小説置き場2

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紀霊伝ノ2

「はん、こんなところで敗残の兵の相手とはねえ」
 劉備が、いった。
 傍らには義兄弟の関羽張飛
 そして、
劉備殿、敗軍とはいえ、侮れませんぞ」
 言ったのは車冑。
 中年の武将。曹操の兵を預かっていた。叩き上げ、である。
 劉備と車冑。
 二人の関係は、微妙なもので。
 一応は、軍内では同格である。
「車冑さん、孫策にずたぼろにされた相手だ。そんなに、頑張ることないさ」
「なんと! 殿のご命令は袁術を打ち倒す事!」
「ああ、もう、わかってるって」
 ふくれっ面で退出する車冑。
 劉備はそれを見送り、溜息を一つつくと、
「うざいなあ」
 と言った。
「いい、人選ですな」
 その長い髭をさすりながら、関羽が言った。
「よく、命令を守る。それだけしか出来ないとも、言えますが。なんにしろ、我々の監視役には適任でしょう」
「大兄貴、どうすんですか? まだ、陳到趙雲、帰ってきていませんぜ」
 陳到趙雲。二人の姿がない。
「う~ん」
 考えるそぶり。
「そうだねえ、張さん、ちょっと一人でいってくんな」
「一人?」
 おいおいと。
 いくら自分の腕に絶大の自信があるとはいえ、一人では……
「なあに、時間稼ぎさ」
 劉備が、笑いながら言った。



「立場が、逆転したものだなあ」
 一度、劉備と戦をしたことがあった。
 その時は、こうなるとは、思ってもいなかった。
 手綱を握る手が、震える。
 久方ぶりに着る鎧は、ぎっちりと、重い。
 今は、武器を持つ事も出来まいと、袁術は考えていた。
「紀霊、なにかあればお前だけでも」
「いやです」
 即座に、否定する。
「私は、どこまでも殿のお側に」
「うん……」 
 ここを、突破出来れば。だが、出来るか?
 無理、だろう。
 大音声が、響いた。
 落雷のような、大きな音。
 全身に気を漲らせながら、蛇矛を構え、ゆっくりと馬を歩かせる。
 知っている顔だった。
「おうおう! 張飛様のお出ましだあ、袁術軍の腰抜け共!!!」
 張飛
 その名は、天下に鳴り轟いていた。
「ちょ、張飛……」
「うろたえるな、楽就」
 軍に、動揺が走る。
 張飛一人に、これだけ動揺するとは。
 気付かぬ間に、随分と、脆くなっていた。
「まずいな」
 袁術が言った。
「これでは、戦に、ならん」
 そう続けると、歩を進めた。
 軍の注目が、一斉に集まった。
 陣頭に立つ、主の姿。何時、以来だろう。
 堂々とした歩み。まさに、英傑の姿。
 だが、それが自分の身を削っての歩みだということが、紀霊の胸を痛みつける。
「へえ。袁術どん、戦に出れないと思っていたのに、なんとまあ頑張ってるじゃないか!」
 感心したように。
 関羽も、ほおっと感嘆の声。
劉備殿!」
「五月蠅いなあ……」
「兄上、まだ」
 その、「徳の仮面」を脱ごうとした劉備を、関羽が、なだめた。
「わかってるよ……」
劉備殿! どうして攻めないのですか! 何故、張飛殿だけ!?」
「ああ、車冑さん、わかんないの?」
 馬鹿にしたような響き。しかし、それに車冑は気付かなかった。
「わかりませぬ! 早く攻めましょう!」
「まあまあ、いいかい、車冑さん。張飛が一人で行ったのはねえ」



「どうした! 俺と一騎打ちをしようって奴はいないのか!」
 紀霊が、舌打ちした。
 相手の意図が、分かっているのだ。
「わ、私が!」
 楽就が名乗り出ようと。それを、紀霊が止めた。
「馬鹿!」
「また、馬鹿って……」
「勝てるのか?」
 袁術が、涼しい声で。楽就がうつむいた。
「楽就。一騎打ちに敗れれば、この軍は終わるぞ。唯でさえ、士気が落ちているというのに、武将格の者がここで敗れてみろ、一気に瓦解するのは目に見えている」



「でもねえ、車冑さん。張飛の申し出を受けなかったら、それはそれで、終わりなんだよねえ。一騎打ちを受ける事も出来ない軍が、そこまで人のいなくなった軍が、勝てるわけ、ないから。ここでの、袁術どんの選択肢は」



「私が、行きます」
 紀霊が言った。
 それしか、なかった。
 袁術軍最強の紀霊が、出るしかない。
 出て、勝てば、ここを突破できる可能性も生まれてくる。
「紀霊……」
「勝って、みせます。約束したはずです、袁術様を、袁紹殿のところに連れて行くと。ですが……」
 袁術が、顔を下にした。
「お前は、死なぬ」
袁術様……」
「死なないだろう? なあ」
 袁術様の細くなった指が、私の目の上の刀傷をなぞった。
 それが、頬で止まる。
 温かい。
 袁術様の指を、自分の指で絡め取る。
 暖かい。
 ゆっくりと、名残惜しそうに、愛おしそうに、その手を、離した。
「行って、参ります」
 一礼をして、紀霊は馬を走らせた。

 

