あやかし姫~主従(3)~
医者は、言った。
――助からぬと。
すぐに、医者を変えさせた。
だが……どの医者も、どの医者も、彼女に同じ言葉を伝えた。
赤麗は、痛みに苦しんだ。
奥歯が磨り減っていく。痛みに耐えるとき、強く強く、噛み締めるから。
次第に痩せ細っていく。寝る時間も、少なくなった。
――よく、ここまで我慢した。
どの医者も、そう、感嘆する。
病は、長い時間かけて積み重なったものであった。
水が……悪い水が、凝り固まり、腑を蝕む。
その病は、赤麗の母の命を蝕んだものと、同じであった。
「なんで……もっと早く、どうして言わなかったの!」
「……だって、言ったら、本当になりますから」
「……どういう意味よ」
「言えば、本当の病になるじゃないですか。言わなければ、いいんです。私が、我慢すれば……それは、病じゃない。ほら、単なる気の迷いに」
「貴方……馬鹿よ」
「……そうでしょうか」
「馬鹿よ……大馬鹿よ」
「……ごめんなさい」
火羅は――赤麗に、付きっきりで、看病していた。
手を、握ると、
「私も……大馬鹿よ」
そう、言った。
「火羅様は、聡明な」
「大馬鹿よ」
そう、繰り返した。
最後の医者。
老いた医者は、他の医者と同じく、どうすることも出来ないと言った。
早く、楽にしてやれ。そう、その医者は言う。
他の医者と、同じように。
このままでは、苦しませるだけだと。
赤麗の父が、赤麗の母にしたようにと。
出来るわけが、なかった。
火羅は、医者が帰った夜、赤麗が束の間の眠りに入ってから、屋敷を出た。
紅い巨躯をひた走らせた。
大妖――玉藻御前。
その元へ、彼女は向かった。
「私は……なにも、知らなかった」
巨木が、倒れる。
荒々しい、走りであった。
赤麗の父は、苦しむ母をその手に掛け、返す爪で自分の首を刎ねた。
赤麗は、言った。
この印を見たとき、ああ、私も。そう、思ったと。
怖くて怖くて、見えないふりを、したと。治らぬと、わかっていたからと。
「どうして、教えてくれなかったの!」
友達だと――
友、達……
「私が……この私が、友達だと思っていたの?」
月に、尋ねる。
溢れ出す、紅い、涙。
思っていたのだ。
自分にずっと仕えてくれた、ずっと我が侭を聞いてくれた、あの、妖狼を。
「妖狼の姫君が、あたしに用ねぇ」
玉藻御前の眼前に、火羅は立っていた。
傷付いていた。
九尾の街に着くなり、玉藻御前に会わせてと、火羅は吠えた。
銀狐達は、目の色を変えた。
騒ぎを聞きつけた玉藻御前が、組み伏せられた妖狼を、黙って自分の屋敷に招いたのだ。
「玉藻御前、力を貸してほしいの」
「力? あたしに? 妖狼が? 天地がひっくり返ったのかね」
豊満な肢体に、薄い白い衣を纏っていた。
金色に輝く髪を、無造作に束ねていた。
朱色に塗れた唇が、女の妖艶さをさらに濃くさせていた。
火羅は汚れていた。唇が切れていた。
暴れに暴れ、十人がかりで、押さえつけられた。
葉美や木助がいれば、ここまでの騒ぎにはならなかったのかもしれない。今夜は、二人だけで、散歩に出かけていた。
月を、見に。
「……茶化さないで」
「力って? 戦は、手伝わないよ。どこかとおっぱじめるなら、あんた達だけでやるんだね」
――飲む?
