シン・ゴジラ考察
シン・ゴジラ大ヒット上映中!
通常版、4DX、IMAXと鑑賞し、残るは立川シネマシティの極上爆音上映のみ。
未だ興奮冷めやらぬ今日この頃、さらに自身の考えを徒然と書いていきたいと思います。
「日本のゴジラ史上、60年ぶりの快挙」
そう、怪獣という単語である。
掃討対象としての海獣なら出ますがね。同音異語、巧妙な罠です。
本田-円谷-伊福部、黄金トリオの手による日本初の怪獣映画、ゴジラ。
その後、ゴジラの逆襲を皮切りに、昭和シリーズ、VSシリーズ、ミレニアムシリーズと続いていくが、どの作品にもある大前提がある。
怪獣という単語が、当然のように使われている。そう、全ては続編、初代ゴジラを踏まえた作品だからだ。
シリーズに描かれるのは、ゴジラを既に知っている世界。ミレニアムシリーズはその最たるもの、初代の直系であり、各々が独立したパラレルワールドという、ある種の縮小再生を行い続けたのである(総攻撃は好き、あの和要素は素晴らしい)
その、良し悪しは述べない。ただ、初代ゴジラという、邦画史に燦然と輝く、日本初の怪獣映画という呪縛はそれほど強いものだったというだけのことである。
この作品は、ゴジラを、未知なる生き物として扱うことに成功している。
庵野総監督
それこそ、物語の破壊、つまり破綻という点でも。
実写映画では、大きな(興行的に)評価を得ていなかったが、今作において、実写映画でも、傑出した才能を持っているのだと証明してみせた。
今回のシン・ゴジラ。
極論すればヱヴァ――というのは、浅はかではなかろうか。
逆、なのだ。
庵野総監督は、八岐大蛇の逆襲等々、自主制作特撮作品で名を馳せた人物である。
それでも……やはり、その作品は、アニメの様式で作られている。あの細かなカット割りに緻密な空間設計は、実写畑の監督ではなかなか生み出せない。CG全盛期とはいえ、実写映画は映像をカメラに納める。アニメは、全てを一から作り出し、決められたカット数の中で描いていく。
無から有を創る、謂わば創造主として、全てをコントロールしなければならない。
樋口特技監督
庵野総監督の盟友。
進撃の巨人で地に落ちた評価を、何とか取り戻すことが出来たのではないだろうか。
平成ガメラシリーズ等、画作りという点では稀有な才能を持つ人物だが、物語を創る(語る)という部分では……残念ながら、非常に難がある。それは、彼の特技監督としての達者ぶりが、ストーリーテラーとしての才能を阻害してしまうからだろう。
特撮の現場では、思う通りに行くことは少ない。極論すれば、全てがライブ、一発勝負である。緻密な脚本は、足枷になってしまう。だからこそ、映画全てのコントロールを欲する庵野総監督がいるからこそ――やはり、当代随一の特技監督である。その駄目な部分が凝縮してしまったのが、あの糞映画といえるのではないだろうか。
物語の破壊は、破綻と紙一重である。
特技監督としての仕事ぶりだけでなく、邦画特有の御涙頂戴、アイドル起用、家族愛、恋愛要素、テンポの悪さ、タイアップ主題歌を全て排除できるよう庵野総監督に同調し守った点は、特筆すべきである。プロデューサーの、「矢口とカヨコを元恋人に」という案を退けるだけで、満点でせう。そして、プロデューサーがそんなことを臆面もなく嘯くという一点だけでも、邦画の病巣の深さがうかがい知れるのではないだろうか。
要素を詰め込むことは、興行「製品」として考えれば悪いことではない。
多くの要素があれば、それに惹かれた多くの観客が足を運ぶ。嗜好が千差万別となったのなら、千差万別の要素を入れてしまえばいいのだ。
しかし、多くのものを詰め込んでしまえば、物語は破綻してしまう。
結局のところ、制作会社が、そう、会議により設定されたヒットのための要素――その常識という名の非常識が、作品自体を損なってしまうのだ。
災厄という言葉が相応しい。
原爆であり、第二次世界大戦であり、あの3.11そのものである。
この映画のゴジラは、いってしまえばただ移動するだけです。明確な意思は示しません。人に危害を加えようとは感じられません。
移動とは何かを行うための手段の筈なのですが、シンゴジラにはないのです。
ただ、本能――そこに、あればですが――のままの、無垢なる生物。
であるからこそ、ゴジラがかわいそうという意見をみかけた。
さらには、こうも繋げていた。ゴジラという罪なき生き物を、最新兵器(?)でよってたかって嬲り殺しにする映画で不快だと。
ちなみに、その感想主は、初代と逆襲こそ至高なのだという。
一笑に付す愚考である。
