あやかし姫~猫(5)~
姫様は、寝床から起きようとする宇嘉をやんわりと制して額に触れた。
熱は和らいでいる。
心配そうな美鏡と太郎を見やり、大丈夫でしょうと言った。
「薬が効いたようです」
「宇嘉様が熱を出すなんて、初めてで」
美鏡は、見ていて可哀想になるほど憔悴していた。
姫様は、火羅が熱を出した日のことを思い出していた。妖怪は、基本頑丈だが、稀に風邪をひくし病にもなる。
宇嘉は幼いながらも神の一柱、人よりもずっと健やかなはずだ。昨日も何時ものように太郎や小妖達と戯れていた。
念のため、昨日の様子を尋ねたが、変わりはなかったと聞いている。
夕方になり、宇嘉の目が覚めたと美鏡が伝えにきたので、太郎と一緒に再び部屋を訪れたのである。
「悪い夢を見たと聞きました。どんな夢だったのですか?」
また起きようとしたので、布団を掛けなおす。朱桜もそうだが、幼いのに気を遣いすぎだと思う。
自分も多分、そうだったのだろう。寝込むと、周りのそわそわした様子に、悪いことをしたと思ったものだ。
宇嘉は実の親である稲荷明神に追われる身ではあるけれど、何があっても宇嘉のことを守ると姫様は決めていたし、太郎にもそう伝えていた。
「悪い夢、何だか、厭な夢」
宇嘉の声は、どこか上ずっていた。
「あの……夢の中に、彩花様もいました」
姫様は眉を潜めた。
胸元――ちょうど、鎖骨の下が少し痛んだ。
「私もということは、他に……そう、猫はいましたか?」
「ねこ? あの、ねこというのはどんな、その、生き物なんですか?」
「えっと、ヴニャアアーと鳴く生き物で、まるっとした、そうですよね?」
「多分、ニャオォォーンじゃないか? しゅっと細い、夜目が光る」
「私は、にゃーんだと思います。あいつら、経典の周りをうろついていて、こう引っ掻くんですよ。ちょっと勝手に拝借するだけなのに」
三人の話を聞いても、宇嘉は、腑に落ちない顔をしていた。
「……そうですね、虎の小さいやつです。ん、そうだ、鈴ちゃんのことは、知っていますね」
「はい。鈴ちゃんとは、一度遊びました」
「鈴ちゃんは、鈴鹿御前様の飼い猫ですよ」
美鏡が顔色を変えたが、見ないようにした。確か、危ないことをした鈴を、思いっきり叱りつけていた。理は美鏡にあったので、姫様達は何も言わなかった。
そういえば、白月達のことも、二人にはきちんと説明していない。朱桜の友達とだけ紹介していた。恐縮してしまうのは目に見えていたから、朱桜と語ってそうしたのだった。
「夢には出てきていないと思います、多分。沢山いて、自信はないですが」
また胸元が痛んだ。内側からの痛みだった。
夢見が少し違うらしい。
「知らない場所に、沢山の生き物がいて、彩花様と一緒に見ていました。そうしたら、何だか気分が悪くなってきたんです。その生き物たちと、目が合ったんです。小さな生き物が向かってきて、彩花様が庇ってくれて、目が覚めたら身体が熱くて、それで、あの、もう、よく覚えてないです」
「場所は、どこかの屋敷ではありませんか?」
宇嘉は、こくんと頷いた。詳細は、姫様の記憶も朧だったため、わからなかった。頃合いを見計らったように、太郎が水をすすめた。
「私が見た夢と、所々、同じ部分があります。好い夢だとは感じませんでした。本当は、頭領か姉様にお聞きしたいのですが、肝心なときに留守にしているのですから。そもそも、彩華姉様は、何時も行先を告げないから困ります。私が心配しても、それは、心配するだけ無駄かもしれませんが、姉というのは、こう、難しいです」
二人の文句を言ってもしょうがない。頭領には深慮があるのだろう。
彩華はきっと気侭の虫が騒いだに違いない。火羅にも行先を告げていないのだから始末に負えない。
「えー、こほん。夢に関係あるのかどうかわかりませんが、沙羅さんが、検非違使の方が麓の村を訪れていると言っていました。何かあったとしてもこちらで対応はしますので、大丈夫だとは思いますが、一応頭に入れておいて下さい」
「検非違使! あいつらは、まぁ、よくない連中ですよ。渡辺家が潰されて、少しはましになったと聞きましたが、それでも都の狗には違いない。一時は、とるに足らない小妖だろうが神使だろうが、分別なく狩っていて、京とその周辺に在る者達は戦々恐々としたものです」
「……ああ、そうでしたね、はい」
美鏡が遠い目をした。
それに、検非違使の頂点であれば、共に戦ったという伝手もあった。
「宇嘉さん、まだ、休んでいてくださいね。今日一日大人しくしていれば、すぐに元気になると思います」
「彩花さんは、大丈夫なのですか?」
「私は……私は、大丈夫ですよ」
「胸が痛むのか?」
「痛いというよりも、むず痒い、かな」
薬はつけているが、治っている感じはしない。
寧ろ、悪くなっているようだ。
「検非違使の奴が、何か術をかけているんじゃないのか? だったら」
「頭領の結界を破って、その上で、葉子さんや黒之助さんや火羅さんの目を眩ませて? 朱桜ちゃんだっているんだよ?」
姫様が見た夢は、霞がかっており、情報が曖昧で判じ難い。
宇嘉の夢も似たようなものだが、動物に襲われたというのは大枠でいえば同じだった。
