あやかし姫~迷いの森(4)~
ぽんと、煙が起こった。
闇が動きを止めた。
朱桜と沙羅が目をまあるくする。
姫様が、よし、といった。
闇が、怯む、後ずさりする。
煙が、晴れる。
姫様のかざした手の平。そこにはもう、なにも書かれていなかった。
「わん」
「……」
「……」
「……」
一瞬、一時、時間が止まった。
姫様の顔が引きつって。
恐る恐る、闇が姫様達に近づき始める。
また、それは「わん」といった。
「……子犬?」
「さ、彩花ちゃん?」
「あ……れ……?」
にっこりと笑いながら、姫様は尻尾をふりふりする子犬を見た。
つぶらな瞳。
丸みを帯びた体つき。
はっはと舌をだしている。
きちんと、お座りしていた。
「……おか……しいな……」
あれれ?
姫様の背を、じんわり冷や汗。
闇が、二つにわかれた。
子犬は、きょろきょろとその影を見た。顔を向けられる度に、影は一旦停止して。
朱桜が、
「彩花さま、に、逃げますか!?」
そう、いった。
「こんなはずじゃあ……もっと、大きいのに……やっぱり、急だったから……」
「あ、あの、これは?」
「い、一応私の式神。頭領に最近物騒だから護身用に、ってもらったんですけど……」
姫様の、式神。
頭領がくれた式神。金銀妖瞳の妖狼の毛から作られたそれは、狼、のはずである。
今、姫様が呼び出したのは、どうみても子犬で。
急過ぎた。もっと前から、準備しておくべきだった。
姫様が、悔やんだ。まさか、狸本人が私達の前に出てくるなんて……
姫様には、闇の中で動き回る二匹の狸が「見えていた」。それが、子供であることも。
じりじりと後退する。朱桜も沙羅も、じりじり後退。
子犬は、尻尾をふりながら姫様達に近づいて。
闇が、少しづつ広がって。
姫様達がいた場所を飲み込んだ。
「拙いのは、私もだったか……」
「……」
「……」
「し、失敗……逃げるよ、朱桜ちゃん! 沙羅ちゃん!」
だっと後ろを向く。朱桜と沙羅の手を引っ張る。
姫様、式神――子犬、もとい子狼に目で合図を送りながら姫様達逃げ出した。
方角は、もう、わからない。妖気の線が、消えてしまったから。
とにかく、離れなければならなかった。
ぽん、ぽんと闇から二つ、獣が出る。
その一方に、さっきまで可愛らしい振る舞いを見せていた子狼が襲いかかった。
小さくても、不完全でも、姫様の式神。
妖狼太郎の毛から生まれたそれは、十分に獣の素質を受け継いで。
ぎゃう! っと声がした。
「あんちゃん!」
「先に行け!」
きゅうん! と声がした。二頭の獣が丸くなって転げ回る。
傍目から見ると、遊んでいるようにしか見えない。
「あ、あんちゃん!」
「行けったら行け!」
「で、でも!」
妖狸がまごまごしているうちに、姫様達の姿は遠ざかって。
小さい方の一頭が、
「……いってくる!」
そういうと、姫様達を追いかけ始めた。
影が、二頭から離れる。
二頭も、離れる。
子犬。
そして、もう一頭の獣――子狸。
ぶつかりあった。おでこから。
そして――両方とも、横になり、子犬の姿がすーっと消えた。
「彩花さま、はやく!」
「さ、彩花ちゃん! はやく!」
姫様が遅れていた。姫様、運動は苦手なのだ。
沙羅と朱桜は、息も切らさず駈けている。
二人とも、妖。
「そ……そんな……はぁ……こといった……はぁ……て……」
追いつけない。追いつかれる。
後ろを、振り返る。
子狸が、小さい体に懸命にむち打っている。
姫様と、良い勝負である。
遅い。
「はぁ……嘘……白刃……消えた?……」
自分の式神の気配が、なくなった。それに気をとられた。
足下の木が、その太さを変えた事に気がつかなかった。
子狸が、しめたと笑った。
「あう!」
姫様――こけた。
妖狸――子狸が、姫様と二人の間に割って入った。
「……」
もう、立てない。心臓が、破けそう。
子狸も、息を整えようとしている。沙羅が、息を呑んだ。
「さ、彩花ちゃん!」
「ここは、おいら達の森だ!」
声が木霊する。幾つも幾つも、木霊する。
それは、誘うような女の声になり、しわがれた老人の声になり、嘲るような声になり。様々な音になって、辺り一帯、踊り狂った。
沙羅が、耳を押さえる。
朱桜は、無言であった。
「……おいら達の、って……どういう……」
そこで、息が詰まった。姫様、咳き込む、涙ぐむ。
胸が、痛い。血の流れが、痛い。
「問答! 無用! あんちゃんの仇だ!!!」