どちらも、ゴジラを嬲り殺しにする映画である。多分、昭和のチャンピオン祭りとごっちゃになっているのだろう。
記憶というものは曖昧であり、かつ恐ろしいものだということを示唆する一件である。
ゴジラ作品はファミリーピクチャーなのだという認識があると、今回の傑作の認識を阻害してしまうのかもしれない。
シン・ゴジラは、ドキュメンタリーではない。れっきとしたエンターティメントだ。悲劇を否定はしないが、この、震災の記憶が風化されつつある(そう、風化しつつあるのです)、しかし、現実として危機はそこにあるという、危うい時代において、ただ現実を映し出すことに意味があるのだろうか。
そして、そもそも、現実を描くことが出来るのだろうか――無理なのだ。描けるわけがない。全ては、終わっていないのだ。
だからこそ、人は創作に託すのである。創作は、現実を越える――明治初期に、浮世絵が政府を風刺したように。
しかし、今の現状を、創作にすることは出来なかった。出来なかったのだ。――おそらく、あの震災に対し、真正面かつ包括的にぶつかった、現場も、会議も、その全てを描いた初めての作品となるのではないだろうか。
シェーをしたり、吹き出しで喋ったりしていただろうか。
否、である。
日本に凄まじい被害をもたらす、八百万の祟り神として描かれているのだ。
武蔵小杉は許より、建物はいうに及ばず――途中、記者が語る東京都民1300万人に対し、避難民は360万人――米軍の空爆に際し、地下に避難した人のうち、ゴジラの殺意と敵意により霞が関等が破壊された段階で何人が亡くなったのか――ぞっとする、数である。
自分は、気づいた時、ぞっとした。
明確な死の描写は、多くない。ほとんどないといっていい。あえて、描いていないのだ。それは、人物ドラマの欠如、現場の人間の感情がわからないという指摘に繋がる。
しかし、極論してしまうのかもしれないが、日本人であれば、現場がどうなっているのか、わかるはずだ。想像できるはずだ。想起してしまうはずだ。ぎりぎりの表現だったのだろうと、自分は考える。
描いてしまえば、直視できないだろう。まだ、歴史ではないのだ。
ゴジラの恐怖を、直接的な死の描写という陳腐かつ絶対にやってはならない方法ではなく、「意思疎通の出来ない」「3時間で東京を縦断する」「個体での生殖も可能」「人類を越える進化を果たし、その生存圏を大いに脅かす生物」として状況設定を重ね、さらには取り得る手段として、ヤシオリ作戦での凍結による共存と、核の炎での滅却による拒絶の二択にまで絞り込むことで、表現している。
そう、追い込まれるのだ。映画として稀有な程に、軍事・政治・経済・外交・環境と、あらゆる面で、ゴジラは人類の脅威となっている。
あれだけ巨大な生き物が、うろうろするだけでも、凄まじい被害を生み出す。
かわいそう――感情論では、済まされない存在なのだ。
感情論を嘲笑うかのように、保護団体が提出した捕獲という案は、東京湾からの上陸後は一顧だにされていない。
そして、終幕、あの尻尾に、恐怖は凝縮される。
無垢な生き物ではなく、人類を脅かす、福音であり破滅なのだ。
描写の積み重ねにより、拡張・獲得された絶望感。
虚構VS現実というキャッチコピー通りに、大量のキャストによる政治劇と、その終着点としてのタバ作戦。世界有数の軍事組織である自衛隊に存分に火力を使用させる――残弾がなくなるほどの総攻撃であり、その全てが命中してみせた。
今回の自衛隊は、強いのだ。邦画史上、類をみない強さである。
強いからこそ、それを容易く、無傷で退けてみせたゴジラの強さが際立ちのだ。
そして、中盤の熱線シーン。それまで、日本を率いていた総理大臣以下閣僚達を吹き飛ばしたあのシーンこそ、現実が虚構に敗北した瞬間といえるだろう。
閣僚は、それぞれが、きっちりと仕事を行っていた。閣僚だけではない、官僚、自衛隊員、民間人――この映画において、愚かな人物はいない。本当にいないのだ。
今までの邦画では、ダメな人間or正論のみを吐く人間が、どう考えても間抜けとしかいいようのない選択をして、泥沼に落ちていくという展開が多くみられた。話の持って行き方として、容易で、かつそれこそが人物描写なのだと、派手な感情演技とともに頻出していた。某進撃の巨人のように、糞みたいな登場人物が自業自得を繰り返すのではなく、真摯に対応した結果として、日本は破滅の瀬戸際に、いえ、破滅させられるのである。
凡百の映画であれば、総理は無能に描かれるだけでしょう。しかし、一国の長として、国民を大切にし、その舵取りに対する責任を持つ。想定外の出来事に対し、振り回されながらも、確実に対処を行おうとする、一国の、日本の首相としての覚悟と有能さが伺えるのだ。その閣僚達も、防衛・防災・官房長等々、自身の仕事に誇りを持ち、想定外の未曽有の存在に対し、真摯に立ち向かっている。
