あやかし姫~百華燎乱(7)~
「ちっ!」
右手。痛みが走った。取り込まれる痛み。
繋がりを切り離す。
短剣。
十分に、己の血で濡らした。
これでも、大天狗様に連なる妖。
宝玉を滅ぼす事は――出来る。
宝玉に、黒之助は飛び掛かった。
「滅せよ」
そう言うと、宝玉に短剣を突き刺した。
玉が、割れる。
破片が散り、地に辿り着く前に姿を消した。
黒野丞を覆っていた肉が落ち、消える。
黒之助の式。
燃え始めた。腐肉と一緒に。
終わりだ。そう、いった。
黒野丞が膝を突いた。
大きな目。
長い髪。
全身に斬り傷、火傷。
人の姿であった。
懐かしい。そう、思った。
出会ったときは、そう思えなかった。
「太郎殿、もういい」
わかった。
そういって、妖狼が姿を現す。
爪。
元の長さ。
黒之助に肩を貸した。
大人しく、黒之助は太郎にしがみついた。
二人、人の姿になる。
血塗れの羽は、消えなかった。
「それで、どうする?」
妖狼の質問に黒之助は答えなかった。
「拙者のことが、わかるか?」
黒野丞に尋ねる。
口をぱくぱくとさせた。
言葉が出ないようだった。
静かに待つ。
黒野丞の口が音を出すのを。
「黒之助、か?」
「そうだ」
「……ここは?」
「木森原……拙者の今の住まいの近くだ」
「……夢をみていた」
焦点があっていない。
蜘蛛か。
姫様には会わせられないなと太郎は思った。
「どんな夢だ?」
「長い夢だ……」
「そうか」
風が吹いた。
天狗。錫杖を構えている。
黒野丞を冷たく見下ろした。
「黒之助殿、この男は我々が連れ戻します」
年長と思しき、髭を蓄えた天狗が、そう、いった。
黒之助に敬意を払っているようで。
あとの二人は、そうは思っていないようだ。
「これから、どうする?」
「これから……考えていない。どうすればいいだろう?」
その天狗の言葉を、二人は聞いていないようだった。
次の言葉を接ごうとして天狗は、口を開けたまま静止した。
「ダマレ」
口にはしていない。
金銀妖瞳が、そういっていた。
強い眼光。
喉元に、爪を置かれている。
そんな気がした。
「旅をするのも、いいかもしれないな」
「旅か……もう何年も、外の世界を見ていない……」
「そうだな」
「泣いているのか? お前、変わったな」
ふらふらと、黒野丞が立ち上がった。
「……殺されても、文句は言えなかったのにな」
「……お前は、拙者の友、だ」
「そんなことを言うのか。お前らしくない……」
「黒野丞、たまには顔をみせろ。拙者も、酒に付き合えるようになった」
「……変わったな」
黒之助が貝殻を投げる。
傷薬。
そう、書かれていた。
「優しい字だな」
そういって、化け蜘蛛が姿を消した。
点々と、青い血が続いている。
一。
一。
点。
々。
そして、どこかに消えた。
「……帰るか」
太郎がいった。
傷薬。手元には、もう、ない。
「ああ」
黒之助が答えた。
「ま、待たれよ!」
二羽の天狗。殺気立っていた。
錫杖を突き出す。
震えを、押し殺していた。
「なんということを! 我ら黒野丞を捕まえよとの命を受けて!」
「黒野丞は、死んだ。そういえばよかろう」
「貴様……烏天狗のくせに我らを愚弄するというのか!」
「烏天狗は天狗に仕える身、それを」
「お前達!」