夢に在ったのは立派な建物で、記憶にある限り、訪れたことのない場所である。
不吉な夢だったのは、間違いなかった。
「俺が、狼の姿でいつも遊んでるから、変な夢を見たわけじゃないよな?」
「太郎さんと遊んでいる宇嘉さんは、とても楽しそうですよ」
「こんな大きな化け猪だった」
「はぁ」
「背中に一本の笹が生えていてな。倒してしまえば、笹は消え、大きな老猪になってしまった。多分、年経た猪に、笹の精がついていたのだろう。そうやって、ここまでくる間に、妖怪を何匹も祓ってきたのだ。その猪が、一番の大物だった。生贄を求められていた里には、随分と感謝されたよ」
弦を弾きながら、男が言った。
「色々な妖怪がいるのですね」
酒を酌み交わす。月心は下戸だが、男はよく呑んだ。
炒めた蛤を、あてにしている。沙羅が持ってきてくれた蛤は、既に砂抜きをされていて、塩を振って焼いただけでも美味だった。
「その楽器は、何とういう名前ですか?」
窓から、月の光が差し込んでいる。
囲炉裏の火が、ゆったりと燃えていた。
「これか? これは……三味線というそうだ」
刀は、三味線の中に仕舞われている。月心の庵の中で、談笑している男が気を変えれば、一太刀で斬られる距離であった。
「月心……お前は、どうなのだ? 父君の式神に追われていたはずだが、あの犬神をどう祓ったのだ? 相当な代物だったぞ」
「たまたま、伝手を得まして。その方たちに救っていただいのですよ」
「そうか――父君も、渡辺家になど手を貸さなければ良かったのに。あの犬神は、元々、渡辺家の蠱毒の副産物だと聞いたことがある」
「副産物?」
「綱姫を創る為に、父君は働いていたことがあった。犬神は、その時に生み出されたと聞いている」
「父は、そんなこともしていたのですね」
「播磨の生まれでなく、都の筋目であれば、もっと出世も出来ただろうに。その分、月心殿への想いは並々ならぬものがあったが」
男は、父のことをを知っている。父は忙しく、月心も大学寮での暮らしが長かったため、じっくりと話したことはなかった。父が何を考えていたのか……八霊に、教えられたことがある。それまでは、漠然と、陰陽法師としての父を知っているだけだった。
「……ここにいる私は、父の想い描いた姿とは違うのでしょうか?」
男の隻眼が、ふっと笑みを浮かべた。
父と男が歓談している様を、羨ましげに眺めていたものだ。男は闊達で、兄の様な人だった。
「健やかにあれと、ただそれだけを願われていた。俺には、それだけしか言えぬ。月心殿……先程、一緒にいた女人だが、あれはやはり」
「そうかもしれません」
「やはりそうか!」
男が気色ばんだ。
「沙羅さんには、随分と良くしてもらっています。決して、悪い方ではありません。それに………いえ、何も。それより、どうしてここへ?」
「何、気の赴くままよ。勘が、働いたのだ。お蔭で、旧友と出会えたし、救うことも出来そうだ。月心よ、先程も言ったが、妖怪など碌なものではない。俺の見立てでは、水の気を帯びた妖怪だろう。腹の底では、何を考えているかわからぬ。悪いことは言わぬから、目を覚ましてくれ」
「沙羅さんが何を考えられているのか、何を悩まれているのか、私にはわかりませんが……危害を加えるつもりであれば、何度でも言います。私は、貴方を止めるしかない。勿論、私に、そのような力がないのはわかっていますが、恰好ぐらいはつけさせていただきます」
細い酔眼を、男は向けた。
「騙されているのが、わからぬか。ことが起こってからでは遅いのだ」
「それは、ないですよ。私にだって、人を見る目ぐらいあります。あの方は、心根の優しい、子供好きな素晴らしい女性ですよ」
「この村で、子供達に学問を教えているといったな?」
「遣り甲斐のある仕事です」
「妖怪は、教え子達にも、必ず害を成す。その時お前は後悔するぞ。それでは遅いのだ。災いの芽は摘むべきだろう。幸い、大した力は持っていないようだ。ついでに、この辺りの妖怪を平らげてやる」
「貴方は、検非違使なのですね」
「月心……妖怪の臭いをそんなに身に着けて、一体どうするつもりだ?」
「それ程、匂いがしますが?」
「ああ、俺は鼻が利く。臭うて、堪らぬ」
翳りのある男の顔には、ぞっとするような迫力があった。
「私を救ってくれたのは、力のある妖怪と、妖怪と共に暮らす少女ですよ」
そう、月心は言った。
「ほぉ」
「沙羅さんもそうですが、彼女達は、とても好い方々です」
「犬神を祓ったのか……強い力の持ち主だ。だが」
「この地の荒神を鎮めてから、既に百年余り居を定めていますが、害を与えたことはありません」
「荒神? ……水蛟のことか?」
「ええ、そうです。よく知っていますね。私も、この村の古老に聞いた話なのに」
「ああ、そうだ。俺は、その妖怪を……そうか、既に殺されていたのか。わかった。しばらく、この村でお前の話が真なのか、見定めようと思う」
男の敵意が、ふっと薄れた。
月心は、空になっていた男の器に酒を注いだ。
別人の様に、闊達な表情を浮かべている。
月心が知っている男の顔だった。