あやかし姫~初雪~
うっすらと雪が積もっていく。
初雪。
いつもの古寺の、いつもの縁側に座って、ぼおっと、それを眺めていた。
庭が、白装束を纏っていく。
まだ秋の香を残す葉々が、白装束を纏っていく。
吐く息が、白装束を纏っている。
星々を従え、半月が嗤う。薄雲の合間に、半月が嗤う。
金の瞳と、銀の瞳が、その景色を己が物とする。
妖狼、太郎であった。
今宵は人の姿。
肩まであった髪が、耳にかかるか、かからないか。
それぐらいまで短くなって。
ぼおっと、雪降らす天を眺める。
手を、そっと伸ばした。
太郎の両頬を、何かが触れた。
金銀妖瞳が、その目線を後ろに反らす。
姫様の顔が、そこにあった。
「こんな夜更けに、どうした? 厚着、ちゃんとしてるか?」
もう、姫様が誰にも気付かれずに古寺を歩く事に、太郎は慣れきっていた。
「はいはい。太郎さんこそ、こんなところで手を伸ばして、どうしたの?」
自分の手を、不思議そうに見る。
それから、太郎は伸ばした手を引っ込めた。
「雪、掴もうと思った」
「屋根の下なのに?」
変なの。
そう笑いながら、姫様もその手を引っ込めた。
太郎の隣に腰を下ろす。
姫様自分の手に一息当てると、そっと膝の上に置いた。
「怒ってる?」
姫様が、いった。
「あ?」
「髪」
「ああ、これか」
太郎が、短くなった自分の髪をくしゃっとする。
朝、姫様が太郎の髪を整えようといった。
変化でも、髪は伸びる。爪は伸びる。人と、変わらない。
太郎はめんどいといったが、姫様が駄目! といった。
庭に様々な字の踊る紙を敷いて、その上に太郎を座らせて。
鏡を持たせ、髪に鋏をいれたときだった。
姫様や太郎が字を記した紙。
その上に、ぽつりと水痕がついた。
姫様は、それに気がつかなかった。しゃきしゃきと、太郎の髪を切っていく。
先の方を、整えるだけ、だが。
その間に水が増えていく。
妖達が、騒ぎ出した。銀狐が、静かにさせようとして、はたと止まって、天を見上げた。
「……初雪だ」
そう、いった。
「え?」
そう姫様がいうのと、じょきんと威勢のいい音がしたのは、同時、であった。
ぱらぱらと、髪が落ちた。鏡に映る太郎の顔が、一瞬強張った。
姫様が、
「……しまった!」
そう、叫んだ。
もはや後の祭り、であった。
「いや、別に……どうでも、いいし」
「よく……ないよ」
姫様、反省。深ーく深ーく反省。
太郎は、なにもいわなかった。
「いいの? 本当に? 怒って、ない?」
「ああ……」
「うん、ありがとう!」
嬉しそうにそういうと、姫様が庭に降りた。
点々と、下駄の痕が庭につく。
隅にある淡く光る仔石から、そっと雪を払いのける。
「さ、寒い!」
そう、いった。
嬉しそうに。初雪、なのだ。
「雪、か」
太郎がいった。
「?」
姫様が、首を傾げる。眉をしかめる。
とことこと歩いて、また、太郎の隣に座った。
「雪の日だった」
「なにが、ですか?」
「ここに来る、前」
姫様が、じっと太郎の横顔を見た。
「ただ、眠かった。傷も痛んだけど、腹も減ったけど、ただ、眠かった。今でも、覚えてる」
「そう……」
「ひんやりと、したんだ」
「……」
太郎の瞳は今を映していない。
姫様は、そう、思った。
見えるのは横顔だけ。
それでも、そう思った。
「嫌いだ」
突然、ぶっきらぼうに、太郎がいった。
「雪、ですか?」
「雪は、いい。好きだ」
白く、染め上げてくれる。
「じゃあ、なにが?」
「俺の、この、瞳」
そう、いった。
姫様が、息を呑んだ。
「もう、ここの連中は恐れない、厭わない、忌みない。でも、その前は違った。行く先々で……違う、生まれたときから、嫌われた」
「太郎さん……」
あまり、意識した事はなかった。
それでも……知っている。
「だから、嫌いだ。でも、これはおふくろの……でも、な」
「なにか、あったんですか?」