年長の天狗が、若い二人をたしなめた。
「……お主らに教えてやる」
「ぬ?」
「拙者に命令出来るのは、この世に三人だけだ。小僧共、とっとと巣に帰れ」
意識を鷲掴みにした。
意識を鷲掴みにされた。
気が、抜けた。二羽の天狗がへなへなと崩れ落ちる。
太郎が笑った。
それも、気がついていないだろう。
両手に同僚を抱えると、年長に見える天狗が口を開いた。
「黒之助殿……黒野丞は死んだ、そうですね」
「ああ」
この天狗は知っている。
自分の後輩だった。
「大天狗様が」
「いい。断ったはずだ。まだ、と」
妖狼は、黙って二人の会話を聞いていた。
「しかし……あれほど」
「見届けたいのだ、拙者は。太郎殿、すまないが寺まで連れて行ってくれ。身体の自由が利かないんだ」
「わかった。後でおごれよ」
酒、隠してたな。
「太郎殿! 友なら頼めばいいと!」
「つけ上がるな糞烏」
「馬鹿犬め……」
白狼の姿をとると、黒之助を背負う。
天狗が一礼する。
黒之助が太郎にもたれたまま、少し手をあげた。
蜘蛛の糸。
それを掴む。
掴めたような気がした。
「終わったみたいです」
雑巾を絞りながら姫様がいった。
三角巾をとる。
邪魔になるからと束ねていた姫様の長い黒髪が、大きく広がった。
古寺は騒がしかった。
大掃除。
赤なめ大活躍である。
「なにが、でしょうか?」
咲夜がいった。姫様にずっとくっついていた。
葉子が、庭で妖達に指示を出している。
さぼり癖のある妖達。
一つ一つ指示を出さないと進まないのだ。
「帰ってくるよ……葉子さん! 太郎さんとクロさんを迎える準備しますね!」
大きな声でいった。
葉子が、あいあい! と大きな声で答えた。
姫様の勘に、もう、ある程度は慣れているのだ。
咲夜は、不思議そうであった。
彼女は、姫様の勘に慣れていない。
不思議に思った。
さっきのことも。
どうして、私が来たことが分かったのかと。
どうして、あれほど自分は彩花様を恐れたのかと。
確かに、彩花様は太郎の命を救った。でも、人ではないのかと。
人。
本当に?
「……さっきのは……人よりも……」
姫様の後ろ姿。少し、見惚れた。
あんなに美しい黒髪、初めて見たと。
ついていかなかった。
ぬっと、壁から手が出た。
びくっとなる。
壁の妖、小さなぬり壁。
つんつんと、姫様の残した桶を指差した。
「運べって事ですか?」
うんうんと、身体を上下させた。
自分でやればいいのに、そう思いながら桶をもった。
「今、帰りました……って、なんだこの騒ぎは?」
あに様の声!
ぴんと白い尻尾を立たせると、桶の水を廊下にぶちまけて咲夜はぱたぱたと行ってしまった。
「……!!!」
言葉にならない、姫様の悲鳴。
すぐに妖達が玄関に集う。
葉子が先頭であった。
九尾の銀狐が、妖しく美しい姿をみせた。
「姫様! どしたの!」
「クロさんが……」
「クロちゃん……ん、怪我してるね」
声の調子がとんと落ちた。
太郎は、帰ったぞー、と咲夜の頭を撫でている。
黒之助が、玄関に腰を下ろしていた。
傷だらけ、であった。羽が、特に酷い。
「薬……薬……どうして、こう!」
姫様が、ゆらりと立ち上がるとその場を離れた。
じーっと葉子が黒之助を見ていた。
視線が絡み合う。
すぐに、黒之助が目を落とした。
