あやかし姫~跡目争い(44)~
襤褸を纏った老爺――八霊がいた。
鎖に繋がれた九尾の狐――玉藻御前がいた。
黒衣を纏った男――チィがいた。
巨木に飲み込まれた神――大国主がいた。
あるものは海を渡って島国を訪れた大妖怪の姉妹であり、あるものは島国の旧支配者であり、あるものは島国そのものであった。
卓越した存在が集ったにしては、静かである。
それでいて、危ういものを孕んでいた。
「随分な姿になったもんじゃの。大妖の名折れじゃな」
「それはお互いさまだよ。どこの爺様が紛れ込んだのかと思ったが……八霊だったのか。あまりにもみすぼらしいのでわからなかった。気紛れに、加勢でもしてくれるのかい?」
「何故……何故、わしが、お主を助けねばならぬ。彩花と……葉子に傷を遺したお主を、何故に? 思い上がりも甚だしい。用があるのはそこの神よ。南の妖狼に奪われたのも、元をたどればわしがまいた種でなぁ。大国主を返してもらうぞ」
「私に言っているのか」
チィが、静かに言った。
黒衣の男は襤褸の老爺に何の関心も見せなかった。
表情は変わらない。
視線も向けない。
血色の悪い唇が静かに動く。
「他に誰がおる」
呆れと、そして疲労を漂わせ、八霊が哂う。
それに応えるように、チィの隣に二つの影が現れた。
一匹は、牛の身体、羊の巻き角、虎の牙、女の顔を持っていた。
一匹は、虎の身体、長い尻尾、猪の牙、男の顔を持っていた。
二匹は、チィに忠誠を示すように頭を垂れた。
意識の灯の消えた虚ろな瞳は作り物じみており、磨きこまれた玉のようであった。
「やれ」
巨大な怪物が無言で地面を滑る。
玉藻御前は逃げろと言った。
四凶を筆頭とした妖怪達と亡者の軍団に、彼女が率いていた九尾の狐は一敗地にまみれた。迎え撃つ準備もなく、玉藻御前自身が火羅との一件で本調子ではなかったとはいえ、敗れたのは事実である。
本物ではなかったとしても、この島国の妖怪には荷が重いと踏んだのである。
そう呟いた弟の表情に驚愕の色が現れた。
姉も同じである。鎖に繋がれた狐の目は見開かれていた。
「これが、四凶か」
輪唱――幾重にも重なった声はどこか冷ややかだった。
チィは、首だけを振り返らせると、老爺を見やった。
懐手にした白髪の老爺。
立ち位置は変わらない。表情も変わっていない。
その足元、薄日が作るにしてはやけに真っ黒な影から伸びた蛇が、二匹の悪神を半ばまで飲み込んでいた。
神の姿を鱗に透かし、その大咢を動かしていく。しゅぅ、しゃぁと、息が漏れる。
「興ざめじゃの。所詮は紛い物にすぎぬか」
ごくり、ごくりと音を鳴らし、蛇の喉が滑らかに動く。
膨れは次第に小さくなり、もがいていたそれはぎゅっと音を立て消え去った。
「八岐大蛇と言ったな」
「言ったぞ、小童」
「姉上よりは楽しめそうだ。いいだろう、私がお前の相手をしてやる」
「面倒くさいの」
翁が懐手を解く。
ゆらりと腕を垂らす。その姿に油断はなかった。
強いなぁと、蛇が言う。
強いねぇと、蛇が言う。
勝てるのかぁと、蛇が言う。
勝てるかねぇと、蛇が言う。
尻尾を丸めよぉと、蛇が言う。
丸めて逃げよぉと、蛇が言う。
「呼ばれもしないというに、わざわざ海を渡った客人ぞ。招かれざるとはいえ、手厚く持て成すのが礼儀であろうよ。それに……こやつは、やりすぎじゃ。半鬼をけしかけようと、白天狗を誘おうと、妖狼を動かそうと、構わぬ。そこまで、わしの関知するところではない。じゃが……そうよな、わしも親でな、子が危ない目にあえば怒りもしよう」
チィが天を示す。
巨大な印が、空に浮かび上がり、薄かった日が厚い雲に完全に隠れる。
薄闇。
突如、何かが分厚い雲を破った。
巨大な燃える星々が、八霊に向かって落ちてくる。
無数の隕石だった。
八霊が隕石を示す。
指先に水滴が一つ集う。
その水滴は数を増し、球となり、流れとなり、奔流となって隕石に向かっていった。
水の奔流は隕石にぶつかり、その火を消した。
天に向かって水柱が無数に立っている。
隕石は水の流れに縫いとめられた。
ぱきっと音がしたと思うと、その水柱は隕石ごと氷となった。
