愉快な呂布一家~鄧艾の名~
司州、洛陽。後漢の帝都。
その繁栄も栄光も、董卓によって灰燼となった。
炎に包まれ崩壊した街だが、そこかしこに脈々と、人の営みは息づいていた。
「これで、少なくなったほうなのだな」
「そうですねぇ。焼かれる前は、もっと多かったでしょうよ」
少女は、自分の旗印を見やり、複雑な表情を浮かべた。
どうして、このようなことになってしまったのだろうか。
旗に書かれた黒き字は「董」。
少女――鄧艾(トウガイ)は、董狼姫に仕えていた。
今は、兵を率いて巡回中。治安の維持も、重要な務めであった。
皆、徒歩である。その方が、無闇に怖がらせないで済む。
「鄧艾殿は、どこ出身でしたかな?」
少女は、細目の副官の顔を見やった。
この男、どうにも好きにはなれなかった。
「荊州だ」
「へえ」
知っているだろうがと内心腑を煮えくりながら、地面に目を落とした。
副官の名は、鍾会(ショウカイ)といった。
名門出であり、その事を鼻に掛けていた。
絶えず、こちらを小馬鹿にしたような態度をとる。そして、その性は残忍であった。
同じ名門出身とはいっても、司馬懿(シバイ)とは大違いだった。
「南、田舎ですなぁ。あ、いや、これは失敬」
ぐっと、拳に力が籠もった。
鍾会の父、鍾繇(ショウヨウ)は、司馬懿の上役に当たる。
そうだなと、適当に相づちを打つしかなかった。
巡回と調練の毎日。気怠い毎日。
逃げ回っていた日々が懐かしかった。
あの頃、先の展望はなかったが、今と違って楽しかった。心から、笑っていられた。
「春華様!」
「え?」
現実に、引き戻された。
訝しげな表情を浮かべる兵達。
もう一度、女は春華様と言った。
「妙なことを」
鍾会がすらりと刀を抜いた。鋼の刃に映る双眸は、冷たく濁ったものであった。
「待て、鍾会!」
「鄧艾様?」
刀は、震える女の目の前でぴたりと止まった。
鄧艾は、燃えるような眼で、血に飢えた獣のような副官を見た。
「刀を、下ろせ」
「いや、しかしですね」
「いいから下ろせ!」
「……怖い怖い」
「行け」
「この者は?」
「いいから行け!」
大仰に肩を竦めると、鍾会は背を向けた。
ぞろぞろと、後を兵が付いていく。
本当に、やる気のない軍だ。腐っている。
残り滓のようなものだからな。
「は、春華様!」
女が、鄧艾にしがみついた。
「伏夏、久し振りだね」
「やっぱり! やっぱりそうだったのですね!」
「一体どうしてここへ? お前は姉様の……まさか、洛陽に!」
「はい!」
女は涙目に鄧艾を見た。
鄧艾の表情は――困惑であった。
「遅かったわね、伏夏」
「冬華様!」
その懐かしい声を聞くと、本当なのだ、夢ではないのだという、実感が沸々と湧いてきた。
まさか、ここで会えるとは……天よ、感謝します。
家は、大きくないが、主人の心遣いが随所に溢れていた。
「姉上!」
「……」
久し振りに見た顔は、少し、痩せたように思えた。
「春華?」
「はい!」
鄧艾――それは、偽りの名。本名を、張春華といった。
家を飛び出したときに、捨てた名であった。
「本当に、春華なの!」
「そうですよ姉上……私のこと、お忘れですか……」
五年前に、実家を飛び出した。会うのは、それ以来であった。
「忘れるわけ……ないでしょう……少し、背、伸びたわね」
冬華が春華に近づいた。良い匂いが、広がった。
手が、自分の頭の上に。子供の頃のようで、春華はどこかくすぐったかった。
「はい。姉上もご健勝そうで……」
冬華が、大きく息を吸った。
「……文もよこさず! 一体どこをほっつき歩いていたの!!!」
「え、えっと……」
姉には、全く頭が上がらなかった。これは、今も変わらないんだと春華は思った。
「とにかく……生きてまた会うことが出来て、良かったわ」
「姉上……」
伏夏が、えぐえぐと目を、こすった。
「その格好……軍人になったの?」
やっと、三人とも落ち着いて。
伏夏が、お茶を入れてきますと離れ、姉妹二人、路地の見える窓辺に座った。
「そうですよ」
「まさか、貴方が……やんちゃだったけど……貴方が、ね」
「今は、五百の兵を預けられて……洛陽の警護の一角を担っています」
「そうなの……」
「姉上……どうして洛陽へ? てっきり荊州にいるものとばかり」
「荊州も、戦が始まってね……一族も散り散りになってしまったわ」
「そうだったのですか……」
孫策と劉備の小競り合いが続いているとは耳にしていた。
「洛陽は一度焼かれているから、戦の匂いがしないと思ってきたのだけど……」
「しばらくは平穏だったのですが、今は」
