小説置き場2

山岳に寺社仏閣に両生類に爬虫類に妖怪に三国志にetcetc

あやかし姫~猫(6)~

 また、猫が鳴いている。
 嬉しげな響きだった。
 喉をくすぐられ、その掌を掴まれても、されるがままになっている。
 風格のある、大きな門。
 その柱の前で寝転がる猫。
 それは、ある日の穏やかな景色。
 まだ、猫が幸せであった頃の光景。


「今日は、引っ掻かれなかったのですね」
「昨日と同じ夢を見たさか?」
 薄く目を開いた葉子に尋ねられ、姫様は首を縦に振った。
「景色は違いました。でも、本質は同じだと思います。今宵の夢は、穏やかでした」
「夢祓いでもしたほうがいいと思うさよ。まさか、獏の仕業じゃないだろうね」
 悪夢ではない。しかし、好い夢とも思えない。
 ここで止めるのも選択肢の一つだろう。幾つか、方法も思いつく。しかし、それでは解決になっていない。ただのその場しのぎである。
「もう少し、様子を見てからでも遅くはないと思います。ただ……宇嘉さんがどうなっているのか」
「うー」
「朱桜ちゃん?」
 朱桜が、しかめっ面をしながら起き上がる。
 姫様は、葉子と朱桜と、寝起きを共にしていた。姫様を、二人が挟む形である。葉子の寝相が悪く、朱桜の傍だと色々と被害を出しそうだからだ。
「猫におしっこかけられたのですよぉ。彩花姉様、酷いのですよぉ」
 あーんと泣く朱桜を、姫様と葉子は苦笑しながら宥めた。



