あやかし姫~主従(1)~
夏の日差しがじりじりと焦がす。
そんな暑い日のある日の古寺。
朝から姫様は……気もそぞろ、であった。
「ん……」
吐息を零す。
書きかけのお札を、お手本と見比べる。
自分の生んだ字を恨めしそうに見る。
間違っていた。
横線が一本多い。
「また……」
珍しいことであった。
それが、何度も続くのだから。
「彩花」
向かいに座る頭領が、筆を止めて姫様に声をかけた。
潤んだ瞳が翁を見つめる。頭領は、八の字に白眉を歪めた。
顎髭を一触りすると、
「今日はもう、休んだ方がよさそうじゃの」
そう、言った。
「……まだ、まだ、いっぱい残っているのに」
「儂がなんとかする。休みなさい」
優しい声だった。
姫様は、はいと頷いた。
書き損じを一まとめにすると、それを抱えて部屋を出た。
ふむと、悩ましげに後ろ姿を見送ると、翁がまた、筆を動かし始めた。
「どうして……」
廊下で、溜息を一つ吐く。自分の手に、目を、落とした。
握り、開く。
疲れているわけじゃない。
「なにを苛立っているの」
心の奥底に宿る、なにかへの苛立ち。
それが集中を妨げる。
あまり、ないことであった。
「……嫌な字」
書き損じの札に目をやり、そう、声を落とした。
「これは……本当に駄目ですね」
「どうしたの、姫様」
「わかりません」
九尾の銀狐が、その長い尾を居間いっぱいに広げていた。
姫様は、その尾にもたれ掛かっていた。
柔らかく、包む、銀の、揺りかご。
「なんだろう……この感じは」
「嫌なこと、あったの?」
「……」
蛍の子が去って、やっと元気を取り戻したというのに朝からこの調子。
葉子は心配でたまらない。
姫様は銀狐の愛しい娘だから。
大切な、大切な……
「ごめんね、葉子さん。心配かけて」
どうしてだろう?
昨日、遅かったから?
妖狼と、夜、二人で話をした。
他愛のない話。
でも、そんな時間が好きだった。
太郎さんは、また、私を慰めてくれた。
何気ない会話の端々に、妖狼の優しさが滲み出ていた。
自分も、哀しいのに、辛いというのに。
そんな妖狼が、姫様は好きだった。
「暑いからかな? ちょっとお疲れ?」
「そうかもしれませんね……」
そうじゃない。
多分、そうじゃないけど……
「夏も、もうちょっと涼しければねぇ」
「……水遊び、葉子さんも行けば? 私は、行きませんが」
「え?」
葉子が、目を大きくした。髭が、ぴんと張った。
「あ……」
意地の悪い言い方。本当に、今日はおかしい。
自分が行こうとしないから、葉子さんも行こうとしないのに。
「……姫様」
銀狐の声が少し震えていた。
凍てつくような妖気を、姫様が発していたのだ。
「……いやだ」
葉子の身体に顔を埋める。
「いやだいやだ」
今にも、泣き出しそうな声であった。
困惑げに、葉子は姫様の頭を撫でた。
気に入らない。
気に食わない。
あの場所に、足を運ぶのは。太郎様と、顔を合わせるのは。あの娘に、頭を下げるのは。
この、私が……あんな、小娘に。
縁側。軒下。
葉子と姫様は手で影を作り、空を泳ぐ影の正体を見定めようとしていた。
近づいてくる影が、はっきりと姿を現した。
獣。
車を引っ張る、一頭の獣。
たてがみ靡かせ、光を蒔く。
葉子は、その獣をよく知っていた。
一族の長――九州の大妖、金銀九尾の大狐、玉藻御前の愛獣で。
大陸より渡りし、聖獣、麒麟。
麒麟は、額に生えたる一角を振り、嬉しそうにいななきをあげた。古い馴染みを、見つけたから。
「玉藻様?」
「……また、来たの」
その声は……銀狐が聞いたことのない女の声で。
背筋がぞくりとした。
妖艶な、声。妖艶でいて、怖い、声。
夏の暑さが吹き飛び、汗が一斉に引いていく。
葉子は、怖々と姫様を見た。
この子が、今の声を出した?
空耳? この子が?
少女は麒麟を射るように見ていた。
いや、聖獣ではない。
麒麟が引く、車をだ。
葉子は、声をかけることができなかった。
ぷいっと顔を逸らすと、姫様が歩き出した。
足早、に。
麒麟が、いた。門の前にいた。
葉子が知っている麒麟だった。
でも……車に乗っているのは、玉藻様じゃない。
同じ九尾だ。すぐに、わかる。
じゃあ、誰が?