もう一度、ぱきっと音がして、氷柱は隕石ごと粉々になり、風に乗って消え去った。
「面白い」
「なるほど」
チィは目を瞑った。
目を閉じると、玉藻御前にどこか似ていた。
八霊は舌を出した。
赤い舌を何度も出し入れする姿は、彩華にどこか似ていた。
「面白い!」
「面白く、なし」
チィが、本性を表す。
八霊が、本性を表す。
黒い九尾の狐と七本首の蛇が睨み合い、轟音を立て絡み合った。
山を蹴り飛ばし、谷を埋め、地形を破壊しながら、二匹の妖怪は争い始めた。
「大国主の国造りの力か……妄想だな」
一通り話し終えた姫様に対し、酒呑童子は切って捨てた。
「聡いのは知っているが、今のは与太話にすぎないだろう。根拠も薄い。金銀妖瞳だけでは、な」
「貴方――西の鬼の王、彩花さんと彩華さんが同じ意見なのよ」
「父様、彩花姉さまのお言葉なのですよ。信じないと駄目なのです、駄目ー」
火羅と朱桜が同意してくれただけで、姫様は嬉しかった。
他の妖怪達――鈴鹿御前一向や化け狸達を見やる。
あるものは呆れ、あるものは静かに首を振っていた。
わからないという顔をしているのは光と白月である。
鬼ヶ城の一室に、姫様とその家族、鬼に狸に都の人間が集っていた。
姫様は、九州で何が起こっているのか確かめていたのである。太郎達も、状況を全て把握しているわけではない。彩華と火羅も同様で、姫様自身は記憶が曖昧だった。
酒呑童子からは、楚の覇王と争った話を聞いた。
亡者の軍団は壊滅させたが、肝心の覇王には逃げられたという。
にわかには信じられない話だが、面陵王と思しき相手を太郎が打ち倒したと聞いていたので、受け入れることはできた。
非業の死を遂げた異国の英雄、それに四凶と呼ばれる悪神が相手である。実際に対峙した葉美、それに葉子が、そのあたりは詳しく語ってくれた。
無理を押してこの場に出ていた葉美だが、体調が優れないからと途中で退出している。
葉子の肩を素直に借りていたのが印象的だった。
「認めたくないのですか」
胸を軽く抑える。まだ、国造りの力が残っている。そう呼んでいるだけで、ただの莫大な力である。
何にでも使える――やろうと思えば、壊すことも出来るだろう。
身に過ぎた力だが、使い道はなかった。
「なんじゃい、お前さんは。随分と偉そうじゃのぉ。喰ってまうぞ」
化け狸が言った。
あまり良い印象はない――火羅を助けてくれなかったから――が、姫様は表情を変えなかった。
朱桜を押さえるのに精一杯だからである。
ぎゅっと手を握ると、朱桜は不安そうに見上げてくる。
それで、気が逸れる。
そうしてあげないと、この場で真っ先に争い始めそうだった。
一旦争い始めれば、姉が同調するのは想像するに難くない。
太郎や葉子や黒之助だって黙っていないだろう。
「彩花ちゃん……あれは、出してはいけないものだぞ。出雲の神々がきちんと封じてる。そのために、あのいけ好かない神々はいるんだ。そんなことあっちゃいけないんだぞ。相手は古代の英雄――覇王ですら蘇らせる、恐ろしいやつだ。だけど、大国主とは切り離して考えるべきだぞ」
葉子や黒之助だって半信半疑である。
信じていなくても、頭には入れてくれた。
本当は九州の地を隅々まで探りたいのだが、力が酷く落ちていて出来なかった。国造りの力を押さえるのも、力が落ちている原因だろう。
「本当ですよ」
涼しげな男がこともなげに言った。
「そうだ……は? 今何と言った、晴明」
酒呑童子が聞き返した。
「その娘が言ったことは、概ね当たっております。だから私がきたのですよ。妖怪の戦など、私達にとってはどうでもいいこと。欲にまみれ、勝手に滅ぶがいいとは嘘偽りない本心です。ですが、その件があるからこそ、綱姫と頼光殿にもご助力を願い、道真公のように都を離れたのです。鵺がいるとはいえ……妖怪に都の守りを担わせるなど、ぞっとする話ではありませんが、危急の事態ゆえ」
危急と言うが、物言いは飄々として一本調子、どこにも切羽詰ったものはなかった。
姫様は、おぼろげな印象を持つその人物に目を向けた。
捉えどころのない人物である。
貴方は、面白い人ですね。
そう、晴明は言った。
