あやかし姫~百華燎乱(29)~
「ん……くぅ……」
四肢のあちこちが痛い。
鼻が麻痺してる。
躰がすーすーする。
「起きられましたか?」
この声。
右手を、自分の額に乗せた。
ぼんやりと、幽火が燃えている。
腰掛けていた。
自分は、横たわっていた。
「んぅ……」
「まだ、無理に身体を動かさない方が……」
「……うるさい」
火羅は、姫様をくっと睨んだ。
大きなお世話だ。
身体を起こす。ゆっくりと、ゆっくりと。
多分、薬の臭い。
鼻が、滲みる。
「……私が手当をしたのですよ。うるさいなんて言われる覚えはないです。逆に感謝されたいものです」
姫様。
嫌みがぎっちり込められて。
「う……」
「誰ですか、我を忘れて暴れたのは」
「……ぐっ」
見えない槍が、ぎちぎちと。
姫様は、微笑んでいた。
微笑んで、微笑んで。
笑ってる?
いいえ。
「それは……これ、全部貴方が?」
頬を触る。
綿。
両腕。包帯がくるくると。
綺麗に白く、真新しい。
全身。
「そうです」
火羅が、はっとして背中に手を回した。
表情が強張る。
「……背中も?」
おずおずと、火羅がいった。
「え、ええ……」
おずおずと、姫様がいった。
糸。
二人の間に、ぴんと走った。
「そう……誰かに、言った?」
火羅の瞳が、暗くなった。
「いえ……知っているのは私だけです」
「貴方だけ?」
「うん」
「本当に?」
「そうだよ」
「貴方が、いなくなれば……」
「……」
「貴方が、いなくなってくれたら……」
「私はここにいる。いなくなる気は、ありません」
姫様が、こぅっと火羅を見やった。
火羅が、目を伏せた。
怯えたよう、であった。
いや、怯えていた。
姫様に怯えたわけじゃない。
姫様が知った事に、怯えていた。
「どうして……ずっと……誰にも知られずに生きてきたのに」
「その傷、どうしたのですか? 随分と」
「口に、しないで」
「でも」
「口にしないでっていったの」
それ以上、姫様は何も言わなかった。
火羅の眼は、暗い。
何かを考えている。
かつかつと、何かを呟いている。
姫様が両手を後ろに回した。
手の平。字が、書かれていた。
姫様の、字。
「知っているのは、貴方だけ……だったら」
喰らってしまえば――!
白刃――!
「ぐっ!」
火羅が妖狼の姿になるよりも早く、白い狼が姿を現し妖狼の姫君を見据えていて。
白い狼は、薄雲のように透けている。
狼に透けて、きりりと凛々しい姫様が見えた。
「太郎様……違う?」
「太郎さんじゃ、ないです」
火羅は、悔しそうに唇を噛んだ。
ふーっと、姫様安堵の息を。
前回は見事に失敗したから。
白刃――姫様の、式神。
今回は、成功した。
でも……っと思う。
少し、顔が怖い。
もっと優しげだったのに。
「なんでよ……こんなところに来なければ……でも……おかしい、変だよ……」
「……変、でしょうか」
白刃越しに、姫様がいった。
「あなたは、人でしょう? どうして」
「この子、私の式神、です。このぐらい……普通の人は、持たないか」
変といえば、変かな。
「式神じゃない。式神は、いい。それよりも……妖気を纏う人なんて、聞いた事ない!」
「妖気を……纏った?」
「今、纏ってたじゃない!」
「纏って……白刃!?」
白い狼。
火羅に低く唸り声をあげると喉元に。
それを、姫様の言の葉が止める。
火羅が、咳き込んだ。
喉笛。
血の泡が、ぽつぽつと膨らんで。
「横になって!」
「お前の……指図なんか……」
「いいから!」
苦しげに、火羅は息を吐いた。
口の中。
血の味が、した。
この程度の傷、放っておけばいいのだ。妖狼の身体は、人と違ってやわじゃない。
この娘が血相を変えるのは、愉快だった。
愉快だけど、何故だろうか。胸が、痛んだ。
大人しく火羅は横になった。
天井。揺らめく炎に、ゆらゆらと動く影を映している。
今、何刻だろうと思った。意識を手放す前の刻は、昼。
空気の通り道。
夜、それも、かなり深い。
この娘は、寝ずにいたのだろうか。そんなことないだろうと思った。
喉を、姫様の指がなぞる。
水気。
痛い。
でも、心地よかった。
傷が、癒えていくのがわかった。
「ごめんなさい」
「どうして、謝るの」
「だって……白刃が……」
「謝らないで。惨めに、なるから」
また、姫様は火羅が横になっている寝台に腰を落とした。
白刃。
どうしようかと迷ったが、とりあえず、姫様は自分の手元に残しておいた。
「傷、見たのね」
「ええ……」
火羅は、ずっと天井を見ていた。
「どう、思った?」
姫様、視線を落とし考える仕草を。
「酷い火傷。古くもあります。
まだ、痛むんじゃないでしょうか。
皮膚を灼き、肉に達している。