玉藻様は、麒麟をとても大事にされていた。
大陸での苦楽を共にした友人。そう、いつも言っていた。
「出てきなさい」
姫様が言った。傍にいる妖狼も黒之助も、驚きを顔に出して。
頭領も、苦い顔をした。
「用が、あるのでしょう? だから、来たのでしょう?」
「彩花」
「姫様」
頭領と妖狼が、口を開いた。
静かに頭領を見やり、それから太郎を見つめ、姫様は視線を車に戻した。
「……お久し振りね」
車から降りた、赤い影。
少女はにこりと微笑んだ。
紅い獣の耳、紅い獣の尾、真紅の、髪。
皆、息を呑む。
一人、姫様だけが、平静であった。
西の妖狼の姫君――火羅。
「お久し振りです」
姫様が微笑む。
二人の、姫君。
一人は、動であった。
一人は、静であった。
赤い長い髪と、黒い長い髪が、静かに夏の風に揺れた。
「太郎様も、お元気そうですね」
太郎は、なにも言えなかった。
朝からの苛立ちは、このせいか。
そう、思った。
「まだお客様がいるようですね」
「ええ、そうよ。相変わらず、彩花さんは勘がいいのね」
「……」
「八霊というのは、貴方ですね」
火羅は、頭領に目をやった。
あの時、火羅は頭領とは、会っていない。
「い、いかにも」
「診て頂きたい者が、います」
出てきなさい。
そう、火羅が言った。
少し姫様は驚いた。火羅の声は、優しい声だった。
車から、少女が降りる。
姫様や火羅と同じ年頃の少女であった。火羅と同じ赤い髪に、同じ着物を纏っていた。
「妖狼か」
太郎が言った。
少女が一つ、頭を下げた。穏やかな仕草であった。
病んでいる。そう、思った。
肌の白さが、尋常ではなかった。
姫様も、肌が白い。火羅も。
伏し目がちな少女は、それ以上であった。青みを帯びるほどに、痛々しい、白さ。
露出した部分が、細い。
やつれていた。
何かに耐えているように見えた。
「赤麗を、診てほしいの」
お願い――懇願するような、瞳。
姫様は、目を瞑った。朱桜と、咲夜と……自分の、顔。
また、目を開けると、
「日陰に、入りましょうか」
そう言って、二人の妖狼に背を向けた。
そんな暑い日のある日の古寺。
朝から姫様は……気もそぞろ、であった。
「ん……」
吐息を零す。
書きかけのお札を、お手本と見比べる。
自分の生んだ字を恨めしそうに見る。
間違っていた。
横線が一本多い。
「また……」
珍しいことであった。
それが、何度も続くのだから。
「彩花」
向かいに座る頭領が、筆を止めて姫様に声をかけた。
潤んだ瞳が翁を見つめる。頭領は、八の字に白眉を歪めた。
顎髭を一触りすると、
「今日はもう、休んだ方がよさそうじゃの」
そう、言った。
「……まだ、まだ、いっぱい残っているのに」
「儂がなんとかする。休みなさい」
優しい声だった。
姫様は、はいと頷いた。
書き損じを一まとめにすると、それを抱えて部屋を出た。
ふむと、悩ましげに後ろ姿を見送ると、翁がまた、筆を動かし始めた。
「どうして……」
廊下で、溜息を一つ吐く。自分の手に、目を、落とした。
握り、開く。
疲れているわけじゃない。
「なにを苛立っているの」
心の奥底に宿る、なにかへの苛立ち。
それが集中を妨げる。
あまり、ないことであった。
「……嫌な字」
書き損じの札に目をやり、そう、声を落とした。
「これは……本当に駄目ですね」
「どうしたの、姫様」
「わかりません」
九尾の銀狐が、その長い尾を居間いっぱいに広げていた。
姫様は、その尾にもたれ掛かっていた。
柔らかく、包む、銀の、揺りかご。
「なんだろう……この感じは」
「嫌なこと、あったの?」
「……」
蛍の子が去って、やっと元気を取り戻したというのに朝からこの調子。
葉子は心配でたまらない。
姫様は銀狐の愛しい娘だから。
大切な、大切な……
「ごめんね、葉子さん。心配かけて」
どうしてだろう?
昨日、遅かったから?