 張飛が、目を細めた。
 自分に近づく影に、気が付いたのだ。
 出てきたか。へえ、やっぱりそうなるか。
「紀霊、だな」
「いかにも!」
 大兄貴の、言ったとおりだな。
 ま、よく出てきてくれたよ。
「さて、と……」
 考えてみりゃあ、久し振りか。呂布との戦、ほとんど参加しなかったものな。
 一応、高順とやり合ったけど、物足りなかったしな。
「殺り合おうか」
「ほざけ」
 両者が、武器を構える。
 濃密な、闘気。
 少しずつ、両者が馬を近づけていく。
 じりじりと、じりじりと。
 蛇を象りたる凶刃、蛇矛。
 父の形見たる凶刃、三尖刀。
 間合いが、近くなる。両者の間合い。汗が落ちていく。
 季節は、冬。
 それでも、落ちていく。
 二人だけの世界。
 刃が、舞った。
 張飛の雄叫び。
 蛇矛が、煌めいた。それを避ける。
 二の刃、三の刃、それも、避ける。
 そこで、一瞬、隙が出来た。
 紀霊が、その無防備になった張飛の胴体に、三尖刀を打ち込んだ。
「やる、ねえ……」
 劉備が、いった。
 兵の、大きな歓声。一瞬の攻防。
 見事であった。
「どうだい、関さん?」
「なかなか、ですな」
「なかなか、かい」
 二人は、落ち着いていた。
 車冑を見る。大きく目を見開いて、息を呑んでいるだけだった。
 小者が。
 そう思った。
「すげえ! 殿! 紀霊様、すげえっすよ!」
「あ、ああ……」
 やはり、紀霊は強い。当たり前だ。誰よりも、自分はそのことを知っている。
 袁術の喉を、熱いものが通った。
 我慢、する。
「ぐっ……」
「殿?」
 苦しげな表情になった袁術を、楽就が気遣う。
 袁術は、咳き込んだ。掌に、咳き込んだ。
 血が、漏れ出ていた。
「まだ、だ……今、倒れたら……」
 また、咳き込んだ。
 いや、
 血を、吐いた。
「まだ……耐え」
袁術様!!!」



「やるねえ……」
 張飛が、言った。
 肩で、息をつく。張飛の胴を、薙ぎ払ったと思った。すんでの所で、かわされた。
 鎧にえぐるような傷。紙一重といったところか。
 張飛が、舌なめずりをした。
 獣のような目。
 怖くはないと思った。 
 あの、呂布に比べれば、可愛いものだ。
 あれと比べれば……殿?
 殿?
袁術さまあああ!!!」
 馬上より落ちる、愛しい人。
 張飛が、その隙を見逃すはずもなく。
 振りかぶられた蛇矛。
 なんとか、それを防ごうと。
 がっ、と音がした。
 紀霊の馬の命が一瞬で奪われる。
 紀霊は、その剛力によってくり出された一撃を、受け止めた。
 しかし、愛馬は耐えられなかった。
 地に、背中をつけている。
 三尖刀。
 ひびが、入っていた。
「ぐっ……」
「あ~あ……袁術、倒れちまったな」
袁術さま……」
 首を、傾ける。
 見えなかった。
「ここまでか。もったいないな。もう少し遊べると思ったのに」
「まだ、だ……」
「何が出来る? もう、戦えないんだ、お前は」
「いやだ! 約束したんだ! 私は、袁術様と……」
「……お前、袁術袁術って……うん?」
 張飛の目が、私の胸の上にいったような。
 もしかして、さらしが取れた?
「ああ、なるほど……って、お前、女だったのか!!!」
 そんな大声で言わなくても……
「……悪いか?」
「いや、別に悪くはねえよ。全然、悪くない。うん。身近に、いるし」
袁術様……」
 袁術の方へ、這っていく。楽就が、受け止めてくれたようだ。
 馬鹿、そんな顔でこっちを見るな。
 なにを、言っている?
 もっと、大きな声で……
「無事、だってよ」
 そっけなく、張飛が言った。
 暴れ者だと聞いていたが、それだけではないのかもしれない。
 そう、思った。
張飛……ありがとう」
「本当、やりずれえわ……」
 何とか、立ち上がる。
 張飛は、何もしてこなかった。
 父の、形見。
 父は、私を女として、育てはしなかった。
 今なら、そういうこともないだろう。
 昔は、違ったのだ。
 それを、恨みもした。
 だが、あの方と出会えてから、一日たりとも感謝の気持ちを忘れたことはなかった。
「こい」
「その、折れた武器でか? 待っててやる。変えてこいや」
 とんとんと、張飛が自らの肩を蛇矛で叩いた。
「これで、いい」
「……そうかよ」
 張飛が、蛇矛を私の胸に構えた。
 身体が、悲鳴を上げている。
 もう、構えているのがやっと。
 張飛は、攻めてこなかった。
「どうした?」
 声を出す事も、きつい。
「やりずれえんだよ……泣きやがって……」
「え……」
 顔に、手をやる。涙が、零れていた。
「く……覚悟は、出来ている」
「うるせえなあ、おい! ちょっと黙ってろ!」
 どういう、つもりだ?
 あ、と、思い当たった。
「私は、貴様の……女……には……そのだ……ゴニョゴニョ」
「はあ?」
「だ、だから……」
 がくっ、と片膝を、ついた。限界、か。
 殿……
「私が仕えるのは、一人だけだ」
「ああ、そうか。って、あれだ、勘違いすんなよ、おい!」
 むきになって答えるのが、怪しい。
「情けのつもりか?」
「ちげえよ……」
 張飛が、ちらちらと、自分の陣を気にし始めていた。
「さっき、馬が駆け込んだ。ありゃあ、趙雲……さて、と」
「なにを……言っている?」
「よかったな、命拾いしたみたいだぜ」
「え?」
 劉備の陣が、割れた。誰かが、出てくる。
 劉備関羽。それに、あれは確か陳到趙雲
 劉備が持っているのは……首?