あやかし姫~跡目争い(41)~
「鈴鹿! 闇雲に打ち合って勝てる相手じゃない」
耳を頑なに塞いでいた。
心を怨みで堅めていた。
ああなっては止まらない。わかっていても、藤原俊宗は呼びかける。縁を捨てても、鬼となっても、添い遂げようとした女の名を。
「聞く耳もたないか」
顕明連の震えも止まらない。主の許に戻りたがっている。力ずくで押さえつけながら、打開策を考える。
早くこの場を逃れなければ、化け狸の術に巻き込まれる。
大獄丸が深手――死んではいないが――を負ったことで、鈴鹿御前が暴走した。
自分の身すら顧みることなく、ただただ大将首を狙っている。
精鋭が大将の周囲を固めていた。俊宗とて、気を抜くことができない。何度も首がひやりとしている。
鈴鹿は傷を気にしていないようだった。傷を凌駕する治癒力――大通連の力を全開にしている。
「四天魔王の娘ですか」
四天魔王の娘だから――鈴鹿御前が酒の席でそう嘯くことがある。
誰もが大妖の戯言だと聞き流す。
鈴鹿御前は、悪路王の血の繋がった妹だから。
真実だと知っているのは、大獄丸と俊宗ぐらいのものである。
「らしくないですね。あなたはそんな人ではないでしょう」
俊宗が、顕明連を構えた。その顔が一瞬、苦悶に歪む。どこからともなく聞こえる怨嗟の声が、顕明連にさらなる力を与える。
周囲にいた亡者が、戸惑うように後退した。
一糸乱れぬ動きに、かっての自分の軍を思い起こす。あれは軍ですらなかった。餓鬼の群れだった。
怨嗟の声が充満し、ぼろぼろの鎧で身を固めた亡者の群れが現れる。
怨みが積りに積もって濁り切った目が、藤原俊宗に注がれる。
「私が殺して百年も経つのに、相も変わらず恨みがましい。恨むなら、自分たちの行いを恨め、この外道が」
同僚であり上官であった、都を守るための精鋭達――東の鬼を弑するために捨て駒のように送り出されたとき、野盗よりもたちが悪くなり、略奪、狼藉、虐殺、何でもやった。
相手が人であろうと妖怪であろうと関係がなく、強かっただけ始末に負えなかった。
鍛錬を積むだけでなく、邪法禁術を当たり前のように使っていた。妖怪の身を取り込むなど日常茶飯事、異形の姿に百鬼夜行と蔑まされた。
都という枷が外れた田村麻呂とその一党は、欲望を剥き出しにした。
その当時、曲がりなりにも東の鬼をまとめていた大獄丸を、打ち負かしているのだ。
「いや、その怨みで自分の望みを叶えた私こそ、外道の中の外道ですか」
自嘲する。
たまたま鈴鹿御前を見つけ、物言わぬ姿に惚れてしまった。
仲間に見つかり、田村麻呂に献上された。どうなるかは目に見えていた。
そう、幼馴染が告げたのだったか。嫉妬したのだろう。幼少の頃から言い寄られていた。美しい女で、気立ても良かったが、煩わしかった。
だから、副将軍を辞めた。
辞めて、家族を弑逆して、鬼になった。
幼馴染は、真っ先に殺した。
「将軍、どうぞ存分に力をお振いください」
首を小脇に抱えた田村麻呂が、こちらに馬首を向ける。
養父と言っていい存在だった。首を落としたのは俊宗で、代わりに腰を両断された。人の縁はそれで切れ、鈴鹿御前に今度は同じ鬼になれたらいいと願った。そして、初めて言葉を交わしたのだ。
「渡辺の支族、都の刀、存分に暴れるがいい」
恨みがましい目、目、目。
家族に等しい一党を殺し、その上自分の体に取り込んだ。そうでもしなければ、鈴鹿御前に並べなかった。
やつらはただ、成仏したいのである。
鬼の力の源になるということは、地獄で苛まれるよりも苦しいらしい。
もちろん……許すわけがなかった。
「私と鈴鹿のために、戦え」
幼馴染と目が合った。
亡者のくせに、怯えていた。
武者が、吠える。懐かしい言葉だった。我が姫よ、我が天女よ。そんなことを言っている。
鈴鹿御前は、割り込んできた兵士の首を折った。