妖狼と、夜、二人で話をした。
他愛のない話。
でも、そんな時間が好きだった。
太郎さんは、また、私を慰めてくれた。
何気ない会話の端々に、妖狼の優しさが滲み出ていた。
自分も、哀しいのに、辛いというのに。
そんな妖狼が、姫様は好きだった。
「暑いからかな? ちょっとお疲れ?」
「そうかもしれませんね……」
そうじゃない。
多分、そうじゃないけど……
「夏も、もうちょっと涼しければねぇ」
「……水遊び、葉子さんも行けば? 私は、行きませんが」
「え?」
葉子が、目を大きくした。髭が、ぴんと張った。
「あ……」
意地の悪い言い方。本当に、今日はおかしい。
自分が行こうとしないから、葉子さんも行こうとしないのに。
「……姫様」
銀狐の声が少し震えていた。
凍てつくような妖気を、姫様が発していたのだ。
「……いやだ」
葉子の身体に顔を埋める。
「いやだいやだ」
今にも、泣き出しそうな声であった。
困惑げに、葉子は姫様の頭を撫でた。
気に入らない。
気に食わない。
あの場所に、足を運ぶのは。太郎様と、顔を合わせるのは。あの娘に、頭を下げるのは。
この、私が……あんな、小娘に。
縁側。軒下。
葉子と姫様は手で影を作り、空を泳ぐ影の正体を見定めようとしていた。
近づいてくる影が、はっきりと姿を現した。
獣。
車を引っ張る、一頭の獣。
たてがみ靡かせ、光を蒔く。
葉子は、その獣をよく知っていた。
一族の長――九州の大妖、金銀九尾の大狐、玉藻御前の愛獣で。
大陸より渡りし、聖獣、麒麟。
麒麟は、額に生えたる一角を振り、嬉しそうにいななきをあげた。古い馴染みを、見つけたから。
「玉藻様?」
「……また、来たの」
その声は……銀狐が聞いたことのない女の声で。
背筋がぞくりとした。
妖艶な、声。妖艶でいて、怖い、声。
夏の暑さが吹き飛び、汗が一斉に引いていく。
葉子は、怖々と姫様を見た。
この子が、今の声を出した?
空耳? この子が?
少女は麒麟を射るように見ていた。
いや、聖獣ではない。
麒麟が引く、車をだ。
葉子は、声をかけることができなかった。
ぷいっと顔を逸らすと、姫様が歩き出した。
足早、に。
麒麟が、いた。門の前にいた。
葉子が知っている麒麟だった。
でも……車に乗っているのは、玉藻様じゃない。
同じ九尾だ。すぐに、わかる。
じゃあ、誰が?
玉藻様は、麒麟をとても大事にされていた。
大陸での苦楽を共にした友人。そう、いつも言っていた。
「出てきなさい」
姫様が言った。傍にいる妖狼も黒之助も、驚きを顔に出して。
頭領も、苦い顔をした。
「用が、あるのでしょう? だから、来たのでしょう?」
「彩花」
「姫様」
頭領と妖狼が、口を開いた。
静かに頭領を見やり、それから太郎を見つめ、姫様は視線を車に戻した。
「……お久し振りね」
車から降りた、赤い影。
少女はにこりと微笑んだ。
紅い獣の耳、紅い獣の尾、真紅の、髪。
皆、息を呑む。
一人、姫様だけが、平静であった。
西の妖狼の姫君――火羅。
「お久し振りです」
姫様が微笑む。
二人の、姫君。
一人は、動であった。
一人は、静であった。
赤い長い髪と、黒い長い髪が、静かに夏の風に揺れた。
「太郎様も、お元気そうですね」
太郎は、なにも言えなかった。
朝からの苛立ちは、このせいか。
そう、思った。
「まだお客様がいるようですね」
「ええ、そうよ。相変わらず、彩花さんは勘がいいのね」
「……」
「八霊というのは、貴方ですね」
火羅は、頭領に目をやった。
あの時、火羅は頭領とは、会っていない。
「い、いかにも」
「診て頂きたい者が、います」
出てきなさい。
そう、火羅が言った。
少し姫様は驚いた。火羅の声は、優しい声だった。
車から、少女が降りる。
姫様や火羅と同じ年頃の少女であった。火羅と同じ赤い髪に、同じ着物を纏っていた。
「妖狼か」
太郎が言った。
少女が一つ、頭を下げた。穏やかな仕草であった。
病んでいる。そう、思った。
肌の白さが、尋常ではなかった。
姫様も、肌が白い。火羅も。
伏し目がちな少女は、それ以上であった。青みを帯びるほどに、痛々しい、白さ。
露出した部分が、細い。
やつれていた。
何かに耐えているように見えた。
「赤麗を、診てほしいの」
お願い――懇願するような、瞳。
姫様は、目を瞑った。朱桜と、咲夜と……自分の、顔。
また、目を開けると、
「日陰に、入りましょうか」
そう言って、二人の妖狼に背を向けた。