「はいはい! あんた達は掃除に戻る!」
しっしと妖達を追い払う。
「なんだよー」
「もう?」
「まだ休ませろよー」
渋々妖達が散っていく。
銀狐が、黒之助に顔を近づけた。
「そんな怪我、唾でもつけときゃ治るのにね! 姫様は大袈裟過ぎる!」
「そうだな」
「……姫様大袈裟だから、心痛めるから、あんまり、そういうことしないでね」
「……承知した」
「全く、そういうことは太郎だけで十分だからね」
「なんだそれ」
「あに様もお怪我を!?」
「いや、俺はない」
姫様が戻ってきた。薬箱を持っている。
お盆も。
葉子が人の姿に戻る。少し、髪が乱れていた。
それだけ、慌てたのだ。
姫様の悲鳴にも、そして――
黒之助が上半身裸になった。
「背中の羽……そして、肩、ですか」
打ち身もありますね。
そう、姫様が青痣を触りながらいった。
咲夜が、きゃっと声をあげ、俯いた。
「……咲夜ちゃん、どうしたの?」
咲夜。
聞き覚えがあった。
これが、太郎殿の妹か。
……全然、似てないな。そう、黒之助は思った。
「いえ……あの、男の人の……」
頬が紅潮していた。
「ああ……そういえばそうですね」
また、紫色の薬を塗り始める。
黒之助が葉を食いしばった。
葉子がにししと笑った。
貝殻。
蓋には、
「要注意、滲みます」
姫様の字で、そう書かれていた。
姫様と葉子が包帯をぐるぐると巻き付ける。
その間、ずっと咲夜は俯いていた。
黒之助が上衣を羽織り直す。
やっと、咲夜は顔を上げた。
「クロさん、太郎さん、これ」
姫様がお盆を差し出した。
一つは、湯気を出していた。
もう一つは、少し固まっていて。
中央に金平糖がこんもり盛られていた。
「はい、どうぞ」
「……ありがとうございます」
「ありがとう」
「いえ……こんなことしか出来ませんし」
姫様が、いった。
二人が手を伸ばす。
二人が口をつけた。
にこにこと、姫様は二人を見ていた。
なにがあったのかは、聞かなかった。
葉子は、不安そうに太郎を見ていた。
「あの、あに様」
咲夜が、いった。
ぴしっと古寺が音を立てた。
咲夜が目を見張り驚く。
度を、越しているような。こんなに臆病だっけ?
そう、太郎は思った。
嫌な予感がした。
姫様。
この顔は……
「あの……ですね」
「なんだ? ん、そういえばお前、どうしてここへ?」
「その……」
「どうぞどうぞ」
姫様がいった。
ぽりぽりと金平糖を噛む音がした。
空になったお椀を、名残惜しそうに黒之助は見た。
「……あに様に、お見合いのお話が」
咲夜が、口にした。
姫様を見る。
にこにこしている。大丈夫。
考えてみれば、彩花様が怒る理由はないわけで……
「はい?」
「お見合い、です」
「……誰に?」
「あに様に」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「俺?」
「はい!」
「……だそうですよ」
姫様の冷たい声が、四人の耳に響いた。
「旅か」
手に握る貝殻。
宝。
黒野丞は、そう、思った。
猫背。
俺は……
月。
月日は流れた。
「誰だ?」
気配。
獣ではない。人でもない。
二つ。
一つは、はっきりと妖とわかる。もう一つは漠然としていた。
「天狗……違う」
先ほど会った妖狼とも違う。
子供?