不思議なのは、今でも、傷は……えっと、何ていうのかな、生きてるっていうのかな。
まだ、傷が生きてる。治癒、出来ていない」
一息にいうと、姫様、火羅の顔を見た。
まあるい灼眼が姫様を見返して。
火羅は、驚いていた。
「……医者にでも、なれるんじゃないの」
「怪我、見慣れてますから」
姫様は、あまり嬉しそうではなかった。
「……私達は、九州に住んでる」
「……」
知ってる。
「鎮西の、妖狼。私達は、その身に炎を帯びている。私はね、族長の娘。次の西の長――のはずだった」
「のはずだった?」
「一時、違った。阿蘇の火龍がね、私を求めたの」
阿蘇の、火龍。
八百万の、神の一人。
西海龍王と、対を成して「いた」
そう、頭領と葉子に教わった。
「父は、それに応じた。誰にも相談せず、相談出来ずに。
愕然としたものだわ。どうして、あんな粗暴な龍なんぞにと。
でも、嫌だといっても、聞いてもらえなかった。
父は――憔悴していた。本当は、断りたかったのよ。
でも、断る術がなかった。力の無い妖など、そんなものよ。力の無い、「私達」はね」
葉子さん達は、強い妖なんだろうなと思った。
酒呑童子さんや鈴鹿御前さんには、全然及ばなくても。
「火龍もね、火を纏っていた。黒炎を。
あれに触られたとき……背の傷が、出来た。
私達の自慢にしていた炎なんて、可愛いものだった。火が、焼けるのよ。もっと強い火に。
叫んだわ。
火龍は、そんな私を見て、人の姿で笑っていた。
そこで、わかった。火龍が私を求めたわけを。
女としてじゃない。
自分の炎がどれぐらいか、試したかったのよ。同じように炎を纏う妖狼を使って。
私は――笑う火龍の眼を、この手で抉り抜いた。
どうして、あんなことをしたんだろう。覚えて、ない。
火龍も――叫んだ。
私は、逃げた。阿蘇の火龍の住処から。どう走ったのかなんて、覚えてない。
気がついたら、自分の家にいた。
しばらく、起きあがれなかった。しばらく、硫黄の臭いは鼻から消えなかった」
姫様、大きく黒いまなこを見開いて。
白刃は、もう、姿を消していた。
「阿蘇の火龍は、私の前に二度と姿を見せなかった。玉藻御前が、火龍を殺したのよ」
だから、西海龍王と、対を成して――いた。
「惨めよね、力の無い妖は。大妖なら、そんなことも出来る。だから、決めたの。強くしようって。大妖は、いない。でも、群れを強くする事なら出来る。群れを、強くすれば、もう、こんなこと起きないから」
「それで、太郎さんと……」
「太郎様が、いい。あの人は、強い。鎮西の妖狼族に、太郎様より強い妖狼はいないもの。いいえ、全ての妖狼の中で。たとえ、金銀妖瞳であっても。私の誇りを、傷つけた相手であっても」
「いや」
姫様が、首を振った。
もう一度、いやと首を振った。
「……いいじゃない。貴方のものじゃないんだし。それに、どうせ貴方は」
「まだ、私はここにいるし、太郎さんも葉子さんもクロさんも、ここにいる! そう、いってくれた!」
「いつまでも、貴方は生きて……」
そこで、火羅が息を呑んだ。
姫様が、涙を溜めながら、凍えるような妖気を纏ったのだ。
「そんなの……わかってる! それでも、皆と一緒にいたいの!」
「……そうなの……咲夜さんは?」
「咲夜ちゃん?」
妖気が、すっと引いた。
袖で目をこする。
「葉子さんと朱桜ちゃんと一緒にいると思うけど」
「呼んでもらえない? 謝りたいの」
「……はい」
立ち上がる。
「朱桜ちゃんにも、謝って。貴方は、朱桜ちゃんも襲った」
「怪我は?」
「二人とも、もうないです」
「迷惑をかけたわね」
「ええ」
扉。呪を唱える。
手をかける。
「言わないで」
姫様が振り返った。
「誰にも、言わないで」
小声。
姫様は、黙って頷いた。
私は、この妖狼の姫君と似ているんだろうと思った。
我を、失う。
私には、止めてくれる人がいる。
妖狼の姫君には、いないのだろう。
四肢のあちこちが痛い。
鼻が麻痺してる。
躰がすーすーする。
「起きられましたか?」
この声。
右手を、自分の額に乗せた。
ぼんやりと、幽火が燃えている。
腰掛けていた。
自分は、横たわっていた。
「んぅ……」
「まだ、無理に身体を動かさない方が……」
「……うるさい」
火羅は、姫様をくっと睨んだ。
大きなお世話だ。
身体を起こす。ゆっくりと、ゆっくりと。
多分、薬の臭い。
鼻が、滲みる。
「……私が手当をしたのですよ。うるさいなんて言われる覚えはないです。逆に感謝されたいものです」
姫様。
嫌みがぎっちり込められて。
「う……」
「誰ですか、我を忘れて暴れたのは」
「……ぐっ」
見えない槍が、ぎちぎちと。
姫様は、微笑んでいた。
微笑んで、微笑んで。
笑ってる?
