小説置き場2

山岳に寺社仏閣に両生類に爬虫類に妖怪に三国志にetcetc

あやかし姫~猫(1)~

 猫が鳴いている。
 物悲しい響きである。
 姫様は、宇嘉の手を握りながら、その様を眺めていた。
 周囲は薄暗い闇で包まれており、二人と猫の身体だけが仄かな光を帯びている。
 闇に慣れてきたのか、品の良い調度品が目に入った。
 見覚えのない場所だが、吟味された品々に、裕福さが見て取れた。
 記憶を辿れば、寝る前のことははっきりと覚えている。葉子と朱桜と一緒に横になり、途中で火羅がこっそりと入ってきたのを視界におさめた。
 稲荷の末子が、何か言いたそうにこちらを見やった。口を動かすが、言葉は出てこない。
 姫様も、言葉を発しようとして、やはり空を切るばかりの舌に、焦りを感じた。
 三日月のような細い瞳に、感づかれている。
 悲哀に、ぞっとするような怨嗟が混じる。白刃を呼ぼうとしたが上手くいかない。
 獲物を見つけた肉食獣特有の、音を立てない歩き方で、こちらに近づいてくる。
 二本の尾が揺れる――猫又だ。きゅっと一点を見つめる細い瞳が色を変える様は、どこか人間臭かった。
 錆色の毛を逆立てている。
 猫が舌なめずりをした。
 ひちゃっと、何かが垂れる。
 錆色……そう見えたのは、旧い血だ。辺りに漂う薄暗さに合点がいった。これは、血飛沫だ。そう思うと、一気に景色が晴れた。
 凄惨な、血の海だった。
 くかかかか――そう、一際甲高い声で、猫が鳴いた。姫様は、宇嘉を後ろにやった。猫の爪が、胸元を切り裂く。痛みを感じる。夢なのにと思う。
 もう一度振り上げられた爪が届く前に、姫様は猫から離れていた。
 

「少し、嫌な夢を見たのです」
 姫様が、朝食の箸を休めていると、朱桜が心配そうに尋ねてきた。
 無理して食べようにも、喉がつっかえる。脈は正常、熱も平常、妙な気怠さだけがあり、季節の変わり目特有のものだろうと思っていた。元々、床に臥せることが多かったのだ。
「嫌な夢ですか?」
 笑い話にでもしてくれればいいのに、皆の雰囲気が変わったのがわかった。
 視線をそらすように、姫様は盆の上の朝餉に目をやった。今日は、黒之助と朱桜が調理番である。
 二人とも甘いものが好きなので、少々しつこくなっている。
 お汁粉は、美味しいのだ。でも、おはぎと一緒で、ここに豆の甘露煮や、雉の甘辛炒めが加わると、やっぱりしんどい。この雉だって、やっと変化が出来るようになった火羅が、せっかく狩ってくれたありがたい獲物なのに。
「何さね、また、獏の仕業さね?」
 悪夢を食べる獏が、逆に悪夢を撒き散らしたことがあった。
 葉子の質問に曖昧な返事をすると、姫様は、
「宇嘉君はどうしました?」
 そう、浮かない表情の美鏡に話しかけた。
「はぁ、主様も、悪い夢を見たとかで、大事をとって部屋で休んでいます」
 朱桜の目が据わった。
 太郎に葉子、火羅に朱桜、黒之助に美鏡にたくさんの小妖達と、古寺の住人達は大体揃っている。
 頭領は都に用事があると留守にしており、姉は何時もの場所を告げないお出かけである。
「姫様、その夢には宇嘉もいたのか?」
「……いました」
 黒之助が顎鬚に触れた。
「その夢で、怪我をしたというの?」
 火羅が、言った。
「怪我ー?」
「怪我となー?」
「姫様怪我したの? 大丈夫? 大丈夫ない?」
「はい?」
「ほら、昨日のお風呂だと傷なんてなかったのに、今朝は、胸元に傷があったわ」
 そっと胸元を覗き込むと、薄紅色をした、あるかなしかの傷があった。太郎が自然な動作で覗き込もうとしたので、急いで胸元を隠した。
「あったでしょ? てっきり、ひっついてた誰かさんが寝ぼけたんだとばかり思ってたのだけれど、違ったのね」
「むー、私は彩花姉様を怪我させたりしないのです!」
 むふーと鼻息が荒いが、この鬼っ子はいろいろとやらかしている。
「夢で猫に引っかかれました」
「ありゃあ、情が深い獣だから……って、猫の妖怪なんて、いたさか?」
「ここにはいねーぞ」
唐土渡来の、珍しい獣ですからなぁ」
 経典を守る役割を猫は帯びていた。書物の大敵は、鼠である。喰い、増える、小さな獣を、猫は狩るのだ。
「宇嘉君も、同じ夢を見て、怖い思いを見てしまったのかもしれませんね。私が見せてしまったのかも。悪いことをしました」
 ちょっと、お見舞いに行きます。
 そう姫様が言い、席を立つと、のっそりと太郎が従った。
「今の話、どう思いますか?」
「姫様は、今、不安定だから……でも、気になるさね」
「何もなければ、よいが」
 黒之助が、古寺に仕込まれた呪符を確認する。
「結界には異常ない。しかし、身体に傷が出来るほどの夢、というのが気にかかるところでござるな」
「あの子は自分のせいだって言うけれど、悪さを撒き散らしそうな人は、今は留守にしてるわ。きっと、彩花さんが何かを感じ取ったんじゃないかしら。その何かが、わからないのだけれど」
「何であろうと――あの子に危害を加えようってんなら、叩き潰すだけさね」
 葉子が、獰猛な笑みを浮かべた。
「太郎なんかに、負けてなるもんか。あの子は、母親のあたいが守るさね」
「黒之丞にも話を通しておこう」
「沙羅さんにも伝えておきますわ」
「それじゃあ、まぁ、話がまとまったところで……この朝餉、どうするさか?」
「拙者は食べるぞ」
「もちろん食べるです。彩花姉様の分はいっぱい残しておくですよ」
「私は、その、いいわ。もう匂いだけでお腹いっぱいになってしまって。朱桜さんにも、黒之助さんにも、申し訳ないのだけれど」
「あたいも火羅と同意見さね」
「こんなに美味しいのに、勿体ないのですよー」