その手を離れ、宙を舞う大連通が、勇壮な武者と打ち合っている。手元に残った小連通で、武者の隙を狙いつつ、何度も顕明連を呼んでいるが、悪路王はやって来ない。
顕明連――悪路王がいれば、簡単に勝てる。
あれほど強い鬼はいない。
あれほど恋焦がれた男もいない。
「何故……何故、あの女に、あんな女に」
奪われた。
奪った女は、死んだ。悪路王も、後を追うように死んだ。鈴鹿御前が殺した。
「早く、来て、欲しいぞ」
「虞、よ、虞姫よ」
蘇っていた。
もはや、骸ではない。
英傑だ。英傑としか言いようがなかった。なるほど、覇気に満ちた、好い男だと思う。
大連通を手に戻し、振り向きざまに叩き付ける。鈴鹿御前の丈を優に超える巨大な刀を、武者は矛、それも片腕で受け止めて見せた。
力で及ばないなら、速さでと数度打ち込みを入れるが、それも男には通じなかった。
「顕明連!? どうして、どうして来ないの!? 悪路王様!? 私では、駄目なのですか!?」
「彼は、来ません」
田村麻呂が、亡者を切り裂き躍り出た。
武者の影から現れた壮年の男が、その鉞で田村麻呂の槍を受け止めた。
男は、武者に似ていた。
「来るわけがないでしょう」
「どうして……だって、悪路王様は、私が、一番だと、一番に想ってくれていると」
「それは、違います」
顕明連が、鳴る。その調べは喜びだった。
「悪路王ではない。大獄丸でもない。あなたを一番に想うのは、この私、藤原俊宗ですよ」
「俊宗……?」
「ええ、不肖ながら……あなたの夫です」
「そう、私が、大好きな、俊宗、遅いぞ」
「叔父貴……なるほど、少し、思い出した」
武者が、両手の矛を下げた。
「あれは、秦軍か。あの兵の動かし方は、章邯だな。ふむ、亜父め。戦のことはわからぬくせに、無理をするから……討たれるのだ」
鈴鹿の視線の先で、右翼と左翼を担っていた亡者が争っていた。互角に見えたが、輿に乗った老翁が討たれたことで、楚の旗を掲げる軍が崩れた。
「同士討ち?」
「晴明の仕込んだ手ですよ。あの一派は、昔から姑息な術が好きですね」
化け狸の姿は見えない。気づけば、自分と俊宗、それに怨霊しか残っていない。どうやら、戦場に置いて行かれたらしい。大獄丸を討たれてからの記憶が曖昧だった。
「そうだ、義兄上が、どうしよう、義兄上が、死んで、討たれて」
「生きています。桐壷殿が、救ったのです。彼は、不死身の大獄丸ですよ」
そうだ、生きていた。
首を飛ばされたぐらいで、死ぬ鬼ではない。
なのに、助けようとしなかった。
「……駄目だな、私は。だから、悪路王様に捨てられる」
「なに、私が拾いますよ」
「こいつらを使っていいの? あんなに嫌がっていたじゃない」
「ええ……っく、田村麻呂?」
相打ちだった。
二人の亡者が消えた。
「叔父上と相討ちか。いい腕だ」
男が、呟く。
「あれでも征夷大将軍ですから」
怨霊の一団を身に戻す。数を減らしすぎるのはまずい。力が減る。幼馴染の姿もなかった。
田村麻呂が形を取り戻し、怨嗟の声が身体の中に満ちるまで、一年はかかるだろう。
これほど早く数を減らしたのは初めてだった。
大獄丸が敗れたのも道理である。
この亡霊は、大妖に等しい。
成り立ちは、似ているのだろう。
俊宗は、田村麻呂の一党を取り込んで生まれた鬼だ。
この男は……国を、喰っている。
「多勢に無勢ですか。鈴鹿、逃げる手立てを考えてください。時間は稼ぎます」
「見つけた、見つけたぞ、我らが同朋の、秦軍二十万の、仇! 覇王よ、いざ!」
老翁を殺した武人が、武者に斬りかかった。
これも、手練れであった。
憤怒に満ちていた。
表情は怒りに、構えは冷静な武人の業で。
すっと身を翻した武者、二頭の馬がすれ違う。
「だが、叔父上も、章邯も、この項羽には及ばぬよ」
馬上の武人。
首がない。
項羽が首をもぎ取ったのだ。
「おう!」
項羽が、啼いた。
数百万の怨嗟を肩に担う、稀代の英傑が咆哮した。