「彩花殿、昨日、貴方と宇嘉殿が見たという夢の猫だが……三毛ではなかっただろうか? それも、雄の?」
 ほつれた髪を気怠げに直しながら、なずなが言った。
 眼差しに湛えた怜悧さが、腫れた瞼で隠されている。
「……雄雌はわかりませんが、三毛だったと思います」
 そう、三毛猫だった。夢で見た猫は、同じ猫だったと、姫様は思った。
「私も、夢で三毛猫を見た。随分と勇敢で、忠誠心に溢れていた。大きな野鼠や野犬と格闘している姿を見た」
 太郎や黒之助、火羅は、夢を見ていないという。
 これで夢を見たのは、四人――姫様、宇嘉、朱桜になずなである。
「宇嘉君は、どうなのですか?」
「今日も、見ました。三毛だったと思います。屋敷の家人に、拾われていました」
 昨日と違って、体調は良さげである。美鏡の膝の上に抱かれながら、返事をした。
 姫様と朱桜が朝餉を終える頃になると、古寺にいる妖怪達が居間に集まっていた。いつもなら、なずなや宇嘉主従は顔を出さないのだ。
 なずなは、黒之助の隣に座っている。凛と背を伸ばしているが、どこか弱弱しく、黒之助が心配そうに時々視線を向けていた。自分の部屋に戻らず、黒之助の部屋で一晩飲んでいたらしい。太郎が、部屋の中で泣き声がしたと言うと、姫様がまぁと口を押え、火羅が恥じらいを隠し、朱桜と葉子が首を傾け、なずなが凄い顔をした。酒豪の上に泣き上戸なのだと、朝餉の席で黒之助が説明していた。
「見覚えのある屋敷だったのですよ」
「朱桜ちゃんは、見覚えがあるの?」
 記憶を探ったが、姫様には心当たりがなかった。
 立派な建物で、隣街にも、あれだけ大きな屋敷はないはずだ。
「前に父上様と、夢で見た屋敷の前を通ったことがあるように思うのですよ。母上様のお墓参りに行ったときに、確か前を通ったような」
「私も、あの屋敷に心当たりがある」
 なずなが、言った。
検非違使とも取引のある、神具や仏具を扱う店だった筈だ」
 だった――姫様は、嫌な感じを受けた。
「その店は今もあるのですか?」
「亡い。盗賊に押し入られ、幼子も含め店の者は殺されたはずだ。貴重な宝具が散逸したと、都にいた妖怪の中で話題になった。検非違使と縁があるので、どんな珍品財宝があったとしても、妖怪達は手出しが出来なかったのだ。怖いのは人だと、囁きあったものだ」
「都には、結界が張られているはずさね。それなのに、妖怪が入り込めるのさか?」
 葉子が、不思議そうに言った。
「鵺のせいですわ、葉子さん。都で生まれた大妖が、結界を破ったのです」
「今は、随分と修復が進んだので、あたいぐらいの小物だと入るのに難儀します、はい」
 美鏡が、付け加える。
「鵺というのは……恐ろしい妖怪ですね」
 姫様は、目を伏せた。
 朱桜の叔父である茨木童子に、深手を負わせたのが、鵺だ。
 実際に見たことはないが、近年現れた大妖として、姫様も名は知っている。
「今は、人の子達と暮らしている」
「はい? 確か、検非違使酒呑童子様達が協力して葬ったと」
「羅城門の傍で、孤児たちと暮らしている。知っている者は少ないが」
「……うわぁ」
 姫様が、額を押さえた。
「それは、拙いわね」
 火羅も、額を押さえた。
「大丈夫でしょうか? 姉様は、都に行っているような気がしますが」
「羅城門を見たいって、彩華さんが言っていたような気がするわ。まさか、そのことを知っていたわけではないと思うけれど」
 ここにいない姉は、都に足を伸ばした可能性が高い。
「むやみやたらに争い事を起こす人ではないと思いたいのですが、どうなのでしょうか?」
「私は、彩華さんと旅をしたけれど、自分から諍いを起こすようなことはなかったわ。売られた喧嘩は絶対に買うし、容赦は全くないけれど」
 お互いにぼろぼろなまま、寄り添い合った旅だった。
 火羅は、もう一度、二人で旅をしてみたいと思っている。
 そして、自分の故郷を、あらためてこの目で見たいと思っている。
 その時、傍にいてほしいのは、彩花ではなく、太郎でもなく、彩華だ。
 前に、東北の温泉宿に行こうと彩花と約束したが、彩華と旅に出る方が先になるかもしれない。離れ難いが、ずっといたら、彩花が困るに違いない。
「ん?」
 古寺を包む結界が揺れた。打ち砕こうというのではなく、訪問を知らせるような響きだった。
「誰でしょうか?」
 細首を傾げる。
 姫様が、様子を見に行きますと言った。
「危なくないの?」
「あたいも一緒に行くさね」
「私も行くですよー」
 中身のない袖を揺らしながら、葉子がついていく。朱桜も、とてとてと、小さな身体で姫様に追いつこうとした。
「力が、落ちている」
 姫様がいなくなったのを見計らって、黒之助が、苦々しく言った。
「そうかもしれねぇな」
「以前の姫様なら、誰かの訪れがあれば、わざわざ見に行かなくても、すぐにわかったはずだ」
「彩華と別れたんだ。一心同体だったあの女と別れたなら、力だって落ちるんだろう。あんな小さな身体で、よく抑えていたと思う。今までがおかしかったんだ」
 人でも妖でも神でもあり、そのどれでもなかった。頭領という、古今東西類を見ないほど強大な存在が、その首の一つを贄にして、ようやく一つの形を成していたのが彩花という古寺の愛し子だった。
 彩華も、大妖と呼ぶに相応しい力を持っている。
 姫様の力は、彩華と分かち合った分だけ、明らかに落ちていた。
 特に、無意識の力の発露――時折噴き出す圧力や、千里眼ともいえる感じる力がなくなっている。
「どうなろうと、姫様は、姫様だ」
「なるほど……たまに、太郎殿は聡いことを言う」
 なずなに、黒之助は水をすすめた。