いいえ。
「それは……これ、全部貴方が?」
頬を触る。
綿。
両腕。包帯がくるくると。
綺麗に白く、真新しい。
全身。
「そうです」
火羅が、はっとして背中に手を回した。
表情が強張る。
「……背中も?」
おずおずと、火羅がいった。
「え、ええ……」
おずおずと、姫様がいった。
糸。
二人の間に、ぴんと走った。
「そう……誰かに、言った?」
火羅の瞳が、暗くなった。
「いえ……知っているのは私だけです」
「貴方だけ?」
「うん」
「本当に?」
「そうだよ」
「貴方が、いなくなれば……」
「……」
「貴方が、いなくなってくれたら……」
「私はここにいる。いなくなる気は、ありません」
姫様が、こぅっと火羅を見やった。
火羅が、目を伏せた。
怯えたよう、であった。
いや、怯えていた。
姫様に怯えたわけじゃない。
姫様が知った事に、怯えていた。
「どうして……ずっと……誰にも知られずに生きてきたのに」
「その傷、どうしたのですか? 随分と」
「口に、しないで」
「でも」
「口にしないでっていったの」
それ以上、姫様は何も言わなかった。
火羅の眼は、暗い。
何かを考えている。
かつかつと、何かを呟いている。
姫様が両手を後ろに回した。
手の平。字が、書かれていた。
姫様の、字。
「知っているのは、貴方だけ……だったら」
喰らってしまえば――!
白刃――!
「ぐっ!」
火羅が妖狼の姿になるよりも早く、白い狼が姿を現し妖狼の姫君を見据えていて。
白い狼は、薄雲のように透けている。
狼に透けて、きりりと凛々しい姫様が見えた。
「太郎様……違う?」
「太郎さんじゃ、ないです」
火羅は、悔しそうに唇を噛んだ。
ふーっと、姫様安堵の息を。
前回は見事に失敗したから。
白刃――姫様の、式神。
今回は、成功した。
でも……っと思う。
少し、顔が怖い。
もっと優しげだったのに。
「なんでよ……こんなところに来なければ……でも……おかしい、変だよ……」
「……変、でしょうか」
白刃越しに、姫様がいった。
「あなたは、人でしょう? どうして」
「この子、私の式神、です。このぐらい……普通の人は、持たないか」
変といえば、変かな。
「式神じゃない。式神は、いい。それよりも……妖気を纏う人なんて、聞いた事ない!」
「妖気を……纏った?」
「今、纏ってたじゃない!」
「纏って……白刃!?」
白い狼。
火羅に低く唸り声をあげると喉元に。
それを、姫様の言の葉が止める。
火羅が、咳き込んだ。
喉笛。
血の泡が、ぽつぽつと膨らんで。
「横になって!」
「お前の……指図なんか……」
「いいから!」
苦しげに、火羅は息を吐いた。
口の中。
血の味が、した。
この程度の傷、放っておけばいいのだ。妖狼の身体は、人と違ってやわじゃない。
この娘が血相を変えるのは、愉快だった。
愉快だけど、何故だろうか。胸が、痛んだ。
大人しく火羅は横になった。
天井。揺らめく炎に、ゆらゆらと動く影を映している。
今、何刻だろうと思った。意識を手放す前の刻は、昼。
空気の通り道。
夜、それも、かなり深い。
この娘は、寝ずにいたのだろうか。そんなことないだろうと思った。
喉を、姫様の指がなぞる。
水気。
痛い。
でも、心地よかった。
傷が、癒えていくのがわかった。
「ごめんなさい」
「どうして、謝るの」
「だって……白刃が……」
「謝らないで。惨めに、なるから」
また、姫様は火羅が横になっている寝台に腰を落とした。
白刃。
どうしようかと迷ったが、とりあえず、姫様は自分の手元に残しておいた。
「傷、見たのね」
「ええ……」
火羅は、ずっと天井を見ていた。
「どう、思った?」
姫様、視線を落とし考える仕草を。
「酷い火傷。古くもあります。
まだ、痛むんじゃないでしょうか。
皮膚を灼き、肉に達している。