子狸が、姫様に襲いかかった。
ごほごほと、また姫様は咳き込んだ。
身体の自由が、きかなかった。
「ちっ……なんだ、こいつ……」
黒之助が、いった。背中にしょいたる籠に、なにか黒いものが覆い被さっている。
ばさばさと、羽ばたく。
追っていた妖気の線が、地面に向かう。
黒之助は、それに従い、地に足をつけた。
歩き出す。烏天狗の姿のまま。
首を曲げ、背中をみる。
籠に乗った、子狸を。
「妙なことを、口走り追って……」
前を見た。
一面、白。
なにか、柔らかいものとぶつかった。
「おぉ!?」
「んぐ!?」
黒烏が、たっと体勢を整える。
ぶつかられたほうは、色々な妖を散らかしながら、体制を崩して。
烏天狗が、その白いものの正体を見て、呆れたように溜息を。
「……なにやってるんだ、太郎殿」
妖狼、太郎であった。妖をしがみつかせ、子狸を、口にくわえ。
古寺の妖の数は、さっきよりも増えていて。
「……ひゅるふぇいやい」
「口のものを外せ」
「ん」
かっと、子狸を吐いた。
きゅーっと音がした。妖達が、つんつんとつつく。その度に、子狸は反応して。
生きている。
気を失っているだけだった。
「お主も、捕まえたか」
「クロも?」
「うん」
籠の上の子狸の首根っこを持ち、妖狼に見せる。
妖達が、おーっと声をだした。
黒之助は、太郎がくわえていた子狸の横に、己の子狸を並べてやった。
「知り合いか?」
「いや。そっちは?」
「全く、知らねえ」
「急に襲いかかってきて……さすがに、これじゃあな。その際、妙な事を口走ってたんだが」
「お、あててやろうか」
「いいだろう……同時に言うぞ」
「よしきた」
「「ここは、おいら達の森だ」」
二人の声が、重なった。
「おかしいよな。この辺りに妖狸がいるなんて、聞いた事もないし」
「うむ……まだ、いると思うか?」
「俺達が、まだ迷いの中ってことは、まだいるんだろ」
妖狼が、いった。そろそろ、話を切り上げたい、そういう風な、言い方だった。
「そうか、同じ意見か……どうした、そんなにそわそわして」
「……姫様を、探してるんだ」
「……大丈夫だろう。姫様達には、葉子殿がついてるし」
それに、こんな子狸だぞ?
「そうなんだけど……親狸がいるかもしんねえし……」
「ないだろう。この迷いの森なら」
幼い。
それが黒烏の感想で。前に迷ったときとは、感じが全く違う。
「……でもよう……」
「心配するな。今頃、もう抜け出ているだろう」
「葉子さん、姫様と一緒じゃないですよ」
「……」
「……」
「「なに?」」
また、二人の声が重なった。
その言葉を発したのは、古寺の付喪神が一妖。
古い包丁が転じて変じて意識を持った妖、である。
名を、鬼包丁、という。良くきれる。調理番の一人である。
「どういうことだ?」
「手短にいえ」
二人の迫力に圧される。妖達が、怯んで逃げる。離れすぎれば、道に迷う。
迷いの森のぎりぎりの線まで妖達は逃げ出した。
「お、俺が鎌鼬の三兄弟と喧嘩になって、それを葉子さんがとめに来たんです」
「……へぇ」
「それで?」
「俺らが、喧嘩をやめて、すぐにここに迷い込んだんっすよ。多分、葉子さんが姫様達のところへ戻る前だと思うんすよ」
「……はやく言えよくそったれ!!!」
妖狼が吠えた。炎のような、怒気を込めて。
「あほうが……」
氷の粒子が、その呟きには込められていた。
「姫様を追っていたんだな」
「ああ。姫様の匂いを追ってた」
「いくぞ。お前の鼻が頼りだ」
「わかった」
二人が、動き始める。慌て慌ててばらばらっと妖達が妖狼の大きな身体にしがみつく。
子狸を口にくわえ、子狸を脇に抱え、二匹と大量の妖は、絶えず変わる森に溶け込んでいった。
闇が動きを止めた。
朱桜と沙羅が目をまあるくする。
姫様が、よし、といった。
闇が、怯む、後ずさりする。
煙が、晴れる。
姫様のかざした手の平。そこにはもう、なにも書かれていなかった。
「わん」
「……」
「……」
「……」
一瞬、一時、時間が止まった。
姫様の顔が引きつって。
恐る恐る、闇が姫様達に近づき始める。
また、それは「わん」といった。
「……子犬?」
「さ、彩花ちゃん?」
「あ……れ……?」
にっこりと笑いながら、姫様は尻尾をふりふりする子犬を見た。
つぶらな瞳。
丸みを帯びた体つき。
はっはと舌をだしている。
きちんと、お座りしていた。
「……おか……しいな……」
あれれ?
