小説置き場2

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紀霊伝ノ1

 あと、もう少し、もう少しで、徐州を抜けられる……
 総勢一万。
 よく、付いてきてくれた。
「紀霊様、あと、少しですね!」
「うん」
 心が、弾んだ。
 南方に覇を唱えた名門袁家のもう一人の主。
 袁術
 曹操呂布孫策に敗れ、その力のほとんどを失った。
 十万を数えた大群は、今は見る影もなく。
 それでも、袁術軍唯一の武将となった紀霊には、悲壮感は表面的にはなかった。
「あの、紀霊様……」
 話しかけてくるのは、副将に任命した男。楽就という。
 以前の副将は、既にこの世に、ない。
「大丈夫なのでしょうか?」
「なにがだ?」
袁紹……袁術様とは、仲が悪いのでは……」
「大丈夫、だろう。袁紹殿は、殿のことを、本当に大事にしていられた。それは今もだ」
 幾つも幾つも、文が届いていた。
 大抵、返事は書かれていなかったが。
「はあ」
「そう、心配するな」
「あ……」
「どうした?」
「いえ、紀霊様が笑うなんて、あまり見た事がなかったので……」
「……そうか?」
「ええ。最近はよく笑っておられるようですけど、前は、無愛想……その……す、すいません! 紀霊様に失礼な口を!」
「……いや、気にするな」
「は! ありがとうございます!」
「しばらく、お前に任せる。私は、殿の所へ」
「あ、はい!」
 楽就は実直だ。能力は、それほどでもないが、今は、それでいい。
 そう、紀霊は思った。



「殿……」
 がたごとと、身体が揺れる。
 馬車の中。
 男が、眠っている。
 紀霊の呼びかけに目を覚まし、身体を起こそうとした。
 それを、助ける。
 痩せていた。
 病が、この方を蝕んでいるのだ。
 全てを、見通すかのような瞳。
 私は、この方と今まで生きてきた。
 それは、これから……も?
「なんだ紀霊……泣いているのか?」
「い、いえ」
「泣いているではないか」
 困ったように、笑った。
 昔を、思い出す。よく、この方はこんな笑みをしていた。
 私はそれを見るだけで、心地よかった。
 いつから、その笑みが消えたのだろう……?
「殿、本当に大丈夫なのですか? 袁紹殿は、本当に、殿を?」
 さっき、楽就には心配するなと言った。
 それは、嘘、偽り。
 そう、言うしかなかった。
 私の、本心は……乱世は、人の心を変える。
 親兄弟とて、例外では、ない。
「さあな。もしかしたら、兄上に会う前に即刻打ち首かもしれん」
 絶句、するしかなかった。
「兄上が天下を掴む機会は、何度となくあった。それを邪魔したのは、私だ」
「いやです!」
 知らぬ間に、叫んでいた。
「いやです、袁術様! 貴方を失ったら私は、私は!」
「外に、聞こえるぞ」
袁術様! 生きて下さい! その……私の……ゴニョゴニョ」
「……?」
「いえ、その……ゴニョゴニョ」
「顔、赤いぞ」
「は、はあ……」
 どうも、慣れないなあ……
 今まで、男として、生きてきたからなあ……
袁術様! 紀霊様! ……はて?」
 馬車に、飛び乗る者が。
 紀霊が三尖刀を握りしめた。
「なんだ、楽就か。ど、どうした?」
「顔、真っ赤ですけど……」
「気にするな馬鹿!」
 馬鹿って……
 ひどい……
「って、それどころじゃあ! 前方に軍の姿が!」
「軍、どこだ? 兄上か?」
 袁術が言った。
「殿、早過ぎます」
「そうだな……」
「掲げる旗は、曹、劉の二文字。どうやら、劉備軍のようです」
 呂布が敗れたあと、劉備は徐州にいた。
 統治を、任されたわけでは、なかった。
「……数は?」
「およそ……三万……」
「あ……」
 目の前が、真っ暗になった。
 敗軍の一万が、呂布を破り勢いに乗る曹操の三万に、勝てるわけ……
「……!」
 楽就が、何か言っている。
 何も、聞こえなかった。
「聞こえ……ない……」
「紀霊」
 穏やかな、声。
 気持ちが、落ち着いていく。
 ずっと、聞いていたい。
「鎧を、用意してくれ」
「あ……」
「死に装束と、言う奴だな」
 どうして、笑っていられるのですか?
 私は、
「いや……いや……」
「潮時、か……」
 抱きかかえられていた。その胸で、泣くことしか、出来なかった。
 楽就が、離れていく気配。
 ただ、泣く事しか出来なかった。