長江、燃える(1)
長江。
その大河を埋める大船団。
その旗にそびえるは「孫」の壱文字。
小覇王、孫策。
袁術の旧領土を制圧した彼は、ついに憎き敵を討ち取ろうと。
荊州牧・劉表が配下、「黄祖」
その名前は、孫家に深い深い恨みを刻んでいる。
先の孫家の主。
江東の虎と詠われた英傑・孫堅。
その孫堅を討ち取ったのが、黄祖である。
その恨みは、今も孫策の胸の内に、迸る流れとなって住み着いていた。
「孫策」
「なんだ?」
船上。
舳先に立っている主に話しかける。
案外に、冷静ではないかと周瑜は思った。
「ついに、この時が来たのだな」
「うん。長かったような短かったような。やっと、親父の仇を討てる」
「黄祖の兵はそれほど強くはない。いけるぞ」
袁術の追討を行おうとしたとき、黄祖は兵を動かした。
袁紹の意を、劉表が汲んだのかもしれない。
おかげで、袁術を討ちそこなった。
その時、黄祖と軽く戦ったのだ。
戦慣れ、していないと感じた。無理もない。
大殿と戦って以来、戦らしい戦を経験していないのだ。
劉表軍第一の将といっても、その程度だった。
「油断は、しない。だが、この戦で奴の首を獲る。一気に、荊州を獲る。そうすれば、曹操、袁紹に肩を並べられる」
乱世の二つの巨星。
今、名をあげるとすればこの二人だろう。
最強を誇った漆黒の戦姫を撃ち破った曹操。
白馬将軍・公孫瓚を滅ぼした袁紹。
まだまだ、孫策はその域に達していない。
「そうそう、妹君のことなんだが」
孫策と周瑜は、義兄弟、である。
昔、その美貌と二凶と呼ばれる勇猛ぶりで名高かった大喬・小喬姉妹に二人で挑み、ずたぼろにされた。だが、その根性を認められたのか二人に気に入られ、娶る事が出来た。
そういう間柄、なのだ。断金の交わりと、言われていた。
妹君。
それは孫家のじゃじゃ馬姫のことをさす。
孫策の「妹」で孫権の「姉」、「孫尚香」のことである。
最近家を飛び出して、姿をくらましてしまったのだ。
「なに! 見つかったのか!?」
「うちの嫁さんが言うには、西涼にいるらしい。魯粛達が迎えにいったそうだ」
「西涼? どうしてそんなところへ?」
「……呂布が、いるそうだ」
「呂布殿が……」
その名は、甘酸っぱい思い出。
もう、あの集まりはなくなってしまった。
せっかく応募ハガキを大量に準備したのに。人形……欲しかったな。
まあ、領内で集まりを復活させようと粛々と準備しているのだが。
「おい、どこにトリップしてる?」
「!? いや、トリップって……主君にそんな言葉……あ、すみません。それで、うちのじゃじゃ馬姫はどうして呂布殿のところへ? あれか、腕試しか?」
妹には、小覇王と呼ばれる孫策ですら手を灼くほどで。
気の強さもさることながら、大喬・小喬譲りの武芸を誇るのだ。
「いや、これは魯粛からだが、伝国の玉璽を呂布殿が持っているらしい」
「……それを、奪いにか……」
伝国の玉璽。
秦の始皇帝が用いた印章。
それを持つ者が、天下に覇を唱えることが出来るという。
孫策の父、孫堅は、洛陽の井戸の底からそれを見つけたと言われていた。
が、それは真っ赤な偽物であった。
偽物でも、兵を得るのに役にはたったが。
「なぜ、呂布殿が?」
「わからん。わからんが、何らかの方法で手に入れたらしいな」
「……ただの、石ころなんだがなぁ」
「い、石ころって!」
「まあ、いいや。無事に戻ってくれれば、それでいい」
穏やかな表情で言った。
「もうすぐ、だな。妹には、悪いが、今はソレド……コロ…ジャ……ナイ……」
「無茶苦茶心配してるな、おい」
「だって、呂布殿にちょっかいかけたら……」
「うーん……」
「……そろそろ、かな」
「……やっと、か」
「先鋒は、凌操」
「凌操殿か。大殿のご友人であったからなぁ。燃えているだろう」
凌操。
さきの袁術との戦でも先鋒を勤めた猛将、である。
今回の戦では、息子を連れていた。
「凌統は初陣か。無事、生き残ってほしいものだな」
自分の初陣を、思い出す。
……あんまり、思い出したくない。
「……全軍を止めてくれ。幕僚を集めろ。皆に言いたい事がある」
「わかった」
船の旗手が、その旗を振る。
全軍、静止。
孫策は、息を大きく吸い込んだ。
「我らが恨み……受けよ、黄祖」
軍が、慌ただしくなる。
敵船団、出現!
