体たらくであった。
「今日の夕餉は、私に任せてほしいの」
「火羅さんに……」
「あの時のお弁当、美味しかったでしょう?」
 お弁当といえば、一つだけ。
 月光蝶を見に行ったとき、火羅が用意してくれたお弁当は、とても美味しかった。
 そう、あの時のお弁当だけは、とても美味しかったのだ。
 姫様の好きな物が詰め込まれた、月光蝶のように煌めくお弁当。
 あの味は忘れられない。火羅の姿も忘れられない。
 姫様は、火羅は、料理が出来るのだと思った。何でも出来る人だと、羨んで、妬やんだ。
 一緒に暮らすようになって、違うのだとよくよく思い知った。
 家事全般が壊滅的――いや、破壊的だと気づいたのは後々のことだった。
「もしかして、口に合わなかったの? ずっと騙してたの?」
「とても……とても、美味しかったです」
「お願いついで……いえ、こちらの方が、本題ね。彩花さんに、付いてもらえないかしら。その、私は、料理、あまり上手じゃないわ。色々と、教えて欲しいの」
「え」
「駄目なの?」
 火羅が、教えて欲しいと言ったことに、姫様は驚いていた。
 妖狼の姫君は誇り高く、人に教えを請うことをあまりしないのである。
「勿論です」
 火羅の素直な申し出が、姫様は嬉しかった。
 火羅は、形の良い眉を下げ、見るからに気落ちした。
「駄目、かぁ……そう、よね。私なんて、秋刀魚を焼くことも、栗を焼くことも、茸を焼くことも、熊肉を焼くことも、鴨肉を焼くことも上手く出来ないし、生焼きで炭だし、包丁を持てば指が削げるし、煮物汁物は蒸発するし、漬け物は見たことない色になるし……餓えれば、いいんだわ。木の根っこか、土でも食ってるのが、お似合いよね。そう、土はいっぱいあるから、食べ物には困らないわ」
「あの、教えますよ」
「土、美味しいかな……本当? 私なんかに、教えてくれるの?」
「勿論ですよ。火羅さんだから教えるんです」
 手を、握られた。
 火羅は、ぴょんぴょんと跳ねながら、しばらく姫様の手を握っていた。
 少し、冷たかった。   
 
 
 