「出てこい」
草むら。ざわざわと動いた。声。
子供の声。
蜘蛛の脚。一本、男の肩から生えた。
「俺は警告したぞ」
草むらに差し込む。
脅し。
傷つける気はなかった。
怯え。強く感じられた。
冷たい。
黒野丞は、その差し込んだ脚を自ら引きちぎった。
血。
男の引きちぎった脚が、見る間に凍っていく。
赤い氷が音をたてた。
身構えた。
低く腰を落とす。長い両腕を地面につける。
強い怯え。
それが、急に消えた。
「……なんだったのだ」
草むらには、もう、なにもなかった。
すっと、姿を消す。
どこに行くかは、決めていない。
当てなどない。
友は、変わった。
自分は……変わるも良し、変わらぬも良し。
強さへの渇望は消えていた。
月。
また、この月をみたい。
一人ではなく――
そう、思った。
右手。痛みが走った。取り込まれる痛み。
繋がりを切り離す。
短剣。
十分に、己の血で濡らした。
これでも、大天狗様に連なる妖。
宝玉を滅ぼす事は――出来る。
宝玉に、黒之助は飛び掛かった。
「滅せよ」
そう言うと、宝玉に短剣を突き刺した。
玉が、割れる。
破片が散り、地に辿り着く前に姿を消した。
黒野丞を覆っていた肉が落ち、消える。
黒之助の式。
燃え始めた。腐肉と一緒に。
終わりだ。そう、いった。
黒野丞が膝を突いた。
大きな目。
長い髪。
全身に斬り傷、火傷。
人の姿であった。
懐かしい。そう、思った。
出会ったときは、そう思えなかった。
「太郎殿、もういい」
わかった。
そういって、妖狼が姿を現す。
爪。
元の長さ。
黒之助に肩を貸した。
大人しく、黒之助は太郎にしがみついた。
二人、人の姿になる。
血塗れの羽は、消えなかった。
「それで、どうする?」
妖狼の質問に黒之助は答えなかった。
「拙者のことが、わかるか?」
黒野丞に尋ねる。
口をぱくぱくとさせた。
言葉が出ないようだった。
静かに待つ。
黒野丞の口が音を出すのを。
「黒之助、か?」
「そうだ」
「……ここは?」
「木森原……拙者の今の住まいの近くだ」
「……夢をみていた」
焦点があっていない。
蜘蛛か。
姫様には会わせられないなと太郎は思った。
「どんな夢だ?」
「長い夢だ……」
「そうか」
風が吹いた。
天狗。錫杖を構えている。
黒野丞を冷たく見下ろした。
「黒之助殿、この男は我々が連れ戻します」
年長と思しき、髭を蓄えた天狗が、そう、いった。
黒之助に敬意を払っているようで。
あとの二人は、そうは思っていないようだ。
「これから、どうする?」
「これから……考えていない。どうすればいいだろう?」
その天狗の言葉を、二人は聞いていないようだった。
次の言葉を接ごうとして天狗は、口を開けたまま静止した。
「ダマレ」
口にはしていない。
金銀妖瞳が、そういっていた。
強い眼光。
喉元に、爪を置かれている。
そんな気がした。
「旅をするのも、いいかもしれないな」
「旅か……もう何年も、外の世界を見ていない……」
「そうだな」
「泣いているのか? お前、変わったな」
ふらふらと、黒野丞が立ち上がった。
「……殺されても、文句は言えなかったのにな」
「……お前は、拙者の友、だ」
「そんなことを言うのか。お前らしくない……」
「黒野丞、たまには顔をみせろ。拙者も、酒に付き合えるようになった」
「……変わったな」
黒之助が貝殻を投げる。
傷薬。
そう、書かれていた。
「優しい字だな」
そういって、化け蜘蛛が姿を消した。
点々と、青い血が続いている。
一。
一。
点。
々。
そして、どこかに消えた。
「……帰るか」
太郎がいった。
傷薬。手元には、もう、ない。
「ああ」
黒之助が答えた。
「ま、待たれよ!」
二羽の天狗。殺気立っていた。
錫杖を突き出す。
震えを、押し殺していた。