――飲まないわ。
あら、そう。
玉藻が、瑠璃色の杯に黄色い酒を注いだ。皿に盛られた山葡萄を一房掴むと、口を耳まで裂けさせ、一口で呑み込んだ。
「医者が、ほしいの」
「医者?」
「腕の……腕のいい医者よ。とても腕のいい医者」
「医者ねぇ……医者……」
「条件が、あるわ」
「妖狼の、関わりある?」
「そうよ」
「掟は、絶対なのね」
「誇りだもの」
「あ、っそう……妖狼の関わりある、腕のいい医者ねえ……」
酒を、口に含む。大狐の息が、甘く香った。
「遠くは無理だわ。移動に、赤麗の身体が耐えられない」
赤麗……
金と銀の尾の先が、ぴんと伸びた。
「あんたの従者が重い病なんだってね」
葉美が、言っていた。
「あれは私の従者よ。勝手には死なせない。私が、許していないから」
「ふーん。そうか、あんたの従者は、死ぬのにあんたの許可がいるのか」
素直じゃない、娘だよ。
優しい、ね。
「一人、心当たりがある」
「誰!」
「八霊という男。あんたも知ってるでしょう。あの金銀妖瞳の妖狼がいる寺の、長よ」
玉藻は含み笑いを。目の前の妖狼が、見合いを断られたと知っているから。
太郎様……
火羅は、頭を振った。
掟という縛りには、合っている。
でも、もう一つが――
「長旅には耐えられないって言ったわよね! 貴方、話を聞いていなかったの!」
「……はん、馬鹿にするなよ」
玉藻が、火羅に額を擦り合わせんばかりに近づいた。
おぞましい、形相。美しく、恐ろしく。
足に、力を込める。
自分を叱咤した。
「あたしは、大妖だ。忘れるなよ。お前は、」
「ちっぽけな妖狼よ。それがどうしたの?」
火羅は、引かなかった。
巨大な妖気。
――膨。
火羅は、火だった。
大嵐に立ち向かう、蝋燭の火だった。
それでも、火羅は引かなかった。
「……麒麟」
離れる。背を向けた。
ぽつりと、玉藻御前が言った。
「麒麟?」
「あれは、乗り心地がいい。本当に、いい。それでいて、脚が早い。星ほどじゃないけどね。病人を運ぶのには、もってこいでしょう」
――星。
――牛鬼。
――鬼馬。
そして、麒麟。
「麒麟を貸してくれるの?」
「八霊のとこにさ……古い知り合いがいるんだよね。麒麟も、たまには会いたいだろうなぁ」
明日の朝にでも、行かせようか。
「明日の、朝ね」
「早朝。もう、そんなに、時間はないよ」
「帰るわ」
「気を、つけるんだね」
「そうね」
火羅が踵を返す。
大妖は、月を見やり、あの娘、泣いたんだなと思った。
怒って、悪かったね。
顔を洗う。鏡。いつもの、自分だ。一筆したため、自分の部屋の机に置いた。
火羅は、眠っていた赤麗を起こした。出来るだけ静かに、出来るだけ優しく。
まず、彼女の汗を拭ってやる。
赤麗が自分でやりますと言ったが、火羅はその言葉を無視した。
それから、部屋に連れて行き、着物を選び始めた。
「お出かけですか?」
「ええ」
二つ。同じ物を、二つ、用意した。
「あなたも着るのよ」
二人で、部屋の鏡の前に並んだ。背は、見せなかった。
髪を梳いてやると、赤麗は、嬉しそうに頬を染めた。
「赤麗」
「はい」
「足掻いて」
「え?」
「命令よ……足掻いて。足掻けるだけ、足掻いて。いいわね」
「はあ……」
「返事は、はい、よ。いつも言ってるでしょ!」
「……はい」
赤麗を背負うと、見回りに気付かれぬよう気配を消しながら屋敷を出た。
自分で歩く――その言葉も、無視した。
火羅は主で、赤麗は従者。いちいち、従者の言葉に構っていられない。
走れなかった。
歩くだけだった。
どちらも、半人半妖の姿。