だからこそ――熱線シーンは絶望なのだ。
その後、この映画は、巨災対を中心とした虚構VS虚構の様子を呈していく。
主役級の一人である矢口が、薄っぺらいヒューマニズムを吐くことはない。
この作品の誰もがそうだ。総理は、第三形態に対する攻撃を、逃げ遅れた市民がいるとして中止させる場面がある。そこでも、容易なヒューマニズムは存在しない。
自衛隊に、市民へと武器を向けさせるな――この台詞からは、戦後の重みが感じられる。
巨災対は、はぐれ者の一団である。
だが、疑問に思うのである。組織のはぐれ者とは、何なのだろうか。人は、何らかの組織の一員であり、同時に個であり、はぐれ者といえる。一般の人とは、架空の存在です。自身が、凡人で、一般人だと――そう胸を張って言えるのは、ほんの一握りだけだろう。
いってみれば、巨災対は、おたくの集まりである。勿論、その力をめいいっぱい使えるように、仕掛けは施されていますが――出世に関与しないから、好きにしろ。
かくして、決行されるヤシオリ作戦は、空想特撮映画好きにとっては最高のものである。
無人在来線爆弾、全車突入!で燃えないとは何事であるか。
今まで、怪獣映画では壊されるだけだった存在が、シン・ゴジラという神に抗うのだ。
しかし、中盤まで現実を丹念に描いていたからこそ、どうしても浮いてしまう場面であり、否の意見もあるだろう。
が、やっぱりこれはゴジラ映画なのだ。ポリティカル・サスペンス映画であり、パニック映画であり、そして空想特撮映画なのだ、その点を忘れてはいけないのだ。
新幹線・在来線爆弾ともに、あそこまで仮設線路をひいた上で使用しており、さらに訓練済みとなっている。タバ作戦で、足元への空爆が利いていたからこそ、電車に詰めた大規模火力を用いるのだ。伏線は張ってあるが、虚構に軸足を置いているからこそ、その落差に戸惑うのである。
人間ドラマとは?
シン・ゴジラの欠点として、人間ドラマの薄さが指摘されている。
そも、人間ドラマとは、何なのだろうか。
恋愛要素だろうか? 家族要素だろうか? その人物背景だろうか? それは、駄作と化した邦画の残念な部分ではなかっただろうか。製作側の都合による、詰め込み過ぎの安パイではなかっただろうか。
邦画の駄目な点は、盛り込まれていない(ギャレム版ゴジラは、家族要素が強すぎた。ゴジラのいる世界――から、ゴジラに対する個人を描いたからこそなのだろうと思うが、その点を含め、違和感があった。多分、ヒーロー、救世主としての在り様が強かったからだろう。それは、荒ぶる神々の概念がない為ともいえます)
この映画には、必要ないのです。三時間分の脚本を詰めに詰め、二時間の尺に収めたというのに、どこに入れるスペースがあるのでしょうか。
家族を救おうといえばいいのだろうか。
恋人とのラブシーンを入れればいいのだろうか。
死者を弔えばいいのだろうか。
個の発露、公私のバランスで言えば、登場人物の示す行動に置いて、私の占める割合は、極めて少ない。
当然だ、これは、ゴジラ映画なのだ。主役はゴジラであり、そして組織としての日本なのだ。登場人物の全てを、ゴジラとの関係性で語るべきだろう。
そして、登場人物達はあの凄まじい数のキャストは、十二分に人間ドラマを織りなしているのではないだろうか。
陳腐な、感動を招こうとする場面は、いらない。それを入れてしまった瞬間、凡百の映画に堕してしまう。
それに、決して薄っぺらい人物達ではない。僅かな登場シーンでも、その人物を想像させる余地がある。
この作品に置いて、所謂人物描写の代わりに力を発揮するのが、状況描写です。終止、ゴジラに対し、どのような状況が生まれ、対処していくかが描かれています。
卓越した状況描写――原田版日本の一番長い日では削られてしまった(人物描写に重点を置いたからこそ、ぶれてしまった)部分こそ、この映画の胆です。
饒舌さは、ありません。
テンポの良い編集が、それを可能にしています。
昨今の邦画は、饒舌な設定の語りが多いのです。それが本当に必要なのか、ただの蛇足なのかは、わかりません。
恋愛要素が欲しいというなら、シン・ゴジラを見るべきではない。
観る映画を間違えている。
それでも、こみ上げてくるものがあるのは……本当に、こんな映画が、観たかったのだ。
この映画は、ゴジラ映画史、特撮映画史、いや邦画史に残る傑作になりうる映画だ。
ジアートオブゴジラが、来月に届く予定である。
また、ぐだぐだと文を連ねるだろう。