あやかし姫~彼岸の月(7)~
いい匂いがする。
鼻をくすぐる、優しい匂い。昔嗅いだことがあるような気がした。何時のことだったのかは、思い出せなかった。
暖かく柔らかいものが頭にあたっている。
妖狼の姫君はぱちりと目を覚ました。
この枕気持ちいいな。この匂いは何の匂いだろう?
「ねぇ」
姫様に訊いた。
すぐ近くにいた。今にも触れあわんばかりな近さ。
寝顔を見やり、ぼやっとした頭が一気に覚醒し、赤髪と同じ色に首筋から額まで染め上がった。
口をあんあぐり大きく開けると、がたがたがたっと壁まで退却。
うえぇぇぇと頬を押さえると、
「何! 何なの!」
と大きな声を出した。部屋が震える。溢れた妖気に結界がみしりと揺れる。
姫様が目を覚ました。
どうしました? とのんびりした口調で火羅に訊いた。
「どうして! どうして貴方が私の布団にいるのよ!?」
ふぅん? と、首を傾げる。
だだっ子のようにぱたぱた両手を振り回すと、
「それに、どうして貴方が私に腕枕を!?」
と火羅は続けた。
「それは、」
だって火羅さんが――
「まさか……まさか、貴方、本当は太郎様じゃなく……そんな、そんなことって。そういえば、お風呂でもじろじろ見てたし……わ、私が狙いだったのね!」
「……」
じと目で、何を言ってるんだろうこの人と姫様。
「な、何もしてないでしょうね! いくら私が魅力的だからって……そんな、私の布団に潜り込んで……こ、恐い人!」
「いや、あの……」
どうしたのかな、火羅さん。
もしかして熱でもあるんでしょうか?
「大丈夫ですか?」
すーっと膝でにじり寄ると、紅い紅い火羅の額に姫様は手を伸ばした。
薬師としての、当たり前の行為。
もちろん、火羅を心配しての。だが、今の状態では逆効果で。
「み、みきゃー!!!」
姫様の手を払いのけ、火羅は布団の中に頭をつっこんだ。
がくがく震える。
こんなことってと火羅は嘆いた。彼女は、本当に怯えていた。
そうだ、この部屋には結界が敷かれてある。
つまり……ここで何が起ころうと、外には漏れない。
どころか、そも、古寺には火羅の味方と成りうる妖がいない。
誰も彼も、周囲は全て敵。
ああ、私はこれからこの娘に散々に弄ばれて……否!
私は、こんなところで、
「火羅さーん」
反対側から姫様がおはよう。
目が合う。
にこっと姫様が微笑む。
怯えきった火羅にはその笑顔が、哀れな獲物を捕らえた喜びに満ち溢れているように見えた。
うがーっと吠えると、布団から抜け出し、ついに火羅は真紅の妖狼の姿に転じた。
「こ、こないで!」
所詮は人。
私の爪の、牙の、炎の相手ではないのだ。
敵意剥き出し争う気満々の巨大な狼を、先程とうって変わって姫様は悲しげに見つめた。
「そ、そんな目で私を見ないで!」
そうやって私を騙すつもりだな!
そうはいかないからね!
「火羅さん……私、何か気に障ることでも……」
「この、白々しい!」
「昨日は、あんなに仲良くしてくれ、」
ごおと炎が噴き上がった。
「……知らない! 知らない知らない!」
顔を硬め、ぶんぶん首を振る。
はさりと姫様の髪がざわめき、華奢な首筋が目に入った。
あ、綺麗……じゃ、ない!
くう、私は眠っていうるうちに弄ばれてしまったのか。
そういえば、この娘は気配を絶つことに優れていた。
それに、式神も使える術者であり、薬師としての腕もある。
少ーし。
ほんの少ーし気を許した私の隙をついて、術やら薬やらで起きないようにしたに違いない。
『火羅さん。私は太郎さんのことを好いています。好いていました。でも、今は二人っきり……私は、貴方が欲しい』
そしてそして、口にはしづらいあんなことやそんなことを。
友達だって、おかしいよね。
そう尋ねたら、おかしくないと答えてくれたのに。
私は……ほんの、ほんの少し嬉しかったのに。
あれは罠だったのかー。
「まさか貴方に夜這いを掛けられるなんて……何て事なの」
「……誰が?」
「あ、貴方よ! 私の目の前にいる、彩花という人の娘! なまじ力があるばかりに……この私が、一生の不覚だわ!」
死んだ魚の目。ぬぼーっと火羅を見つめる。
姫様は――冷たい冷たい妖気を、火羅にぶつけた。
炎が弱々しくなる。
これ、これはと火羅は思った。
父上……私はもう、囚われの身であるようです。
きっと今からいたぶられるんですね。
誰か……赤麗……
「火羅さんに私が夜這い? それは一体、何の冗談ですか?」
「だ、だって……貴方、私の布団に」
何よりの動かぬ証拠。
この娘は勝手に私の布団に入ってきていたのだ。
言い逃れは出来まい!