そこかしこから漂ってくる戦の匂い。
肌で、感じ取っていた。
「でも、どうして?」
「え?」
「貴方、軍人にはならないって、戦には加わらないって言ってたのに」
最強の武人になるって言って飛び出したんだっけ。
女だから無理だと言われて、むきになって。
今じゃあ、最強は女の子だけど。
「……そういえば、そうですね」
忘れてたな……
「ちょっと、守りたい人がいて」
「守りたい人?」
「ええ。変わった人で。司馬懿という人なのですが……」
「司馬八達の筆頭……」
「あ、知っているのですか?」
嬉しいなぁ。
「その人が……」
気がつくと、日が暮れていた。
ずっと、喋り通し。姉は、ひたすら聞き役に廻っていた。
「えっと、ごめんなさい、先生のことばかり話して」
「いいのよ、貴方、楽しそうだったし」
「そ、そうかな」
「先生、狼顧の相というものをお持ちなのね。一度、見てみたいわ」
「今度、ここに先生も連れてきますね」
「……春華、大丈夫なの?」
「……わかりません」
声が、沈んだ。はっきりと自覚できた。
「私は……先生を守るだけです。それに、姉上も……」
「そう……もう、帰らないといけないんでしょう?」
「あ。はい」
「また、いらっしゃい。今度は、貴方のことも聞きたいわ」
「あははは……姉上も」
「私は……特に、話したいことはないわ」
――辛いことばかりだった。
翳りが、浮かんだ。
「さ、早く帰りなさい。子供は寝る時間ですよ」
「はいはい」
姉の家を、出た。
天を見上げた。
……一族が、散り散りに?
嘘だ。小競り合いが続いているといっても、故郷とは関係ない場所だ。
姉上は、人が良すぎた。
裏切られ騙され、全てを、失ったのだろう。
あれだけの屋敷を構えていたのに、今は住む者がいなくなった家を勝手に……
「私がついていれば……でも、姉上が私を外に出したのですよ」
恨んではいません。
今は、世間を広く見させてくれて、有り難いと思っています。
でも、姉上……世の移ろいは、儚いものです。
「お、鄧艾。さっき焼き芋を買ったんだ。一緒にどうだい?」
「先生、」
泣いても、いいですか?
「一体、」
「泣いても、いいですか?」
「う、うん」
ど、どうぞ?
「あれ、おかしいな……泣けないです」
とにかく今は、大切な人を守ることだけを考えようと、鄧艾は思った。
その繁栄も栄光も、董卓によって灰燼となった。
炎に包まれ崩壊した街だが、そこかしこに脈々と、人の営みは息づいていた。
「これで、少なくなったほうなのだな」
「そうですねぇ。焼かれる前は、もっと多かったでしょうよ」
少女は、自分の旗印を見やり、複雑な表情を浮かべた。
どうして、このようなことになってしまったのだろうか。
旗に書かれた黒き字は「董」。
少女――鄧艾(トウガイ)は、董狼姫に仕えていた。
今は、兵を率いて巡回中。治安の維持も、重要な務めであった。
皆、徒歩である。その方が、無闇に怖がらせないで済む。
「鄧艾殿は、どこ出身でしたかな?」
少女は、細目の副官の顔を見やった。
この男、どうにも好きにはなれなかった。
「荊州だ」
「へえ」
知っているだろうがと内心腑を煮えくりながら、地面に目を落とした。
副官の名は、鍾会(ショウカイ)といった。
名門出であり、その事を鼻に掛けていた。
絶えず、こちらを小馬鹿にしたような態度をとる。そして、その性は残忍であった。
同じ名門出身とはいっても、司馬懿(シバイ)とは大違いだった。
「南、田舎ですなぁ。あ、いや、これは失敬」
ぐっと、拳に力が籠もった。
鍾会の父、鍾繇(ショウヨウ)は、司馬懿の上役に当たる。
そうだなと、適当に相づちを打つしかなかった。
巡回と調練の毎日。気怠い毎日。
逃げ回っていた日々が懐かしかった。
あの頃、先の展望はなかったが、今と違って楽しかった。心から、笑っていられた。
「春華様!」
「え?」
現実に、引き戻された。
訝しげな表情を浮かべる兵達。
もう一度、女は春華様と言った。
「妙なことを」
鍾会がすらりと刀を抜いた。鋼の刃に映る双眸は、冷たく濁ったものであった。
「待て、鍾会!」
「鄧艾様?」
刀は、震える女の目の前でぴたりと止まった。
鄧艾は、燃えるような眼で、血に飢えた獣のような副官を見た。
「刀を、下ろせ」
「いや、しかしですね」
「いいから下ろせ!」
「……怖い怖い」
「行け」
「この者は?」
「いいから行け!」
大仰に肩を竦めると、鍾会は背を向けた。
ぞろぞろと、後を兵が付いていく。
本当に、やる気のない軍だ。腐っている。
残り滓のようなものだからな。
「は、春華様!」