あちこちに、その報が響いている。
一際大きな船。
そこにも、報告が。
その言葉を聞き終えると、この戦のもう一人の主が口を開いた。
「きたか……本腰だな、孫家の若造は」
堂々たる偉丈夫。
全身の傷が、その歴戦を物語る。
黄祖。
江夏郡の主、孫家の宿敵、劉表軍筆頭武将。
猛々しくその瞳が光を発して。
「蘇飛、さすがに早いな」
「はい、予想以上と言えましょう」
副官に、声をかける。
そこには、黄祖・蘇飛を含めて六人。
濃密な戦の匂いが漂っていた。
「黄祖のおっさん、先陣、おれに任せてくれや」
鈴が、なった。軽装の若い男。
鈴で出来た首飾りをつけている。
その背には、雉の羽根飾り。
「甘寧、もちろんだ」
「やりぃ!」
元・川賊、甘寧。
鈴の甘寧と呼ばれていた。
長江の水賊にとってその名は畏怖すべきもの。
今は川賊から足を洗い、黄祖に仕えていた。
「お待ち頂きたい」
翁が言った。随分と、大柄である。
鈴が、不機嫌な唄を鳴らす。
甘寧が、その翁に歩み寄った。
「……じじぃ、やっとしゃべったと思ったらそれか。寝言は寝て言え、ああ!? それとも寝てんのか!?」
烈火の如く、怒る甘寧。
一瞥すると、無表情にその頭を鷲掴みにし、翁は甘寧を持ち上げた。
その風貌からは想像できない、逞しい腕だった。
じたばたと、甘寧が抵抗する。
「な、なにしやがんだじじぃ!」
大木のような腕は、しっかり掴んで甘寧を離さない。
「……口の利き方にきをつけよ鼻垂れ小僧、長江の藻屑にしてやろうか」
「叔父上、やめよ。相手を間違えている」
「ふむ」
翁が、手を離した。甘寧が尻餅をつく。
若い男が、笑った。
甘寧より、幾分年上である。笑い方が丁寧であった。
「わ、笑うんじゃねぇ! 文聘!」
「失礼」
そう言いながらも、笑っていた。
「よしよし。戦の前、熱くなるのも、悪くはない」
枯れ木のような翁が言った。
黄祖に叔父上と呼ばれた翁とは全く違う。
しかし、隙のない佇まいであった。
「司馬徽殿、二人を煽らないで下さい」
蘇飛がいった。一応はたしなめるという形ながらも、どこか楽しんでいる気配が。
「よしよし」
ふぉ、ふぉと笑った。
司馬徽。
荊州に水鏡一派を成立させた隠士。
それは、表向きは学者の集まり。
しかし、その一門に連なる者の中には、劉備配下・陳到の名もあった。
「司馬徽殿……全く」
「先鋒は、叔父上と甘寧の二枚でいくか」
「はぁ!? 本気かよ!? なんで俺がこのじ」
弓が、つがえられた。きりきいと、引き絞られる。
その的は――甘寧。
その神速に、甘寧はついていくことが出来なかった。
「これで、どうだ?」
「ぐっ……」
「こ、黄忠殿……」
蘇飛がなだめる。
黄忠。
その弓の腕前は、まさに、神技。
曹操配下・夏侯淵。劉表配下・黄忠。
天下の弓の名人と言えば、まずこの二人。
そう、世の人々に、噂される。
「叔父上、やめよ。だから敵を間違えておる。甘寧、よいな」
「わ、わかった。わかったから、その物騒なもんを引っ込めろ」
「……わかればよろしい」
「よしよし」
「なんだかなぁ……」
「こえー、こえーよこのじ」
ギロリと睨んだ。
「……おじいさん」
文聘が、やれやれと。
「よしよし」
「叔父上は強いぞ。甘寧も気をつけるんだな」
「……はーい」
「心強い味方よ。敵に回せばこれほど恐ろしい人もおらんわ」
かかっと、大きな笑いをした。
その大河を埋める大船団。
その旗にそびえるは「孫」の壱文字。
小覇王、孫策。
袁術の旧領土を制圧した彼は、ついに憎き敵を討ち取ろうと。
荊州牧・劉表が配下、「黄祖」
その名前は、孫家に深い深い恨みを刻んでいる。
先の孫家の主。
江東の虎と詠われた英傑・孫堅。
その孫堅を討ち取ったのが、黄祖である。
その恨みは、今も孫策の胸の内に、迸る流れとなって住み着いていた。