「こーれーが! 火羅さんの布団ですか!?」
「……あう?」
おっかしいなー。
私が使ったのは金魚柄のお布団で。
この揚羽蝶のじゃないよね。
それに、枕も違うぞ。
「私に腕枕してたじゃない!」
そうだ。
きっと露見することを見通してあらかじめ寝具をすり替えていたんだ。
さすが我が宿敵、頭の切れること。
用意周到、やるじゃないの。
「それは火羅さんが『腕枕ー』と言って私の腕を枕代わりにしたんじゃないですか! 覚えてないんですか!」
「……」
「大体、布団に入ってきたのは火羅さんですよ! 『寒いー』とかなんとか言って!」
火羅が人型をとる。
不思議そうに首をふるふると左右に傾げさせる。
火鼠の単衣。これ、便利なのよね。妖の姿になるとき脱がなくても良いから。
やっぱり、いちいち脱ぐのは面倒でね。愛用してます。
はは、衣を作れない私にはとってもお似合いよ。
「私がそんなこと言ったの?」
「はい!」
「そんなことしたの?」
私からこの娘の布団へ?
腕枕ー?
何それ。
「そうです……もしかして、本当に覚えてない?」
「うん」
「寝ぼけてたんですか」
ふふーん。
なーんにも覚えてないや。
うん、全然――
何、この光景は。
私は……
『ねえ』
『何?』
『起こした?』
『うん』
『ごめんね。ちょっと寒いの。寒いから、そっちに行ってもいい?』
『は?』
『寒いから、そっちに行くね』
『はぁ』
『ちょ、ちょっと火羅さん」
『腕枕ー♪』
「い、い、い、いやぁああああああ!!!!!!」
自分の布団に潜り込むと、火羅は頭を抱え、身体をぎゅっと縮こまらせた。
恥ずかしさが烈火の如く襲ってくる。
姫様は、寝具の膨らみを見やりながら朝から疲れるなぁと思った。
ああ、そうだ。
「火羅さん」
布団を少しめくる。火羅の真っ赤な顔。
風邪じゃないんだよね。
「……何?」
「『腕枕ー』と言ったときの火羅さん、とても可愛らしかったですよ」
ごとっと、音がした。
ごろんごろんと転がっている。
ああああああと気味の悪い呻き声。
姫様は結界を解くと、朝ご飯を作りに行った。
腕に赤い痕が残っていた。
鼻をくすぐる、優しい匂い。昔嗅いだことがあるような気がした。何時のことだったのかは、思い出せなかった。
暖かく柔らかいものが頭にあたっている。
妖狼の姫君はぱちりと目を覚ました。
この枕気持ちいいな。この匂いは何の匂いだろう?
「ねぇ」
姫様に訊いた。
すぐ近くにいた。今にも触れあわんばかりな近さ。
寝顔を見やり、ぼやっとした頭が一気に覚醒し、赤髪と同じ色に首筋から額まで染め上がった。
口をあんあぐり大きく開けると、がたがたがたっと壁まで退却。
うえぇぇぇと頬を押さえると、
「何! 何なの!」
と大きな声を出した。部屋が震える。溢れた妖気に結界がみしりと揺れる。
姫様が目を覚ました。
どうしました? とのんびりした口調で火羅に訊いた。
「どうして! どうして貴方が私の布団にいるのよ!?」
ふぅん? と、首を傾げる。
だだっ子のようにぱたぱた両手を振り回すと、
「それに、どうして貴方が私に腕枕を!?」
と火羅は続けた。
「それは、」
だって火羅さんが――
「まさか……まさか、貴方、本当は太郎様じゃなく……そんな、そんなことって。そういえば、お風呂でもじろじろ見てたし……わ、私が狙いだったのね!」
「……」
じと目で、何を言ってるんだろうこの人と姫様。
「な、何もしてないでしょうね! いくら私が魅力的だからって……そんな、私の布団に潜り込んで……こ、恐い人!」
「いや、あの……」
どうしたのかな、火羅さん。
もしかして熱でもあるんでしょうか?
「大丈夫ですか?」
すーっと膝でにじり寄ると、紅い紅い火羅の額に姫様は手を伸ばした。
薬師としての、当たり前の行為。
もちろん、火羅を心配しての。だが、今の状態では逆効果で。
「み、みきゃー!!!」
姫様の手を払いのけ、火羅は布団の中に頭をつっこんだ。
がくがく震える。
こんなことってと火羅は嘆いた。彼女は、本当に怯えていた。
そうだ、この部屋には結界が敷かれてある。
つまり……ここで何が起ころうと、外には漏れない。
どころか、そも、古寺には火羅の味方と成りうる妖がいない。
誰も彼も、周囲は全て敵。
ああ、私はこれからこの娘に散々に弄ばれて……否!