こんなに軽かったのだと思った。
悲しかった。
「火羅様、重くないですか?」
「私を誰だと? 貴方一人、造作もないわ」
「でも……」
「赤麗」
「はい」
「月が、沈んでいくわ」
「はい」
「今日は、金色ね」
「金色ですね」
「綺麗ね」
「綺麗ですね」
玉藻御前は、麒麟を連れて、街の外で酒を飲んでいた。
朝焼けが、火羅の眼には眩しかった。
――助からぬと。
すぐに、医者を変えさせた。
だが……どの医者も、どの医者も、彼女に同じ言葉を伝えた。
赤麗は、痛みに苦しんだ。
奥歯が磨り減っていく。痛みに耐えるとき、強く強く、噛み締めるから。
次第に痩せ細っていく。寝る時間も、少なくなった。
――よく、ここまで我慢した。
どの医者も、そう、感嘆する。
病は、長い時間かけて積み重なったものであった。
水が……悪い水が、凝り固まり、腑を蝕む。
その病は、赤麗の母の命を蝕んだものと、同じであった。
「なんで……もっと早く、どうして言わなかったの!」
「……だって、言ったら、本当になりますから」
「……どういう意味よ」
「言えば、本当の病になるじゃないですか。言わなければ、いいんです。私が、我慢すれば……それは、病じゃない。ほら、単なる気の迷いに」
「貴方……馬鹿よ」
「……そうでしょうか」
「馬鹿よ……大馬鹿よ」
「……ごめんなさい」
火羅は――赤麗に、付きっきりで、看病していた。
手を、握ると、
「私も……大馬鹿よ」
そう、言った。
「火羅様は、聡明な」
「大馬鹿よ」
そう、繰り返した。
最後の医者。
老いた医者は、他の医者と同じく、どうすることも出来ないと言った。
早く、楽にしてやれ。そう、その医者は言う。
他の医者と、同じように。
このままでは、苦しませるだけだと。
赤麗の父が、赤麗の母にしたようにと。
出来るわけが、なかった。
火羅は、医者が帰った夜、赤麗が束の間の眠りに入ってから、屋敷を出た。
紅い巨躯をひた走らせた。
大妖――玉藻御前。
その元へ、彼女は向かった。
「私は……なにも、知らなかった」
巨木が、倒れる。
荒々しい、走りであった。
赤麗の父は、苦しむ母をその手に掛け、返す爪で自分の首を刎ねた。
赤麗は、言った。
この印を見たとき、ああ、私も。そう、思ったと。
怖くて怖くて、見えないふりを、したと。治らぬと、わかっていたからと。
「どうして、教えてくれなかったの!」
友達だと――
友、達……
「私が……この私が、友達だと思っていたの?」
月に、尋ねる。
溢れ出す、紅い、涙。
思っていたのだ。
自分にずっと仕えてくれた、ずっと我が侭を聞いてくれた、あの、妖狼を。
「妖狼の姫君が、あたしに用ねぇ」
玉藻御前の眼前に、火羅は立っていた。
傷付いていた。
九尾の街に着くなり、玉藻御前に会わせてと、火羅は吠えた。
銀狐達は、目の色を変えた。
騒ぎを聞きつけた玉藻御前が、組み伏せられた妖狼を、黙って自分の屋敷に招いたのだ。
「玉藻御前、力を貸してほしいの」
「力? あたしに? 妖狼が? 天地がひっくり返ったのかね」
豊満な肢体に、薄い白い衣を纏っていた。
金色に輝く髪を、無造作に束ねていた。
朱色に塗れた唇が、女の妖艶さをさらに濃くさせていた。
火羅は汚れていた。唇が切れていた。
暴れに暴れ、十人がかりで、押さえつけられた。
葉美や木助がいれば、ここまでの騒ぎにはならなかったのかもしれない。今夜は、二人だけで、散歩に出かけていた。
月を、見に。
「……茶化さないで」
「力って? 戦は、手伝わないよ。どこかとおっぱじめるなら、あんた達だけでやるんだね」
――飲む?