姫様の背を、じんわり冷や汗。
闇が、二つにわかれた。
子犬は、きょろきょろとその影を見た。顔を向けられる度に、影は一旦停止して。
朱桜が、
「彩花さま、に、逃げますか!?」
そう、いった。
「こんなはずじゃあ……もっと、大きいのに……やっぱり、急だったから……」
「あ、あの、これは?」
「い、一応私の式神。頭領に最近物騒だから護身用に、ってもらったんですけど……」
姫様の、式神。
頭領がくれた式神。金銀妖瞳の妖狼の毛から作られたそれは、狼、のはずである。
今、姫様が呼び出したのは、どうみても子犬で。
急過ぎた。もっと前から、準備しておくべきだった。
姫様が、悔やんだ。まさか、狸本人が私達の前に出てくるなんて……
姫様には、闇の中で動き回る二匹の狸が「見えていた」。それが、子供であることも。
じりじりと後退する。朱桜も沙羅も、じりじり後退。
子犬は、尻尾をふりながら姫様達に近づいて。
闇が、少しづつ広がって。
姫様達がいた場所を飲み込んだ。
「拙いのは、私もだったか……」
「……」
「……」
「し、失敗……逃げるよ、朱桜ちゃん! 沙羅ちゃん!」
だっと後ろを向く。朱桜と沙羅の手を引っ張る。
姫様、式神――子犬、もとい子狼に目で合図を送りながら姫様達逃げ出した。
方角は、もう、わからない。妖気の線が、消えてしまったから。
とにかく、離れなければならなかった。
ぽん、ぽんと闇から二つ、獣が出る。
その一方に、さっきまで可愛らしい振る舞いを見せていた子狼が襲いかかった。
小さくても、不完全でも、姫様の式神。
妖狼太郎の毛から生まれたそれは、十分に獣の素質を受け継いで。
ぎゃう! っと声がした。
「あんちゃん!」
「先に行け!」
きゅうん! と声がした。二頭の獣が丸くなって転げ回る。
傍目から見ると、遊んでいるようにしか見えない。
「あ、あんちゃん!」
「行けったら行け!」
「で、でも!」
妖狸がまごまごしているうちに、姫様達の姿は遠ざかって。
小さい方の一頭が、
「……いってくる!」
そういうと、姫様達を追いかけ始めた。
影が、二頭から離れる。
二頭も、離れる。
子犬。
そして、もう一頭の獣――子狸。
ぶつかりあった。おでこから。
そして――両方とも、横になり、子犬の姿がすーっと消えた。
「彩花さま、はやく!」
「さ、彩花ちゃん! はやく!」
姫様が遅れていた。姫様、運動は苦手なのだ。
沙羅と朱桜は、息も切らさず駈けている。
二人とも、妖。
「そ……そんな……はぁ……こといった……はぁ……て……」
追いつけない。追いつかれる。
後ろを、振り返る。
子狸が、小さい体に懸命にむち打っている。
姫様と、良い勝負である。
遅い。
「はぁ……嘘……白刃……消えた?……」
自分の式神の気配が、なくなった。それに気をとられた。
足下の木が、その太さを変えた事に気がつかなかった。
子狸が、しめたと笑った。
「あう!」
姫様――こけた。
妖狸――子狸が、姫様と二人の間に割って入った。
「……」
もう、立てない。心臓が、破けそう。
子狸も、息を整えようとしている。沙羅が、息を呑んだ。
「さ、彩花ちゃん!」
「ここは、おいら達の森だ!」
声が木霊する。幾つも幾つも、木霊する。
それは、誘うような女の声になり、しわがれた老人の声になり、嘲るような声になり。様々な音になって、辺り一帯、踊り狂った。
沙羅が、耳を押さえる。
朱桜は、無言であった。
「……おいら達の、って……どういう……」
そこで、息が詰まった。姫様、咳き込む、涙ぐむ。
胸が、痛い。血の流れが、痛い。
「問答! 無用! あんちゃんの仇だ!!!」
子狸が、姫様に襲いかかった。