そちらの方は、綱姫に在りようが似ていて――より洗練されていますか。
そう言って、彩華と綱と見比べた。
「姉妹でしょうか。本当に面白い」
少し視てみたいものです。
ちりとその目に、危うい光が見えた。
僅かに嫌悪感が出た。
「おい、お前。姫様に触れるな」
太郎が毛を立て、荒い息を出した。
「おや、これが金銀妖瞳というものですか。先祖返りと申しますが、いやはや因果なものですね」
晴明の腕に抱かれた兎が、後ろ足で必死に蹴りつけていた。
式神だろう。晴明を止めようとしているようだ。
「何じゃあやつは。気持ちが悪い」
彩華が不機嫌そうに言った。
捉えどころのなさが、頭領に似ていると思った。ただ、頭領には優しさがあった。真意を量らせない人だが、慈しみを感じていた。この男にはそれがなかった。
火羅にとっては見知った顔らしい。
安倍晴明……書で読んだことがあると姫様は思った。
幼少より不思議と関わってきた大陰陽師だ。
三人とも都の英傑である。会う機会があるとは思っていなかった。
何だか不思議だった。元々、古寺に住んでいた少し変わった娘だったのだ。やることといえば、書見と薬作りが主で、穏やかに騒がしく暮らしていた。
それが、こうして大仰な場所に出て、一端の口をきいている。
九尾の狐を母親に持ち、鬼の王の娘を義妹に持ち、南の妖狼の姫君と河童の子が親友で、烏天狗が頼れるお兄さんで、大好きなのは妖狼だ。
そう彩花が考えていた時、何かに触れた。
懐かしい巨大な気配だった。
その場に集ったもののうち、半分がその気配に耐え切れず、膝をついた。
「頭領……いるのですね」
「いるのさか」
葉子が嬉しそうに言った。
姫様は複雑な表情を浮かべた。
「頭領にも、謝らないといけません」
「そうではなかろう。姫さんが、頭領に謝ってもらうのです」
なずなの脇を抱え、黒之助が言った。
「それで水に流すもよし、流さぬもよし。是非は、姫さんに任せます」
頷いた姫様を、彩華に支えられた火羅と、火羅に支えられた朱桜が見やる。
目配せし合い、ふんと二人は顔を反らした。
「気に食わなかったら、一緒にぶん殴ってやる」
「その時はぜひお願いします」
そう言って、姫様は、太郎に微笑んだ。
「もうよかろう。お前たちは少し休め」
「酒呑童子様、ですが」
「言いたいことは言ったのだろう? 稲荷だって河童だって休んでるんだ。お前達も……休んでくれ」
「彩花ちゃん、休んだ方がいいぞ」
気を利かせてくれているのだ。
休息の申し出は、正直ありがたかった。
「適当に部屋を見繕ってくれ」
彩華がさっさと部屋を出て、火羅が慌てて追いかけた。
光と白月に誘われた朱桜が、大人しく出て行った。
黒之助は、なずなに引っ張られていく。
「姫様、あたいと」
「どうか、葉美さんのところへ。もしかしたら、産まれるのかもしれません。木助さんがいない今、お姉さんが傍にいた方が、心強いです」
「……わかったさよ」
葉子がいなくなった。
姫様は太郎を見上げた。
「あの、太郎さん。どうか、一緒に」
「いいぞ」
太郎の腕に抱かれて、姫様は目を白黒させた。
背中と足に腕を回され、顔が太郎の胸の隣にある。
「その、何を?」
「疲れてるんだ、歩くのも億劫だろ? こっちの方が楽だって」
それは、そうである。
鈴鹿御前と目があった。
にぃっとしていた。
「太郎さん……恥ずかしいです」
「そうか? 俺は恥ずかしくないが」
恥ずかしいが、嬉しくもある。
身体を預けていると、幸せだった。
「それでは、あの、話を聞いていただきありがとうございます」
太郎はさっさと部屋を後にした。
最期まで自分の声は届いただろうか。
「狸め、狸ってのは嫌いだ。前も姫様に悪さをしやがった」
狸の幼い兄弟の結界に、以前閉じ込められたことがあった。
よっと、太郎は適当に部屋を撰び、丁寧に下ろしてくれた。
それから、人の姿のまま、狼のように頭を擦りつけてくる。姫様は、太郎の頭を撫でて、それに応えた。
太郎と、二人きりだった。
縁ある妖達が、ここにはほとんどいるのに、太郎と二人きりだ。
それが、姫様には不思議で、当然のことだと思った。
そう考える自分が、やっぱり不思議で仕方なかった。