小説置き場2

山岳に寺社仏閣に両生類に爬虫類に妖怪に三国志にetcetc

愉快な呂布一家~鄧艾の名~

 司州、洛陽。後漢の帝都。

 その繁栄も栄光も、董卓によって灰燼となった。

 炎に包まれ崩壊した街だが、そこかしこに脈々と、人の営みは息づいていた。

「これで、少なくなったほうなのだな」

「そうですねぇ。焼かれる前は、もっと多かったでしょうよ」

 少女は、自分の旗印を見やり、複雑な表情を浮かべた。

 どうして、このようなことになってしまったのだろうか。

 旗に書かれた黒き字は「董」。

 少女――鄧艾(トウガイ)は、董狼姫に仕えていた。

 今は、兵を率いて巡回中。治安の維持も、重要な務めであった。

 皆、徒歩である。その方が、無闇に怖がらせないで済む。

「鄧艾殿は、どこ出身でしたかな?」

 少女は、細目の副官の顔を見やった。

 この男、どうにも好きにはなれなかった。

荊州だ」

「へえ」

 知っているだろうがと内心腑を煮えくりながら、地面に目を落とした。

 副官の名は、鍾会(ショウカイ)といった。

 名門出であり、その事を鼻に掛けていた。

 絶えず、こちらを小馬鹿にしたような態度をとる。そして、その性は残忍であった。

 同じ名門出身とはいっても、司馬懿(シバイ)とは大違いだった。

「南、田舎ですなぁ。あ、いや、これは失敬」

 ぐっと、拳に力が籠もった。

 鍾会の父、鍾繇(ショウヨウ)は、司馬懿の上役に当たる。

 そうだなと、適当に相づちを打つしかなかった。

 巡回と調練の毎日。気怠い毎日。

 逃げ回っていた日々が懐かしかった。

 あの頃、先の展望はなかったが、今と違って楽しかった。心から、笑っていられた。

「春華様!」

「え?」

 現実に、引き戻された。

 訝しげな表情を浮かべる兵達。

 もう一度、女は春華様と言った。

「妙なことを」

 鍾会がすらりと刀を抜いた。鋼の刃に映る双眸は、冷たく濁ったものであった。

「待て、鍾会!」

「鄧艾様?」

 刀は、震える女の目の前でぴたりと止まった。

 鄧艾は、燃えるような眼で、血に飢えた獣のような副官を見た。

「刀を、下ろせ」

「いや、しかしですね」

「いいから下ろせ!」

「……怖い怖い」

「行け」

「この者は?」

「いいから行け!」

 大仰に肩を竦めると、鍾会は背を向けた。

 ぞろぞろと、後を兵が付いていく。

 本当に、やる気のない軍だ。腐っている。

 残り滓のようなものだからな。

「は、春華様!」

 女が、鄧艾にしがみついた。

「伏夏、久し振りだね」

「やっぱり! やっぱりそうだったのですね!」

「一体どうしてここへ? お前は姉様の……まさか、洛陽に!」

「はい!」

 女は涙目に鄧艾を見た。

 鄧艾の表情は――困惑であった。



「遅かったわね、伏夏」

「冬華様!」

 その懐かしい声を聞くと、本当なのだ、夢ではないのだという、実感が沸々と湧いてきた。

 まさか、ここで会えるとは……天よ、感謝します。

 家は、大きくないが、主人の心遣いが随所に溢れていた。

「姉上!」

「……」

 久し振りに見た顔は、少し、痩せたように思えた。

「春華?」

「はい!」

 鄧艾――それは、偽りの名。本名を、張春華といった。

 家を飛び出したときに、捨てた名であった。

「本当に、春華なの!」

「そうですよ姉上……私のこと、お忘れですか……」

 五年前に、実家を飛び出した。会うのは、それ以来であった。

「忘れるわけ……ないでしょう……少し、背、伸びたわね」

 冬華が春華に近づいた。良い匂いが、広がった。

 手が、自分の頭の上に。子供の頃のようで、春華はどこかくすぐったかった。

「はい。姉上もご健勝そうで……」

 冬華が、大きく息を吸った。

「……文もよこさず! 一体どこをほっつき歩いていたの!!!」

「え、えっと……」

 姉には、全く頭が上がらなかった。これは、今も変わらないんだと春華は思った。

「とにかく……生きてまた会うことが出来て、良かったわ」

「姉上……」

 伏夏が、えぐえぐと目を、こすった。



「その格好……軍人になったの?」

 やっと、三人とも落ち着いて。

 伏夏が、お茶を入れてきますと離れ、姉妹二人、路地の見える窓辺に座った。

「そうですよ」

「まさか、貴方が……やんちゃだったけど……貴方が、ね」

「今は、五百の兵を預けられて……洛陽の警護の一角を担っています」

「そうなの……」

「姉上……どうして洛陽へ? てっきり荊州にいるものとばかり」

荊州も、戦が始まってね……一族も散り散りになってしまったわ」

「そうだったのですか……」

 孫策劉備の小競り合いが続いているとは耳にしていた。

「洛陽は一度焼かれているから、戦の匂いがしないと思ってきたのだけど……」

「しばらくは平穏だったのですが、今は」

 そこかしこから漂ってくる戦の匂い。

 肌で、感じ取っていた。

「でも、どうして?」

「え?」

「貴方、軍人にはならないって、戦には加わらないって言ってたのに」

 最強の武人になるって言って飛び出したんだっけ。

 女だから無理だと言われて、むきになって。

 今じゃあ、最強は女の子だけど。

「……そういえば、そうですね」

 忘れてたな……

「ちょっと、守りたい人がいて」

「守りたい人?」

「ええ。変わった人で。司馬懿という人なのですが……」

「司馬八達の筆頭……」

「あ、知っているのですか?」

 嬉しいなぁ。

「その人が……」

 気がつくと、日が暮れていた。

 ずっと、喋り通し。姉は、ひたすら聞き役に廻っていた。

「えっと、ごめんなさい、先生のことばかり話して」

「いいのよ、貴方、楽しそうだったし」

「そ、そうかな」

「先生、狼顧の相というものをお持ちなのね。一度、見てみたいわ」

「今度、ここに先生も連れてきますね」

「……春華、大丈夫なの?」

「……わかりません」

 声が、沈んだ。はっきりと自覚できた。

「私は……先生を守るだけです。それに、姉上も……」

「そう……もう、帰らないといけないんでしょう?」

「あ。はい」

「また、いらっしゃい。今度は、貴方のことも聞きたいわ」

「あははは……姉上も」

「私は……特に、話したいことはないわ」

 ――辛いことばかりだった。

 翳りが、浮かんだ。

「さ、早く帰りなさい。子供は寝る時間ですよ」

「はいはい」

 姉の家を、出た。

 天を見上げた。

 ……一族が、散り散りに? 

 嘘だ。小競り合いが続いているといっても、故郷とは関係ない場所だ。

 姉上は、人が良すぎた。

 裏切られ騙され、全てを、失ったのだろう。

 あれだけの屋敷を構えていたのに、今は住む者がいなくなった家を勝手に……

「私がついていれば……でも、姉上が私を外に出したのですよ」

 恨んではいません。

 今は、世間を広く見させてくれて、有り難いと思っています。

 でも、姉上……世の移ろいは、儚いものです。



「お、鄧艾。さっき焼き芋を買ったんだ。一緒にどうだい?」

「先生、」

 泣いても、いいですか?

「一体、」

「泣いても、いいですか?」

「う、うん」

 ど、どうぞ?

「あれ、おかしいな……泣けないです」

 とにかく今は、大切な人を守ることだけを考えようと、鄧艾は思った。