「孫策」
「なんだ?」
船上。
舳先に立っている主に話しかける。
案外に、冷静ではないかと周瑜は思った。
「ついに、この時が来たのだな」
「うん。長かったような短かったような。やっと、親父の仇を討てる」
「黄祖の兵はそれほど強くはない。いけるぞ」
袁術の追討を行おうとしたとき、黄祖は兵を動かした。
袁紹の意を、劉表が汲んだのかもしれない。
おかげで、袁術を討ちそこなった。
その時、黄祖と軽く戦ったのだ。
戦慣れ、していないと感じた。無理もない。
大殿と戦って以来、戦らしい戦を経験していないのだ。
劉表軍第一の将といっても、その程度だった。
「油断は、しない。だが、この戦で奴の首を獲る。一気に、荊州を獲る。そうすれば、曹操、袁紹に肩を並べられる」
乱世の二つの巨星。
今、名をあげるとすればこの二人だろう。
最強を誇った漆黒の戦姫を撃ち破った曹操。
白馬将軍・公孫瓚を滅ぼした袁紹。
まだまだ、孫策はその域に達していない。
「そうそう、妹君のことなんだが」
孫策と周瑜は、義兄弟、である。
昔、その美貌と二凶と呼ばれる勇猛ぶりで名高かった大喬・小喬姉妹に二人で挑み、ずたぼろにされた。だが、その根性を認められたのか二人に気に入られ、娶る事が出来た。
そういう間柄、なのだ。断金の交わりと、言われていた。
妹君。
それは孫家のじゃじゃ馬姫のことをさす。
孫策の「妹」で孫権の「姉」、「孫尚香」のことである。
最近家を飛び出して、姿をくらましてしまったのだ。
「なに! 見つかったのか!?」
「うちの嫁さんが言うには、西涼にいるらしい。魯粛達が迎えにいったそうだ」
「西涼? どうしてそんなところへ?」
「……呂布が、いるそうだ」
「呂布殿が……」
その名は、甘酸っぱい思い出。
もう、あの集まりはなくなってしまった。
せっかく応募ハガキを大量に準備したのに。人形……欲しかったな。
まあ、領内で集まりを復活させようと粛々と準備しているのだが。
「おい、どこにトリップしてる?」
「!? いや、トリップって……主君にそんな言葉……あ、すみません。それで、うちのじゃじゃ馬姫はどうして呂布殿のところへ? あれか、腕試しか?」
妹には、小覇王と呼ばれる孫策ですら手を灼くほどで。
気の強さもさることながら、大喬・小喬譲りの武芸を誇るのだ。
「いや、これは魯粛からだが、伝国の玉璽を呂布殿が持っているらしい」
「……それを、奪いにか……」
伝国の玉璽。
秦の始皇帝が用いた印章。
それを持つ者が、天下に覇を唱えることが出来るという。
孫策の父、孫堅は、洛陽の井戸の底からそれを見つけたと言われていた。
が、それは真っ赤な偽物であった。
偽物でも、兵を得るのに役にはたったが。
「なぜ、呂布殿が?」
「わからん。わからんが、何らかの方法で手に入れたらしいな」
「……ただの、石ころなんだがなぁ」
「い、石ころって!」
「まあ、いいや。無事に戻ってくれれば、それでいい」
穏やかな表情で言った。
「もうすぐ、だな。妹には、悪いが、今はソレド……コロ…ジャ……ナイ……」
「無茶苦茶心配してるな、おい」
「だって、呂布殿にちょっかいかけたら……」
「うーん……」
「……そろそろ、かな」
「……やっと、か」
「先鋒は、凌操」
「凌操殿か。大殿のご友人であったからなぁ。燃えているだろう」
凌操。
さきの袁術との戦でも先鋒を勤めた猛将、である。
今回の戦では、息子を連れていた。
「凌統は初陣か。無事、生き残ってほしいものだな」
自分の初陣を、思い出す。
……あんまり、思い出したくない。
「……全軍を止めてくれ。幕僚を集めろ。皆に言いたい事がある」
「わかった」
船の旗手が、その旗を振る。
全軍、静止。
孫策は、息を大きく吸い込んだ。
「我らが恨み……受けよ、黄祖」
軍が、慌ただしくなる。
敵船団、出現!