「なんということを! 我ら黒野丞を捕まえよとの命を受けて!」
「黒野丞は、死んだ。そういえばよかろう」
「貴様……烏天狗のくせに我らを愚弄するというのか!」
「烏天狗は天狗に仕える身、それを」
「お前達!」
年長の天狗が、若い二人をたしなめた。
「……お主らに教えてやる」
「ぬ?」
「拙者に命令出来るのは、この世に三人だけだ。小僧共、とっとと巣に帰れ」
意識を鷲掴みにした。
意識を鷲掴みにされた。
気が、抜けた。二羽の天狗がへなへなと崩れ落ちる。
太郎が笑った。
それも、気がついていないだろう。
両手に同僚を抱えると、年長に見える天狗が口を開いた。
「黒之助殿……黒野丞は死んだ、そうですね」
「ああ」
この天狗は知っている。
自分の後輩だった。
「大天狗様が」
「いい。断ったはずだ。まだ、と」
妖狼は、黙って二人の会話を聞いていた。
「しかし……あれほど」
「見届けたいのだ、拙者は。太郎殿、すまないが寺まで連れて行ってくれ。身体の自由が利かないんだ」
「わかった。後でおごれよ」
酒、隠してたな。
「太郎殿! 友なら頼めばいいと!」
「つけ上がるな糞烏」
「馬鹿犬め……」
白狼の姿をとると、黒之助を背負う。
天狗が一礼する。
黒之助が太郎にもたれたまま、少し手をあげた。
蜘蛛の糸。
それを掴む。
掴めたような気がした。
「終わったみたいです」
雑巾を絞りながら姫様がいった。
三角巾をとる。
邪魔になるからと束ねていた姫様の長い黒髪が、大きく広がった。
古寺は騒がしかった。
大掃除。
赤なめ大活躍である。
「なにが、でしょうか?」
咲夜がいった。姫様にずっとくっついていた。
葉子が、庭で妖達に指示を出している。
さぼり癖のある妖達。
一つ一つ指示を出さないと進まないのだ。
「帰ってくるよ……葉子さん! 太郎さんとクロさんを迎える準備しますね!」
大きな声でいった。
葉子が、あいあい! と大きな声で答えた。
姫様の勘に、もう、ある程度は慣れているのだ。
咲夜は、不思議そうであった。
彼女は、姫様の勘に慣れていない。
不思議に思った。
さっきのことも。
どうして、私が来たことが分かったのかと。
どうして、あれほど自分は彩花様を恐れたのかと。
確かに、彩花様は太郎の命を救った。でも、人ではないのかと。
人。
本当に?
「……さっきのは……人よりも……」
姫様の後ろ姿。少し、見惚れた。
あんなに美しい黒髪、初めて見たと。
ついていかなかった。
ぬっと、壁から手が出た。
びくっとなる。
壁の妖、小さなぬり壁。
つんつんと、姫様の残した桶を指差した。
「運べって事ですか?」
うんうんと、身体を上下させた。
自分でやればいいのに、そう思いながら桶をもった。
「今、帰りました……って、なんだこの騒ぎは?」
あに様の声!
ぴんと白い尻尾を立たせると、桶の水を廊下にぶちまけて咲夜はぱたぱたと行ってしまった。
「……!!!」
言葉にならない、姫様の悲鳴。
すぐに妖達が玄関に集う。
葉子が先頭であった。
九尾の銀狐が、妖しく美しい姿をみせた。
「姫様! どしたの!」
「クロさんが……」
「クロちゃん……ん、怪我してるね」
声の調子がとんと落ちた。
太郎は、帰ったぞー、と咲夜の頭を撫でている。
黒之助が、玄関に腰を下ろしていた。
傷だらけ、であった。羽が、特に酷い。
「薬……薬……どうして、こう!」
姫様が、ゆらりと立ち上がるとその場を離れた。
じーっと葉子が黒之助を見ていた。
視線が絡み合う。
すぐに、黒之助が目を落とした。
「はいはい! あんた達は掃除に戻る!」
しっしと妖達を追い払う。
「なんだよー」
「もう?」
「まだ休ませろよー」
渋々妖達が散っていく。
銀狐が、黒之助に顔を近づけた。
「そんな怪我、唾でもつけときゃ治るのにね! 姫様は大袈裟過ぎる!」
「そうだな」