――飲まないわ。
あら、そう。
玉藻が、瑠璃色の杯に黄色い酒を注いだ。皿に盛られた山葡萄を一房掴むと、口を耳まで裂けさせ、一口で呑み込んだ。
「医者が、ほしいの」
「医者?」
「腕の……腕のいい医者よ。とても腕のいい医者」
「医者ねぇ……医者……」
「条件が、あるわ」
「妖狼の、関わりある?」
「そうよ」
「掟は、絶対なのね」
「誇りだもの」
「あ、っそう……妖狼の関わりある、腕のいい医者ねえ……」
酒を、口に含む。大狐の息が、甘く香った。
「遠くは無理だわ。移動に、赤麗の身体が耐えられない」
赤麗……
金と銀の尾の先が、ぴんと伸びた。
「あんたの従者が重い病なんだってね」
葉美が、言っていた。
「あれは私の従者よ。勝手には死なせない。私が、許していないから」
「ふーん。そうか、あんたの従者は、死ぬのにあんたの許可がいるのか」
素直じゃない、娘だよ。
優しい、ね。
「一人、心当たりがある」
「誰!」
「八霊という男。あんたも知ってるでしょう。あの金銀妖瞳の妖狼がいる寺の、長よ」
玉藻は含み笑いを。目の前の妖狼が、見合いを断られたと知っているから。
太郎様……
火羅は、頭を振った。
掟という縛りには、合っている。
でも、もう一つが――
「長旅には耐えられないって言ったわよね! 貴方、話を聞いていなかったの!」
「……はん、馬鹿にするなよ」
玉藻が、火羅に額を擦り合わせんばかりに近づいた。
おぞましい、形相。美しく、恐ろしく。
足に、力を込める。
自分を叱咤した。
「あたしは、大妖だ。忘れるなよ。お前は、」
「ちっぽけな妖狼よ。それがどうしたの?」
火羅は、引かなかった。
巨大な妖気。
――膨。
火羅は、火だった。
大嵐に立ち向かう、蝋燭の火だった。
それでも、火羅は引かなかった。
「……麒麟」
離れる。背を向けた。
ぽつりと、玉藻御前が言った。
「麒麟?」
「あれは、乗り心地がいい。本当に、いい。それでいて、脚が早い。星ほどじゃないけどね。病人を運ぶのには、もってこいでしょう」
――星。
――牛鬼。
――鬼馬。
そして、麒麟。
「麒麟を貸してくれるの?」
「八霊のとこにさ……古い知り合いがいるんだよね。麒麟も、たまには会いたいだろうなぁ」
明日の朝にでも、行かせようか。
「明日の、朝ね」
「早朝。もう、そんなに、時間はないよ」
「帰るわ」
「気を、つけるんだね」
「そうね」
火羅が踵を返す。
大妖は、月を見やり、あの娘、泣いたんだなと思った。
怒って、悪かったね。
顔を洗う。鏡。いつもの、自分だ。一筆したため、自分の部屋の机に置いた。
火羅は、眠っていた赤麗を起こした。出来るだけ静かに、出来るだけ優しく。
まず、彼女の汗を拭ってやる。
赤麗が自分でやりますと言ったが、火羅はその言葉を無視した。
それから、部屋に連れて行き、着物を選び始めた。
「お出かけですか?」
「ええ」
二つ。同じ物を、二つ、用意した。
「あなたも着るのよ」
二人で、部屋の鏡の前に並んだ。背は、見せなかった。
髪を梳いてやると、赤麗は、嬉しそうに頬を染めた。
「赤麗」
「はい」
「足掻いて」
「え?」
「命令よ……足掻いて。足掻けるだけ、足掻いて。いいわね」
「はあ……」
「返事は、はい、よ。いつも言ってるでしょ!」
「……はい」
赤麗を背負うと、見回りに気付かれぬよう気配を消しながら屋敷を出た。
自分で歩く――その言葉も、無視した。
火羅は主で、赤麗は従者。いちいち、従者の言葉に構っていられない。
走れなかった。
歩くだけだった。
どちらも、半人半妖の姿。
こんなに軽かったのだと思った。
悲しかった。
「火羅様、重くないですか?」
「私を誰だと? 貴方一人、造作もないわ」
「でも……」
「赤麗」
「はい」
「月が、沈んでいくわ」
「はい」
「今日は、金色ね」
「金色ですね」
「綺麗ね」
「綺麗ですね」
玉藻御前は、麒麟を連れて、街の外で酒を飲んでいた。
朝焼けが、火羅の眼には眩しかった。