あちこちに、その報が響いている。
一際大きな船。
そこにも、報告が。
その言葉を聞き終えると、この戦のもう一人の主が口を開いた。
「きたか……本腰だな、孫家の若造は」
堂々たる偉丈夫。
全身の傷が、その歴戦を物語る。
黄祖。
江夏郡の主、孫家の宿敵、劉表軍筆頭武将。
猛々しくその瞳が光を発して。
「蘇飛、さすがに早いな」
「はい、予想以上と言えましょう」
副官に、声をかける。
そこには、黄祖・蘇飛を含めて六人。
濃密な戦の匂いが漂っていた。
「黄祖のおっさん、先陣、おれに任せてくれや」
鈴が、なった。軽装の若い男。
鈴で出来た首飾りをつけている。
その背には、雉の羽根飾り。
「甘寧、もちろんだ」
「やりぃ!」
元・川賊、甘寧。
鈴の甘寧と呼ばれていた。
長江の水賊にとってその名は畏怖すべきもの。
今は川賊から足を洗い、黄祖に仕えていた。
「お待ち頂きたい」
翁が言った。随分と、大柄である。
鈴が、不機嫌な唄を鳴らす。
甘寧が、その翁に歩み寄った。
「……じじぃ、やっとしゃべったと思ったらそれか。寝言は寝て言え、ああ!? それとも寝てんのか!?」
烈火の如く、怒る甘寧。
一瞥すると、無表情にその頭を鷲掴みにし、翁は甘寧を持ち上げた。
その風貌からは想像できない、逞しい腕だった。
じたばたと、甘寧が抵抗する。
「な、なにしやがんだじじぃ!」
大木のような腕は、しっかり掴んで甘寧を離さない。
「……口の利き方にきをつけよ鼻垂れ小僧、長江の藻屑にしてやろうか」
「叔父上、やめよ。相手を間違えている」
「ふむ」
翁が、手を離した。甘寧が尻餅をつく。
若い男が、笑った。
甘寧より、幾分年上である。笑い方が丁寧であった。
「わ、笑うんじゃねぇ! 文聘!」
「失礼」
そう言いながらも、笑っていた。
「よしよし。戦の前、熱くなるのも、悪くはない」
枯れ木のような翁が言った。
黄祖に叔父上と呼ばれた翁とは全く違う。
しかし、隙のない佇まいであった。
「司馬徽殿、二人を煽らないで下さい」
蘇飛がいった。一応はたしなめるという形ながらも、どこか楽しんでいる気配が。
「よしよし」
ふぉ、ふぉと笑った。
司馬徽。
荊州に水鏡一派を成立させた隠士。
それは、表向きは学者の集まり。
しかし、その一門に連なる者の中には、劉備配下・陳到の名もあった。
「司馬徽殿……全く」
「先鋒は、叔父上と甘寧の二枚でいくか」
「はぁ!? 本気かよ!? なんで俺がこのじ」
弓が、つがえられた。きりきいと、引き絞られる。
その的は――甘寧。
その神速に、甘寧はついていくことが出来なかった。
「これで、どうだ?」
「ぐっ……」
「こ、黄忠殿……」
蘇飛がなだめる。
黄忠。
その弓の腕前は、まさに、神技。
曹操配下・夏侯淵。劉表配下・黄忠。
天下の弓の名人と言えば、まずこの二人。
そう、世の人々に、噂される。
「叔父上、やめよ。だから敵を間違えておる。甘寧、よいな」
「わ、わかった。わかったから、その物騒なもんを引っ込めろ」
「……わかればよろしい」
「よしよし」
「なんだかなぁ……」
「こえー、こえーよこのじ」
ギロリと睨んだ。
「……おじいさん」
文聘が、やれやれと。
「よしよし」
「叔父上は強いぞ。甘寧も気をつけるんだな」
「……はーい」
「心強い味方よ。敵に回せばこれほど恐ろしい人もおらんわ」
かかっと、大きな笑いをした。