姫様が、尋ねた。少しずつ、その白い肌が紅くなっていく。
「子狸」
「子狸?」
「あいつ……俺を見て、怯みやがった」
「それは、ほら、太郎さん妖狼の姿だったし」
子狸と、太郎さんじゃあ。
「はっきり、目って、いいやがった」
妖気が、漏れた。
怒っているわけじゃない。
姫様は、そう思った。
「しばらく、忘れていた。また、思い出した。思い出しちまった」
哀しげに、息を吐いた。
白い、息を。
「嫌いだ」
「好きですよ」
「……?」
妖狼が、顔の向きを変えた。隣に座る、姫様を見る。
姫様も、息を吐いた。
白い、息を。
「私は、好きです。太郎さんのその瞳。安心、するんです。その両の瞳を見ていると」
微笑んでいた。雪のようだと、太郎は思った。
「……」
「好きですよ」
もう一度、いった。
「そっか」
「ええ、昔から」
微笑んでいた。姫様は、昔から肌が白かったと、太郎は思った。
真っ直ぐに、見据えられている。
己と違う、丸い瞳。
嬉しくて、気恥ずかしくて。
顔を一度伏せると、また、庭に身体を向けた。
「……もう、帰りますね。葉子さんに見つかったら大変ですし」
「違いねえ」
くっと、笑う。
いつもの、妖狼の笑い方だった。
今の銀狐には弱気の虫がついている。
まだまだ、それは離れそうにない。
「あ、あの……」
姫様が、振り返った。
「どうした?」
「髪切るの、失敗しちゃって、私がいうのもなんなんですけど……それも、似合ってますよ」
「ふーん」
あまり、関心がないようだった。
「じゃあ、お休みなさい」
「ん……また」
手を小さく振りあった。
姫様は、煙の音をその耳に収めた。
廊下は、冷たい。
夜気は、冷たい。
手が、かじかんでいる。
それでも、暖かかった。
妖狼が、白い庭に降り立つ。姫様の歩いた痕をなぞりながら、庭の隅の石に近づく。
銀狐の寝息を聞きながら、姫様が、そっと戸を閉める。
二人とも、頬に薄く桃色が差していた。
初雪。
いつもの古寺の、いつもの縁側に座って、ぼおっと、それを眺めていた。
庭が、白装束を纏っていく。
まだ秋の香を残す葉々が、白装束を纏っていく。
吐く息が、白装束を纏っている。
星々を従え、半月が嗤う。薄雲の合間に、半月が嗤う。
金の瞳と、銀の瞳が、その景色を己が物とする。
妖狼、太郎であった。
今宵は人の姿。
肩まであった髪が、耳にかかるか、かからないか。
それぐらいまで短くなって。
ぼおっと、雪降らす天を眺める。
手を、そっと伸ばした。
太郎の両頬を、何かが触れた。
金銀妖瞳が、その目線を後ろに反らす。
姫様の顔が、そこにあった。
「こんな夜更けに、どうした? 厚着、ちゃんとしてるか?」
もう、姫様が誰にも気付かれずに古寺を歩く事に、太郎は慣れきっていた。
「はいはい。太郎さんこそ、こんなところで手を伸ばして、どうしたの?」
自分の手を、不思議そうに見る。
それから、太郎は伸ばした手を引っ込めた。
「雪、掴もうと思った」
「屋根の下なのに?」
変なの。
そう笑いながら、姫様もその手を引っ込めた。
太郎の隣に腰を下ろす。
姫様自分の手に一息当てると、そっと膝の上に置いた。
「怒ってる?」
姫様が、いった。
「あ?」
「髪」
「ああ、これか」
太郎が、短くなった自分の髪をくしゃっとする。
朝、姫様が太郎の髪を整えようといった。
変化でも、髪は伸びる。爪は伸びる。人と、変わらない。
太郎はめんどいといったが、姫様が駄目! といった。
庭に様々な字の踊る紙を敷いて、その上に太郎を座らせて。
鏡を持たせ、髪に鋏をいれたときだった。
姫様や太郎が字を記した紙。
その上に、ぽつりと水痕がついた。
姫様は、それに気がつかなかった。しゃきしゃきと、太郎の髪を切っていく。
先の方を、整えるだけ、だが。
その間に水が増えていく。
妖達が、騒ぎ出した。銀狐が、静かにさせようとして、はたと止まって、天を見上げた。