ごほごほと、また姫様は咳き込んだ。
身体の自由が、きかなかった。
「ちっ……なんだ、こいつ……」
黒之助が、いった。背中にしょいたる籠に、なにか黒いものが覆い被さっている。
ばさばさと、羽ばたく。
追っていた妖気の線が、地面に向かう。
黒之助は、それに従い、地に足をつけた。
歩き出す。烏天狗の姿のまま。
首を曲げ、背中をみる。
籠に乗った、子狸を。
「妙なことを、口走り追って……」
前を見た。
一面、白。
なにか、柔らかいものとぶつかった。
「おぉ!?」
「んぐ!?」
黒烏が、たっと体勢を整える。
ぶつかられたほうは、色々な妖を散らかしながら、体制を崩して。
烏天狗が、その白いものの正体を見て、呆れたように溜息を。
「……なにやってるんだ、太郎殿」
妖狼、太郎であった。妖をしがみつかせ、子狸を、口にくわえ。
古寺の妖の数は、さっきよりも増えていて。
「……ひゅるふぇいやい」
「口のものを外せ」
「ん」
かっと、子狸を吐いた。
きゅーっと音がした。妖達が、つんつんとつつく。その度に、子狸は反応して。
生きている。
気を失っているだけだった。
「お主も、捕まえたか」
「クロも?」
「うん」
籠の上の子狸の首根っこを持ち、妖狼に見せる。
妖達が、おーっと声をだした。
黒之助は、太郎がくわえていた子狸の横に、己の子狸を並べてやった。
「知り合いか?」
「いや。そっちは?」
「全く、知らねえ」
「急に襲いかかってきて……さすがに、これじゃあな。その際、妙な事を口走ってたんだが」
「お、あててやろうか」
「いいだろう……同時に言うぞ」
「よしきた」
「「ここは、おいら達の森だ」」
二人の声が、重なった。
「おかしいよな。この辺りに妖狸がいるなんて、聞いた事もないし」
「うむ……まだ、いると思うか?」
「俺達が、まだ迷いの中ってことは、まだいるんだろ」
妖狼が、いった。そろそろ、話を切り上げたい、そういう風な、言い方だった。
「そうか、同じ意見か……どうした、そんなにそわそわして」
「……姫様を、探してるんだ」
「……大丈夫だろう。姫様達には、葉子殿がついてるし」
それに、こんな子狸だぞ?
「そうなんだけど……親狸がいるかもしんねえし……」
「ないだろう。この迷いの森なら」
幼い。
それが黒烏の感想で。前に迷ったときとは、感じが全く違う。
「……でもよう……」
「心配するな。今頃、もう抜け出ているだろう」
「葉子さん、姫様と一緒じゃないですよ」
「……」
「……」
「「なに?」」
また、二人の声が重なった。
その言葉を発したのは、古寺の付喪神が一妖。
古い包丁が転じて変じて意識を持った妖、である。
名を、鬼包丁、という。良くきれる。調理番の一人である。
「どういうことだ?」
「手短にいえ」
二人の迫力に圧される。妖達が、怯んで逃げる。離れすぎれば、道に迷う。
迷いの森のぎりぎりの線まで妖達は逃げ出した。
「お、俺が鎌鼬の三兄弟と喧嘩になって、それを葉子さんがとめに来たんです」
「……へぇ」
「それで?」
「俺らが、喧嘩をやめて、すぐにここに迷い込んだんっすよ。多分、葉子さんが姫様達のところへ戻る前だと思うんすよ」
「……はやく言えよくそったれ!!!」
妖狼が吠えた。炎のような、怒気を込めて。
「あほうが……」
氷の粒子が、その呟きには込められていた。
「姫様を追っていたんだな」
「ああ。姫様の匂いを追ってた」
「いくぞ。お前の鼻が頼りだ」
「わかった」
二人が、動き始める。慌て慌ててばらばらっと妖達が妖狼の大きな身体にしがみつく。
子狸を口にくわえ、子狸を脇に抱え、二匹と大量の妖は、絶えず変わる森に溶け込んでいった。