「どうもー!」
 古寺を訪なったのは、見知りの行商人であった。
 幼いが、遣り手の商人で、火羅の衣や沙羅の帽子を購入している。
 火鼠の衣に、化狸の帽子――世にも珍しい品々を売る彼女は、人ではない。
 長い白い耳を生やし、連雀を背負ったこの行商人は、妖兎――元は月の女官という触れ込みだった。
 高貴さよりも、人懐っこさのある童顔の少女である。
「お久しぶりでございます。お三方ともお美しい。いやはや眼福眼福、仲睦まじいことは良きことかな。そんなお三方に、今日は」
「何だい、お前かい。ちーっとね、今、取り込んでいるんだ。商いは後にしてくれないさね?」
 幼い商人はめげることなく舌を動かし長口上を語る。
 行商人と初めて会った朱桜は興味津々である。
「えー、せっかく都の白粉を仕入れたのに。お嬢様の絶品の肌が、神懸かりとなるに違いなし、悟りを開いた偉い御坊様も、煩悩に囚われるにことでせうよ。どうか、想い焦がれる御仁の前で、使ってみて下さいな。まぁ、お嬢様の美しさなら、流し目の一つや二つをくれてやるだけで、ころっときちまうもんでせうが」
「よく回る口さねぇ」
 葉子が呆れ、姫様が微笑んだ。
 彩花姉様がこれ以上綺麗になったら大変なのですと、朱桜が言った。
「おや、お嬢様、その満更でもない顔から察するに、慕うお方がいらっしゃいますな? 手前の目は誤魔化せませんぞ。ならば、これはとっておき、上客であるお嬢様にだけ見せませう、森山椒魚を百年もの間月の光で丹念に乾かしたこの惚れ薬」
「あー、太郎は、姫様に一途だから、そういうのはいらないさねぇ」
「おや、残念」
「……はい? 葉子さん、今、何て?」
「いらないって」
「その、前です」
「姫様に一途」
「だ、誰の、ことでしょうか?」
「太郎が」
「な、何の話ですか!?」
 姫様の肌が、赤くなった。
「ああ、うん? だって、そうなのさよ?」
「何で、何で、そんなことを言いだしたのは誰ですか!?」
「んー、ほら、あたいは男女の想いに酷く鈍くて、それで大きな失敗をしてるけど、太郎の言う好きと、あたいや黒ちゃんが言う好きは違うんだろうなってぐらいは、わかるさよ。色々あった時に、太郎にも聞いたし」
「あ、それは、その」
 正気を失った姫様を、太郎達は追いかけてくれた。 
「今は大所帯だけど、そのうちにね、姫様が好きなようにすればいいから。あたいはね、姫様が幸せなら、それでいいさよ。頭領とも、話をしてるんだろう?」
「そんな、私が、皆から離れるような言い方をしないで下さい」
 姫様は、寂しくなった。
「離れる? 姫様が? 嫌、さよ」
「よ、葉子さん?」
「そんなの嫌さよ。だって姫様は、あたいの娘じゃないか。そりゃ、いつまでもべったりだと、葉美みたいになっちゃうかもしれないけど、わかってるけど、あんまりさよ」
「お、お母さん?」
「彩華姉様、離れるのですか? もう、わたしの姉様じゃなくなるのですか?」
「あ、朱桜ちゃんまで!?」
 だばーっと、朱桜が泣きだした。
「えっと……こういうときには、顔を拭う綺麗な布でも」
「そうですね、それ下さい! これお代、お釣りはいりませんから、ごめんなさい、今は本当に取り込んでいて、お母さん、ちょっと、お母さん!? 朱桜ちゃんも、待って下さい!」
「毎度ー、何だか、すみません」
「こちらこそ、申し訳ありません。また、来て下さいね。葉子お母さん、どこ行くんです!? 二人とも、せめて顔を拭いて下さい!」 
 姫様は、混乱していた。
 一番混乱しているのは――自分と太郎の関係は、皆にどう思われているのだろうということだった。



「少し、警戒しているように感じました」
 幼い行商人が、長い耳を忙しなく動かしながら言った。
 くぐもった声が聞こえると、無邪気に笑いながら、
「うーん、別件で警戒しなければならないことがあって、その為に一応、警戒されたような」
 そう、呟いた。
「でも、いいんですか? あそこは、上客ですよ?」
 行商人が、眉を潜める。
「ああ、なるほど……それは、仕方ないですね。安底羅さんと伐折羅さんが来たら、仰せのままに。ああ、波夷羅の母様も来るんですか。久し振りに、皆さんが揃いますね。そういえば、風の噂で……本当だったのですか。わかりました。しばらくはこの辺りで暇を潰そうと思います」
 紅い眼の少女は、無邪気に微笑んだ。
「色々と、縁というものはありますなぁ……これも、奇縁というものでせうか。悪い方々ではありませぬが、少々残念であります。持ちつ持たれつ、お互いに得のできる関係だったのに。では、真達羅殿。煙草でも吹かして……と、無粋な。腕っぷしが自慢なのはいいですが、あまり暴れると怒られませうよ?」
 煙管を口元で弄び、紫煙と戯れる。
 白昼の月を見上げながら、母様に早く会いたいなぁっと、少女は物憂げに言った。