「……初雪だ」
そう、いった。
「え?」
そう姫様がいうのと、じょきんと威勢のいい音がしたのは、同時、であった。
ぱらぱらと、髪が落ちた。鏡に映る太郎の顔が、一瞬強張った。
姫様が、
「……しまった!」
そう、叫んだ。
もはや後の祭り、であった。
「いや、別に……どうでも、いいし」
「よく……ないよ」
姫様、反省。深ーく深ーく反省。
太郎は、なにもいわなかった。
「いいの? 本当に? 怒って、ない?」
「ああ……」
「うん、ありがとう!」
嬉しそうにそういうと、姫様が庭に降りた。
点々と、下駄の痕が庭につく。
隅にある淡く光る仔石から、そっと雪を払いのける。
「さ、寒い!」
そう、いった。
嬉しそうに。初雪、なのだ。
「雪、か」
太郎がいった。
「?」
姫様が、首を傾げる。眉をしかめる。
とことこと歩いて、また、太郎の隣に座った。
「雪の日だった」
「なにが、ですか?」
「ここに来る、前」
姫様が、じっと太郎の横顔を見た。
「ただ、眠かった。傷も痛んだけど、腹も減ったけど、ただ、眠かった。今でも、覚えてる」
「そう……」
「ひんやりと、したんだ」
「……」
太郎の瞳は今を映していない。
姫様は、そう、思った。
見えるのは横顔だけ。
それでも、そう思った。
「嫌いだ」
突然、ぶっきらぼうに、太郎がいった。
「雪、ですか?」
「雪は、いい。好きだ」
白く、染め上げてくれる。
「じゃあ、なにが?」
「俺の、この、瞳」
そう、いった。
姫様が、息を呑んだ。
「もう、ここの連中は恐れない、厭わない、忌みない。でも、その前は違った。行く先々で……違う、生まれたときから、嫌われた」
「太郎さん……」
あまり、意識した事はなかった。
それでも……知っている。
「だから、嫌いだ。でも、これはおふくろの……でも、な」
「なにか、あったんですか?」
姫様が、尋ねた。少しずつ、その白い肌が紅くなっていく。
「子狸」
「子狸?」
「あいつ……俺を見て、怯みやがった」
「それは、ほら、太郎さん妖狼の姿だったし」
子狸と、太郎さんじゃあ。
「はっきり、目って、いいやがった」
妖気が、漏れた。
怒っているわけじゃない。
姫様は、そう思った。
「しばらく、忘れていた。また、思い出した。思い出しちまった」
哀しげに、息を吐いた。
白い、息を。
「嫌いだ」
「好きですよ」
「……?」
妖狼が、顔の向きを変えた。隣に座る、姫様を見る。
姫様も、息を吐いた。
白い、息を。
「私は、好きです。太郎さんのその瞳。安心、するんです。その両の瞳を見ていると」
微笑んでいた。雪のようだと、太郎は思った。
「……」
「好きですよ」
もう一度、いった。
「そっか」
「ええ、昔から」
微笑んでいた。姫様は、昔から肌が白かったと、太郎は思った。
真っ直ぐに、見据えられている。
己と違う、丸い瞳。
嬉しくて、気恥ずかしくて。
顔を一度伏せると、また、庭に身体を向けた。
「……もう、帰りますね。葉子さんに見つかったら大変ですし」
「違いねえ」
くっと、笑う。
いつもの、妖狼の笑い方だった。
今の銀狐には弱気の虫がついている。
まだまだ、それは離れそうにない。
「あ、あの……」
姫様が、振り返った。
「どうした?」
「髪切るの、失敗しちゃって、私がいうのもなんなんですけど……それも、似合ってますよ」
「ふーん」
あまり、関心がないようだった。
「じゃあ、お休みなさい」
「ん……また」
手を小さく振りあった。
姫様は、煙の音をその耳に収めた。
廊下は、冷たい。
夜気は、冷たい。
手が、かじかんでいる。
それでも、暖かかった。
妖狼が、白い庭に降り立つ。姫様の歩いた痕をなぞりながら、庭の隅の石に近づく。
銀狐の寝息を聞きながら、姫様が、そっと戸を閉める。
二人とも、頬に薄く桃色が差していた。