「ふふ、すごいわ……怪我、してない」
 指をかざし、きらきらとした瞳で見やる火羅。
 対照的に、姫様はげっそりしていた。
 火羅の行動に対処するため、全身の感覚を研ぎ澄まし――疲れたのだ。
 姫様は、不意の物事に、素早く対処出来る方ではない。
 普段から予測し備えておくことで、平静を保ちながら行動が出来るのである。
 太郎や葉子や黒之助はもとより、古寺の小妖の息遣い、遠くにいる沙羅や白蝉の行いが見えるほど、集中に集中を重ねた。
 これほど、一人の人――妖怪に、意識を向けたことなどあっただろうか。
 それなのに、遠くの沙羅がこけるだろうなとわかるのに、火羅の行動は予想がつかず、対処が何度も遅れてしまった。
 怪我をしていないのは、正しく奇蹟。
 一緒にはらはらわたわたし通しであった。
「どう! どう!?」
「あ、うん、何が?」
「何がって……怪我、してないのよ?」
 頭を抱えたくなった。
 違うのだ。
 料理である。刃物を扱うし、火だって使う。でも、あんな風にはならないし、あれはもう論外、料理の範疇を超えている。料理とは何なのか、ちょっと存在を見失いかけた。
「いつも怪我してたの?」
 姫様は、肩を抑えた。酷く凝っていた。肩だけではなく、全身が固まっている。後でクロさんに揉んでもらおうと思った。
「勿論。料理は、戦よ。きっと、太郎様も、毎回毎回辛い戦を」
「戦って……」
 あながち間違いではないと、今日の様子を思い返す。
 傍で教唆した姫様は、さしずめ軍師といったところか。
「ふふ、優秀な軍師のお陰ね。その調子で励みなさいな」
「仰せのままに」
 気分が良くなり、火羅の戯れ言に乗ってみた。
 ちょっと声色を低くして、軍師っぽく言ってみる。
 つまりは頭領みたいな人だろう。
「……彩花さん、よね?」
「は?」
「あ、うん、何でもないわ」
「彩花だよ?」
「彩花さんよね」
 妙な遣り取りだと、姫様は思った。
「その声、似合わないわ」
「そう? あー、あー。普段、出さない声だからかな。唄うの、苦手だし」
「そのうち、唄い方を教えましょうか? 妖狼の歌はいいものよ」
「遠吠え?」
「馬鹿にしてるの? ふ、いいわ、魅せてあげる。せっかくだから、太郎様も誘わないと」
「太郎さんの歌」 
 葉子は、子守歌が得意である。唐風の、どこか切ない歌だ。子供の時はよくせがみ、今も時々唄ってくれる。
 黒之助は、楽や舞が好きで、酔うと披露してくれる。重く低い声はお腹にずしんときて、力強い舞は血が騒ぐというか何と言うか。多分、やんちゃだった時の自分が出てくるのだろう。
「聞いたこと、あるのかな……」
 妖狼の遠吠えなら聞き覚えはあるが、唄というとぴんとこなかった。
「独りもいいけれど、二人の声が重なると、もっといいわ。うん、よかったわ。太郎様と私の声が重なれば、皆、惚れ惚れするでしょうね」
「火羅さん、上手だもんね」
「喉を、磨いたもの。ふふ、私の声に聞き惚れた太郎様が、私の手を取って……んふふふふ」
「……」
 太郎さんは、火羅さんの歌に、感心を示したことないけど……頬が熱くなる歌を、火羅さんが酔った勢いで唄っていたことがる。
 その間、太郎さんは、私と毬遊びを延々してた。
 姫様が毬をていと投げ、狼になった太郎が拾ってくる。
 酔うとそんなものである。
 太郎は、興味があることとないことが、はっきりしている。火羅が上機嫌だから、姫様は何も言わなかった。
「そんな、太郎様、私は、もう、姫君ではないの、ただの小娘……あ」
 姫様は、火羅も、ああいう遊びが好きなんだろうかと考えていた。
 好きそうだと、思った。犬とは違うのだろうが……苦笑を禁じ得なかった。
 何か言いたげな火羅に、姫様は声をかけた。
「最後の仕上げ、しようか」
「火、火を、火を付けるだけね。火は、任せて。得意だもの」
 火羅が、大きく息を吸った。
 そして――姫様が静止する前に、自慢の火を吐き出した。
 
 
 
「う、うぁ、あ、あぐ、うぐ、うぐ」
「焦げちゃったね」  
「焦げじゃ、ないわよぉ、消し炭じゃないの、何で、私は」
 火羅は、泣いていた。綺麗な顔が、鼻水と涙でぐちゃぐちゃだった。膝をつき、背中を思いっきり丸め、肩を両腕で抱いていた。
「怪我がなくて、よかったです」
 そう姫様が、言った。
 小妖達が、後片付けをしている。
 火羅の火は強かった。
 強すぎた。
「美味しい料理、食べて、ほしくて、彩花さんに、迷惑かけてばかりだから、喜んで、ほしくて、なのに、また、迷惑かけて」
「……うん、ちょっと、固いですね」
「そう、固くて……何、してるの」
「今日の夕ご飯」
 これは、卵焼きかなと、じゃりじゃり鳴らしながら、姫様は言った。
「夕餉じゃないわよぉ、無理しなくて、いいわよ。もう、やらない。彩花さんに迷惑かけない。部屋の隅にずっといる。布団から出ない。布団と一緒になる」
「私は、楽しかったけどな。火羅さん、一生懸命で、何だろう……すごく、懐かしくて」
 炭化したお肉は、骨までかみ砕けた。
 程よく黒いおひたしも、食べてみた。
「最初から上手い人は、いないから。私だって、そう……だから、また、一緒に作ろう?」
「迷惑じゃないの? 嫌ってるんじゃないの? 厭ってるんじゃないの? ……嫌わないで、くれる?」
「迷惑じゃない、迷惑じゃない。迷惑だったら、また、一緒に作ろうなんて、言わないです。本当に、楽しかったんだよ」
「わかった……わ」
「もう、綺麗な顔がぐしゃぐしゃだよ」
「あ、貴方のせいよ」
「私のせい?」
「……馬鹿!」