女が、鄧艾にしがみついた。
「伏夏、久し振りだね」
「やっぱり! やっぱりそうだったのですね!」
「一体どうしてここへ? お前は姉様の……まさか、洛陽に!」
「はい!」
女は涙目に鄧艾を見た。
鄧艾の表情は――困惑であった。
「遅かったわね、伏夏」
「冬華様!」
その懐かしい声を聞くと、本当なのだ、夢ではないのだという、実感が沸々と湧いてきた。
まさか、ここで会えるとは……天よ、感謝します。
家は、大きくないが、主人の心遣いが随所に溢れていた。
「姉上!」
「……」
久し振りに見た顔は、少し、痩せたように思えた。
「春華?」
「はい!」
鄧艾――それは、偽りの名。本名を、張春華といった。
家を飛び出したときに、捨てた名であった。
「本当に、春華なの!」
「そうですよ姉上……私のこと、お忘れですか……」
五年前に、実家を飛び出した。会うのは、それ以来であった。
「忘れるわけ……ないでしょう……少し、背、伸びたわね」
冬華が春華に近づいた。良い匂いが、広がった。
手が、自分の頭の上に。子供の頃のようで、春華はどこかくすぐったかった。
「はい。姉上もご健勝そうで……」
冬華が、大きく息を吸った。
「……文もよこさず! 一体どこをほっつき歩いていたの!!!」
「え、えっと……」
姉には、全く頭が上がらなかった。これは、今も変わらないんだと春華は思った。
「とにかく……生きてまた会うことが出来て、良かったわ」
「姉上……」
伏夏が、えぐえぐと目を、こすった。
「その格好……軍人になったの?」
やっと、三人とも落ち着いて。
伏夏が、お茶を入れてきますと離れ、姉妹二人、路地の見える窓辺に座った。
「そうですよ」
「まさか、貴方が……やんちゃだったけど……貴方が、ね」
「今は、五百の兵を預けられて……洛陽の警護の一角を担っています」
「そうなの……」
「姉上……どうして洛陽へ? てっきり荊州にいるものとばかり」
「荊州も、戦が始まってね……一族も散り散りになってしまったわ」
「そうだったのですか……」
孫策と劉備の小競り合いが続いているとは耳にしていた。
「洛陽は一度焼かれているから、戦の匂いがしないと思ってきたのだけど……」
「しばらくは平穏だったのですが、今は」
そこかしこから漂ってくる戦の匂い。
肌で、感じ取っていた。
「でも、どうして?」
「え?」
「貴方、軍人にはならないって、戦には加わらないって言ってたのに」
最強の武人になるって言って飛び出したんだっけ。
女だから無理だと言われて、むきになって。
今じゃあ、最強は女の子だけど。
「……そういえば、そうですね」
忘れてたな……
「ちょっと、守りたい人がいて」
「守りたい人?」
「ええ。変わった人で。司馬懿という人なのですが……」
「司馬八達の筆頭……」
「あ、知っているのですか?」
嬉しいなぁ。
「その人が……」
気がつくと、日が暮れていた。
ずっと、喋り通し。姉は、ひたすら聞き役に廻っていた。
「えっと、ごめんなさい、先生のことばかり話して」
「いいのよ、貴方、楽しそうだったし」
「そ、そうかな」
「先生、狼顧の相というものをお持ちなのね。一度、見てみたいわ」
「今度、ここに先生も連れてきますね」
「……春華、大丈夫なの?」
「……わかりません」
声が、沈んだ。はっきりと自覚できた。
「私は……先生を守るだけです。それに、姉上も……」
「そう……もう、帰らないといけないんでしょう?」
「あ。はい」
「また、いらっしゃい。今度は、貴方のことも聞きたいわ」
「あははは……姉上も」
「私は……特に、話したいことはないわ」
――辛いことばかりだった。
翳りが、浮かんだ。
「さ、早く帰りなさい。子供は寝る時間ですよ」
「はいはい」
姉の家を、出た。
天を見上げた。
……一族が、散り散りに?
嘘だ。小競り合いが続いているといっても、故郷とは関係ない場所だ。
姉上は、人が良すぎた。
裏切られ騙され、全てを、失ったのだろう。
あれだけの屋敷を構えていたのに、今は住む者がいなくなった家を勝手に……
「私がついていれば……でも、姉上が私を外に出したのですよ」
恨んではいません。
今は、世間を広く見させてくれて、有り難いと思っています。
でも、姉上……世の移ろいは、儚いものです。
「お、鄧艾。さっき焼き芋を買ったんだ。一緒にどうだい?」
「先生、」
泣いても、いいですか?
「一体、」
「泣いても、いいですか?」
「う、うん」
ど、どうぞ?
「あれ、おかしいな……泣けないです」
とにかく今は、大切な人を守ることだけを考えようと、鄧艾は思った。