「おや、懐かしい顔ですね」
「先生?」
 笠を深く被った男に、月心は気兼ねなく声をかけた。
 琵琶を背負った、嫌な気配の男である。どこか、荒んでいる。隻眼で、左眼を縫う深い傷も、そんな印象を強くした。
 そう思ったのは束の間で、人懐っこい目に、沙羅の警戒心はふっと解かされてしまった。
「誰かと思えば、魅月のご子息ではないか! これは懐かしい顔に出会ったものだ。いや、世間は狭いと言うが、真に狭いものであるな」
「この人は、検非違使で、父と一緒に仕事をしていたのだよ。若いのに、腕の立つ御仁だと、話をよく聞いたものだ」
 そう、月心が、沙羅に説明してくれた。
「父君は、残念だったな。我々検非違使が助力できればよかったのだが、内輪もめで、どうにも出来なかったのだ。ここであったのも何かの縁、今からでも力になるぞ」
 月心は、父親の遣っていた式神に追われ、都を離れたのだ。沙羅は、詳細に知っているわけではないが、彩花達が月心を助けたということは知っていた。
「いや、既に終わったことだ」
「そうか、片がついたのだな。貴殿は学問の才はあるが、こっちの才はこれっぽっちもないと、父君は嘆かれていたが、良い助っ人でも見つかったのか?」
「ああ、命の恩人だ」
「それは、隣にいる女怪のことか?」
 男が、殺気を帯びた。はっきりと、女怪と言った。
「妖を祓うことにかけては、都でも少しは名の知れた存在だった。今は、あの、妖怪の女などを助けるために仲間割れをした組織を離れ、腕をさらに磨いたつもりだ。月心――誑かされているのなら、今すぐにでも縁を斬ってやろう」
 そう男は言い、琵琶の海老尾を引きぬいた。
 いや、琵琶ではない。琵琶にしては、首が長い。白蝉の持っている琵琶は、もっと丸い形をしていた。それに、弦が三本しかない。
 海老尾の先に、揺らめく刃紋。
 仕込み刀――その切っ先は、沙羅に真っ直ぐ向けられていた。
「妖は、どうやっても妖なのだよ、月心。人には馴染まぬ存在なのだ」
 そう、男が、寂しげに言った。