不思議なのは、今でも、傷は……えっと、何ていうのかな、生きてるっていうのかな。
まだ、傷が生きてる。治癒、出来ていない」
一息にいうと、姫様、火羅の顔を見た。
まあるい灼眼が姫様を見返して。
火羅は、驚いていた。
「……医者にでも、なれるんじゃないの」
「怪我、見慣れてますから」
姫様は、あまり嬉しそうではなかった。
「……私達は、九州に住んでる」
「……」
知ってる。
「鎮西の、妖狼。私達は、その身に炎を帯びている。私はね、族長の娘。次の西の長――のはずだった」
「のはずだった?」
「一時、違った。阿蘇の火龍がね、私を求めたの」
阿蘇の、火龍。
八百万の、神の一人。
西海龍王と、対を成して「いた」
そう、頭領と葉子に教わった。
「父は、それに応じた。誰にも相談せず、相談出来ずに。
愕然としたものだわ。どうして、あんな粗暴な龍なんぞにと。
でも、嫌だといっても、聞いてもらえなかった。
父は――憔悴していた。本当は、断りたかったのよ。
でも、断る術がなかった。力の無い妖など、そんなものよ。力の無い、「私達」はね」
葉子さん達は、強い妖なんだろうなと思った。
酒呑童子さんや鈴鹿御前さんには、全然及ばなくても。
「火龍もね、火を纏っていた。黒炎を。
あれに触られたとき……背の傷が、出来た。
私達の自慢にしていた炎なんて、可愛いものだった。火が、焼けるのよ。もっと強い火に。
叫んだわ。
火龍は、そんな私を見て、人の姿で笑っていた。
そこで、わかった。火龍が私を求めたわけを。
女としてじゃない。
自分の炎がどれぐらいか、試したかったのよ。同じように炎を纏う妖狼を使って。
私は――笑う火龍の眼を、この手で抉り抜いた。
どうして、あんなことをしたんだろう。覚えて、ない。
火龍も――叫んだ。
私は、逃げた。阿蘇の火龍の住処から。どう走ったのかなんて、覚えてない。
気がついたら、自分の家にいた。
しばらく、起きあがれなかった。しばらく、硫黄の臭いは鼻から消えなかった」
姫様、大きく黒いまなこを見開いて。
白刃は、もう、姿を消していた。
「阿蘇の火龍は、私の前に二度と姿を見せなかった。玉藻御前が、火龍を殺したのよ」
だから、西海龍王と、対を成して――いた。
「惨めよね、力の無い妖は。大妖なら、そんなことも出来る。だから、決めたの。強くしようって。大妖は、いない。でも、群れを強くする事なら出来る。群れを、強くすれば、もう、こんなこと起きないから」
「それで、太郎さんと……」
「太郎様が、いい。あの人は、強い。鎮西の妖狼族に、太郎様より強い妖狼はいないもの。いいえ、全ての妖狼の中で。たとえ、金銀妖瞳であっても。私の誇りを、傷つけた相手であっても」
「いや」
姫様が、首を振った。
もう一度、いやと首を振った。
「……いいじゃない。貴方のものじゃないんだし。それに、どうせ貴方は」
「まだ、私はここにいるし、太郎さんも葉子さんもクロさんも、ここにいる! そう、いってくれた!」
「いつまでも、貴方は生きて……」
そこで、火羅が息を呑んだ。
姫様が、涙を溜めながら、凍えるような妖気を纏ったのだ。
「そんなの……わかってる! それでも、皆と一緒にいたいの!」
「……そうなの……咲夜さんは?」
「咲夜ちゃん?」
妖気が、すっと引いた。
袖で目をこする。
「葉子さんと朱桜ちゃんと一緒にいると思うけど」
「呼んでもらえない? 謝りたいの」
「……はい」
立ち上がる。
「朱桜ちゃんにも、謝って。貴方は、朱桜ちゃんも襲った」
「怪我は?」
「二人とも、もうないです」
「迷惑をかけたわね」
「ええ」
扉。呪を唱える。
手をかける。
「言わないで」
姫様が振り返った。
「誰にも、言わないで」
小声。
姫様は、黙って頷いた。
私は、この妖狼の姫君と似ているんだろうと思った。
我を、失う。
私には、止めてくれる人がいる。
妖狼の姫君には、いないのだろう。