小説置き場2

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あやかし姫番外編~弟子の少年と師の少女~

 小高い丘の小さな庵に、暖かな気配が満ちていた。
 庭で花を咲かせる紅梅に白梅、鶯が朗々たる自慢の喉を披露し、目白が忙しなく枝の間を飛び回る。
 視界を満たす柔らかな光、鼻孔をくすぐる仄かな匂い、肌に触れる穏やかな風、古池の水芭蕉には眠りから目覚めた雨蛙がぽつねんと。
 春真っ盛りな庵の縁側に、少女が一人座っていた。
 襟元緩く肩を晒け出すように着崩した緋色の単衣、薄く赤の入った少し癖のある長い黒髪、匂い立つような妖しい色香と幽かな寂しさを漂わせ、目鼻のはっきりとした美しい顔にくつろいだ表情を浮かべている。
 少女の前には少年が一人。小柄で、上背のある少女よりも一回り小さい。幼さの残る顔立ちは、真剣そのもの、まさに鬼気迫るといった面持ちで、手にした筆を動かしている。
 質素な衣に似つかわしくない大ぶりの筆は、柄に龍の絡みついた逸品であった。少年の使う文房四宝――筆はもとより、硯は獅子の彫り物細やかに、墨は唐渡りの蒼い古墨を用い、紙も贅を凝らしている。世の絵師達が涎を垂らして欲しがるであろう、煌めくような道具の数々に負けないだけの絵を少年は描いていた。
 食い入るように筆を動かし続ける少年の姿を、微笑みながら少女は眺めている。母のような、姉のような、近しい者に見せる、気の緩んだ姿態であった。
 視線に気づき、少年が顔を上げると、柔らかな胸元が見えた。白い柔肌にどうしても慣れない少年が庭に視線を逸らすと、頬の赤みを見逃さなかった少女はころころと鳴る口元を扇で隠した。
 含み笑いを浮かべたまま少女が庭を見やる。
 気を取り直した少年が、墨滴を一つ落とす。息を吸い、筆を離すと、肩を上下させた。
 庭から視線を戻した少女が、ぱちんと扇を閉じると、にじり寄って少年の絵を覗き込んだ。
「まぁ、悪くはないでしょう」
 そう言うと、一枚の水墨画を目の前に翳す。
 描かれたのは、柔らかな笑みを浮かべる少女の姿。
 光が生きているわ――なかなかのものねと、少女は言った。
 少年は、ほっと息を吐き、翳りのない絵になったと安堵した。自分の画風から外れているが、このぐらいの明るさがちょうどいい。朝から何枚も描いているが、表情や背景に影の出た絵は途中で筆を止めた。完成させたのは、この絵だけであった。
「もう少し美人に描いてほしいところね」
 少女にとってはからかいの言葉、照れ隠しの戯れ言である。
「そうしたいけど、俺の腕が悪いから」
 だけど、少年の答えは真剣そのもの。口惜しさが滲み出ていて、少女は次の言葉を喪った。
「……嬉しいこと、言うじゃない」
 満面の喜色、一息置いての衣擦れの音、わっしゃと頭を撫でられる。
 あぐらを掻いたまま、されるがままになる。
 髪を乱されるのは好きじゃないけど、少女には逆らえない。
 一応、少年の師匠なのだ。
「ああ、貴方はこうされるの嫌いだったわね」
「好きじゃないだけです」
「貴方がそう言うときはね、大抵嫌いということなのよ。お見通しなんだから」
 髪を乱すのをやめ、丁寧に撫でつける。
 少女の匂いがする。
 視線を落とし、知らないのだと少年は思う。
「その絵、気にいったのなら、もらって下さい。昼餉のお礼です」
 昼の食材を用意してくれたのは少女、昼の食事を作ったのは自分。
 昔と比べるとましになったらしいが、少女の料理は食べられたものじゃない。
 ちょっと無理やりな理由だが、礼をするのは当然だと自分に言い聞かせる。
「ここは貴方の物置じゃないのよ」
 満更でもない顔で、少女が絵を棚にしまった。
 渡した絵は全て残しているのだと、教えられたのはつい最近のこと。それからは、庵を訪れるたび、絵を残すことにしていた。慰みになるなら、幸いだった。
「飽きないことね。私を描いて、楽しい?」
「先生を描くのは、難しいから」
 難しいが、楽しい。
 風景を描くことが多く、得手でもあった。頼まれでもしないと、人を描くことはない。少女は、例外だった。
「貴方を弟子と認めたことはないわよ。手ほどきはしたけど、ただの気紛れだもの」
 寂しげに少女が言い、少年は口を小さく突き出した。
 気紛れにしてはみっちりと教えてくれた。
 少女の持つ技術を、惜しみなく伝えてくれたのだ。準備だって念入りで、家事や整理整頓が苦手な少女は、時に徹夜明けで教えてくれることもあった。今使っている筆や硯や墨は、少女にもらったのである。
 それでも、自分から師匠とは言わない。
 少年は、視線を逸らす。
 今の――この表情が嫌いだ。だから、翳りのある絵はいつも失敗作にする。あえて画風の違う明るい絵だけを渡す。
「ここに顔を出すのは、控えなさい」
「嫌です」
 即答すると、少女は困ったような笑みを浮かべた。
「いつも、そうね」
 少年は、筆を弄んだ。
「俺は、その、先生、寂しくないの?」
 いつも、そう思うのだ。
 少女は庵に籠っていて、出歩くことは少ない。ここの住人はもう一人いるのだが、滅多に戻ってこない。訪れるのは、自分ぐらいのものである。
 縁に落ちていた白梅の花弁を摘み、庭に落とした。指の細さが、しばらく少年の視界に残った。
「いえ……満ち足りているわ」
 嘘なのか真なのか、少年にはわからなかった。
 雨蛙が池に飛び込む。水面が揺れ、浮かんでいた紅梅の花弁が震えた。
 