「そうか、この覇王が、狐如きに誑かされるか! おう、落ちたものよ! なればこそ、あの狭者に負けたるも道理! だが……いつまでも誑かされる義理はない」
「引いてくれますか?」
「いや」
矛を、振り上げた。
馬が、前脚を上げる。
三本の刀が、鈴鹿と俊宗の前で小躍りした。
「正気に戻してくれた褒美だ。ここで死んで行け」
「おい、何だ、今の?」
「覇王がお怒りのようですね」
火山が噴火したような爆発が、戦場に起きていた。
「お前、顔色が」
鬼ヶ城の梁にもたれる晴明が、額を抑える。
白を通り越して、土気色に変じていた。
「ああ、手駒を一つ、失いまして。少し寿命を削っただけです。お気になさらずに。それより、準備はできましたか」
その腕の中で、兎が身じろぎ、顔を上げた。
「おう、できたぞ。しかし、こんなことでいいのか?」
疑わしげな六右衛門に、当代一と称される陰陽師は曖昧に笑った。
「こんなことでいいのですよ。狸と狐の化かし合い、どうか派手にお願いしますよ」
四国を支配する八百八狸、その中でも剛の者として鳴らす六右衛門の凄味ある視線に動じることなく、晴明は鷹揚に頷いた。
「……ふぅむ。始めよ」
腹を、叩く。次々と、腹鼓の音が聞こえる。狐の甲高い声が混じる。
景色が揺らぎだした。
晴明は、厳しい山肌を見た。
「頑丈な刀だ」
「お褒めに預かり、光栄だぞ」
「刀は頑丈だが、身はそうもいかぬようだ」
「……は」
城一つ入るほどの大穴が地面に穿たれていた。
他の者は、消し飛んだ。
「鬼を、甘く見るなよ。首だけになっても、その喉元に喰らいついてやるぞ」
「だろうな。お前達は、執念深い目をしている」
かちんと音がした。
俊宗が渾身の力で投げた刃を、項羽が軽く手で弾いた。
「気を、抜けぬ。虞と同じよ。あれも、傍にいて、気が休まることがなかった」
それがよかったのだがと、独り言ちた。
「次は、ない」
鈴鹿は、大連通を右手に、顕明連を左手に、小連通を口に銜えた。
刀が、喜んでいる。
三振りを使うのは、久々だった。
力が満ちるのがわかる。
自然と笑みが零れる。
「うぬ!?」
それは、項羽が起こした衝撃とは異質な揺れだった。
世界にひびが入ったと感じる。俊宗が、呆気に取れたように向こうの方を見やる。
まとまりのなかった九州の気が、突如、収束し始めた。
膨大な気が、それこそ、一つの大地を塗り替えるほどの巨大で混沌とした気が、一つになろうとしている。
よく知っている気がしたのだ。
三降り。
左右の斬撃、首の捻り。
それでも、我に返った項羽の戟の方が早い。
相打ちでも構わなかった。
戟が狙うのは首である。
鬼はしつこい。
首を飛ばされても、小連通が届く。
「鈴鹿!?」
ごめんと謝る。
せっかく助けてくれたのに、私は助けられなかった。
四天魔王の娘が良い様だ。
怨嗟の声に、潰される。
山。
歌。
急峻な山々、悲哀の籠った楚の歌。
鼓の音が、周囲に満ちる。
覇王の戟の重みが消えた。
「……おのれ、劉邦ぉぉお!!!」
良いところを持っていくと、鈴鹿は思う。
酒呑童子の真の姿が、心の萎えた楚兵たちを消滅させる。
怨嗟の声がなくなれば、向かい合うのは一人の亡者。
悪路王を倒した自分に、勝てるはずもなかった。
「私は、虞美人より上だぞ」
大連通。
顕明連。
手応えがあった。
小連通は届かない。
覇王が逃げる。
追う力はなかった。
「情けない姿を、見せてしまったぞ」
「あんなに狼狽えて、情けない」
酒呑童子であった。
「ごめん、俊宗。鈴鹿、浮気しちゃったぞ」
「許さない」
ぴくりと、酒呑童子が眉を上げる。
「も許すもないでしょう。私はあなたのものですから」
「よかったぞ。あの人は……特別だから」
抱擁に全てを忘れる。
夢見心地になる。
四天魔王の娘でも、東の鬼の王の妹でもない、ただ一人の妻になれる。
「俊宗……酷い顔をしているぞ」
酒呑童子がぞっとしたように、言った。