「……姫様大袈裟だから、心痛めるから、あんまり、そういうことしないでね」
「……承知した」
「全く、そういうことは太郎だけで十分だからね」
「なんだそれ」
「あに様もお怪我を!?」
「いや、俺はない」
姫様が戻ってきた。薬箱を持っている。
お盆も。
葉子が人の姿に戻る。少し、髪が乱れていた。
それだけ、慌てたのだ。
姫様の悲鳴にも、そして――
黒之助が上半身裸になった。
「背中の羽……そして、肩、ですか」
打ち身もありますね。
そう、姫様が青痣を触りながらいった。
咲夜が、きゃっと声をあげ、俯いた。
「……咲夜ちゃん、どうしたの?」
咲夜。
聞き覚えがあった。
これが、太郎殿の妹か。
……全然、似てないな。そう、黒之助は思った。
「いえ……あの、男の人の……」
頬が紅潮していた。
「ああ……そういえばそうですね」
また、紫色の薬を塗り始める。
黒之助が葉を食いしばった。
葉子がにししと笑った。
貝殻。
蓋には、
「要注意、滲みます」
姫様の字で、そう書かれていた。
姫様と葉子が包帯をぐるぐると巻き付ける。
その間、ずっと咲夜は俯いていた。
黒之助が上衣を羽織り直す。
やっと、咲夜は顔を上げた。
「クロさん、太郎さん、これ」
姫様がお盆を差し出した。
一つは、湯気を出していた。
もう一つは、少し固まっていて。
中央に金平糖がこんもり盛られていた。
「はい、どうぞ」
「……ありがとうございます」
「ありがとう」
「いえ……こんなことしか出来ませんし」
姫様が、いった。
二人が手を伸ばす。
二人が口をつけた。
にこにこと、姫様は二人を見ていた。
なにがあったのかは、聞かなかった。
葉子は、不安そうに太郎を見ていた。
「あの、あに様」
咲夜が、いった。
ぴしっと古寺が音を立てた。
咲夜が目を見張り驚く。
度を、越しているような。こんなに臆病だっけ?
そう、太郎は思った。
嫌な予感がした。
姫様。
この顔は……
「あの……ですね」
「なんだ? ん、そういえばお前、どうしてここへ?」
「その……」
「どうぞどうぞ」
姫様がいった。
ぽりぽりと金平糖を噛む音がした。
空になったお椀を、名残惜しそうに黒之助は見た。
「……あに様に、お見合いのお話が」
咲夜が、口にした。
姫様を見る。
にこにこしている。大丈夫。
考えてみれば、彩花様が怒る理由はないわけで……
「はい?」
「お見合い、です」
「……誰に?」
「あに様に」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「俺?」
「はい!」
「……だそうですよ」
姫様の冷たい声が、四人の耳に響いた。
「旅か」
手に握る貝殻。
宝。
黒野丞は、そう、思った。
猫背。
俺は……
月。
月日は流れた。
「誰だ?」
気配。
獣ではない。人でもない。
二つ。
一つは、はっきりと妖とわかる。もう一つは漠然としていた。
「天狗……違う」
先ほど会った妖狼とも違う。
子供?
「出てこい」
草むら。ざわざわと動いた。声。
子供の声。
蜘蛛の脚。一本、男の肩から生えた。
「俺は警告したぞ」
草むらに差し込む。
脅し。
傷つける気はなかった。
怯え。強く感じられた。
冷たい。
黒野丞は、その差し込んだ脚を自ら引きちぎった。
血。
男の引きちぎった脚が、見る間に凍っていく。
赤い氷が音をたてた。
身構えた。
低く腰を落とす。長い両腕を地面につける。
強い怯え。
それが、急に消えた。
「……なんだったのだ」
草むらには、もう、なにもなかった。
すっと、姿を消す。
どこに行くかは、決めていない。
当てなどない。
友は、変わった。
自分は……変わるも良し、変わらぬも良し。
強さへの渇望は消えていた。
月。
また、この月をみたい。
一人ではなく――
そう、思った。