私は、こんなところで、
「火羅さーん」
反対側から姫様がおはよう。
目が合う。
にこっと姫様が微笑む。
怯えきった火羅にはその笑顔が、哀れな獲物を捕らえた喜びに満ち溢れているように見えた。
うがーっと吠えると、布団から抜け出し、ついに火羅は真紅の妖狼の姿に転じた。
「こ、こないで!」
所詮は人。
私の爪の、牙の、炎の相手ではないのだ。
敵意剥き出し争う気満々の巨大な狼を、先程とうって変わって姫様は悲しげに見つめた。
「そ、そんな目で私を見ないで!」
そうやって私を騙すつもりだな!
そうはいかないからね!
「火羅さん……私、何か気に障ることでも……」
「この、白々しい!」
「昨日は、あんなに仲良くしてくれ、」
ごおと炎が噴き上がった。
「……知らない! 知らない知らない!」
顔を硬め、ぶんぶん首を振る。
はさりと姫様の髪がざわめき、華奢な首筋が目に入った。
あ、綺麗……じゃ、ない!
くう、私は眠っていうるうちに弄ばれてしまったのか。
そういえば、この娘は気配を絶つことに優れていた。
それに、式神も使える術者であり、薬師としての腕もある。
少ーし。
ほんの少ーし気を許した私の隙をついて、術やら薬やらで起きないようにしたに違いない。
『火羅さん。私は太郎さんのことを好いています。好いていました。でも、今は二人っきり……私は、貴方が欲しい』
そしてそして、口にはしづらいあんなことやそんなことを。
友達だって、おかしいよね。
そう尋ねたら、おかしくないと答えてくれたのに。
私は……ほんの、ほんの少し嬉しかったのに。
あれは罠だったのかー。
「まさか貴方に夜這いを掛けられるなんて……何て事なの」
「……誰が?」
「あ、貴方よ! 私の目の前にいる、彩花という人の娘! なまじ力があるばかりに……この私が、一生の不覚だわ!」
死んだ魚の目。ぬぼーっと火羅を見つめる。
姫様は――冷たい冷たい妖気を、火羅にぶつけた。
炎が弱々しくなる。
これ、これはと火羅は思った。
父上……私はもう、囚われの身であるようです。
きっと今からいたぶられるんですね。
誰か……赤麗……
「火羅さんに私が夜這い? それは一体、何の冗談ですか?」
「だ、だって……貴方、私の布団に」
何よりの動かぬ証拠。
この娘は勝手に私の布団に入ってきていたのだ。
言い逃れは出来まい!
「こーれーが! 火羅さんの布団ですか!?」
「……あう?」
おっかしいなー。
私が使ったのは金魚柄のお布団で。
この揚羽蝶のじゃないよね。
それに、枕も違うぞ。
「私に腕枕してたじゃない!」
そうだ。
きっと露見することを見通してあらかじめ寝具をすり替えていたんだ。
さすが我が宿敵、頭の切れること。
用意周到、やるじゃないの。
「それは火羅さんが『腕枕ー』と言って私の腕を枕代わりにしたんじゃないですか! 覚えてないんですか!」
「……」
「大体、布団に入ってきたのは火羅さんですよ! 『寒いー』とかなんとか言って!」
火羅が人型をとる。
不思議そうに首をふるふると左右に傾げさせる。
火鼠の単衣。これ、便利なのよね。妖の姿になるとき脱がなくても良いから。
やっぱり、いちいち脱ぐのは面倒でね。愛用してます。
はは、衣を作れない私にはとってもお似合いよ。
「私がそんなこと言ったの?」
「はい!」
「そんなことしたの?」
私からこの娘の布団へ?
腕枕ー?
何それ。
「そうです……もしかして、本当に覚えてない?」
「うん」
「寝ぼけてたんですか」
ふふーん。
なーんにも覚えてないや。
うん、全然――
何、この光景は。
私は……
『ねえ』
『何?』
『起こした?』
『うん』
『ごめんね。ちょっと寒いの。寒いから、そっちに行ってもいい?』
『は?』
『寒いから、そっちに行くね』
『はぁ』
『ちょ、ちょっと火羅さん」
『腕枕ー♪』
「い、い、い、いやぁああああああ!!!!!!」
自分の布団に潜り込むと、火羅は頭を抱え、身体をぎゅっと縮こまらせた。
恥ずかしさが烈火の如く襲ってくる。
姫様は、寝具の膨らみを見やりながら朝から疲れるなぁと思った。
ああ、そうだ。
「火羅さん」
布団を少しめくる。火羅の真っ赤な顔。
風邪じゃないんだよね。
「……何?」
「『腕枕ー』と言ったときの火羅さん、とても可愛らしかったですよ」
ごとっと、音がした。
ごろんごろんと転がっている。
ああああああと気味の悪い呻き声。
姫様は結界を解くと、朝ご飯を作りに行った。
腕に赤い痕が残っていた。