 
 
「そろそろ、帰ります。また来ます、先生」
「……貴方のことが心配なのよ。お姉さんのことも、あるでしょう」
「母さんも父さんも、いいって言うし」
「お姉さんはどうなの?」
 少し、苛立った。姉は立派だ。誰もが褒める。立派なのだろうが、自分にとっては口やかましいだけで、寧ろ――最近は好きじゃない。
「姉ちゃんが何と言おうと、俺は俺のやりたいようにやるし、先生を、ま、守ると言うかその、」
 押しつけられるのが、昔から嫌いだ。だから、姉に通うよう言われた山の道場はすぐに辞め、その分ここに入り浸った。あの頃はまだ良かった。近頃の押しつけは激しすぎる。だから、喧嘩した。姉と喧嘩したのは、久しぶりだった。
 もちろん、負けた。
「先生?」
「あ……ごめんなさい、昔のことを思い出したものだから。貴方の姉は、まだいいわ。真っ直ぐなだけよ。あの子はもう、どうしようもないわね」
 叔母のことを言っているのだろう。
 姉は懐いている。今も一緒にいるはずだ。自分も可愛がられたが、懐かなかった。
「先生、俺は……俺ぐらい、先生に会いにくるやつがいても、いいと思う」
「ふぅん、子供のくせに、嬉しいこと言うわね。貴方、いい男になるわよ。ああ、私がおしめを替えたこともあるのに、こんなに大きくなって。あのぐらいの背だったのに」
 少女が刻んだ柱の傷。
 ん――と背を測られる。少女の顎のあたりしかない。腰を屈めてとんとんだ。母親似なのか、昔から小さかった。もう少し、伸ばしたい。隣に立ち、恰好がつくぐらいには。
 家事の不得意な少女におしめを替えられたのだろうかと、ふと疑問に思う。泣き止まない自分にあたふたしていたという話は、聞いたことがある。
「そんなことないし」
 少女が笑みを浮かべた。
 夕焼けに、紅色に変じた髪が映える。
 蒼白い月が、少女の肌と重なる。
 獣――狼の尾が、ゆっくりと上下している。
 火羅という名の妖の少女は、いつまでも手を振り続けていた。
 
 
 
 少年の想いに少女が気づくのは、もう少し後のことである。