あやかし姫~月の蝶(6)~
自分を見下ろす男に視線を向ける。
ふいと首を傾け、淡く光を帯びる人の娘を囲み、涎を垂らす、二匹の手負いの獣を見やる。
それから、また、火羅は男に眼差しを向けた。
「やめて」
肩を竦め、僅かに、身をよじる。
「命乞いか」
もう、白刹天の声に、怨も憎もない。
あるのは、満ち足りた匂いだけ。
そして、その言葉は、火羅の誇りを傷つけた。
命乞いなどこの私が――
傷つけたが、どうしようもなかった。
「違うわ、あの娘を……あの娘はね」
「餓天も砕天も、傷を負った。あの娘を喰らって、身を癒さねば」
それに……目の前で喰らえば、喜ぶだろう? 喜んでもらえるだろう?
そう言いながら、白刹天は少し待てと獣に手で示した。
「私は、貴方が?」
「そうだ」
「……彩花さんが死んでも、私はどういうことはないわ。仕事の相手だもの。付き合いなど、浅いものよ。でも、貴方達はまずいんじゃないのかしら」
「どういう意味だ?」
白刹天が、眼傷に手をやった。
食いついた――
「あの人の娘は、金銀妖瞳の妖狼に育てられたのよ」
「何?」
「何と!」
二匹の虎が驚愕する。
この者がそうかと、しげしげと目を見開いた。
「九尾の銀の一族の現当主の義姉、葉子も、育ての親の一人よ。その娘は、妖に育てられた」
「葉子殿も……」
太郎の名は聞き及んでいた。北の妖狼を救ったと。
葉子とは面識もある。
白刹天は、久しく聞かぬ銀狐の名に、懐かしさを覚えた。
「喰らえば二人が黙ってはいない、か」
妖狼の姫君が、金銀妖瞳の妖狼に接触したという話は聞いていた。
嘘ではないだろうと思った。
あの娘が美味に見えるのは、妖に育てられ、影響を強く受けたからか。
「大切に大切に、深く慈しまれているわ」
恨めしく思うほどに。
「北の妖狼と九尾を敵に廻すのは、得策ではない、か」
「そうよ。賢い貴方なら、わかるでしょう?」
二匹の虎は、名残惜しそうに涎を拭い、そっと離れた。
よかった。
そう、火羅は思った。
大切なものがまた、掌から零れ落ちずにすんだと。
大切なもの……違うわ。
そうじゃないわよ。
否定した。頭の中で、否定を繰り返した。
「何が可笑しい」
「可笑しい?」
「笑っているぞ」
「ああ、そうなの」
屋敷は壊れ、木々は折れ。
あちこちで煙が燻っている。
派手にやったものだ。
月光蝶がここで羽を休めることはもうないだろう。
身体中が痛む。無数にある傷口からは、もう、流れるものはなかった。
閉じようとも、しない。ぱっくりと、痕を現す。
妖が、治癒の力が強いといっても、限度がある。
深い傷を負えば、死ぬ。
重い病を患えば、死ぬ。
不死ではないのだ。
あの娘がいなければ……
もし、忍ばれたことに気が付いていたら。
傷が、もう少し浅ければ。
あの娘を、守る必要がなかったら。
こうはならなかったろう。
月光蝶が羽を休める場所を、見つけなければ。
あの翁が、彩花に外出の許可を与えなければ。
私が、誘わなければ。
私が、会わなければ。
考えても、詮無きことであった。
「いい、寝顔ね」
「結界の中にいるからな」
姫様を抱いたときに、術を掛けておいた。
守りの結界を。
姫様の周囲は、荒れてはいない。それは、結界の力だけではなかった。
「それで、他に言いたいことは?」
白刹天が言った。
妖狼と妖虎の古い争いは、既に決着がついていた。
「……ないわ」
火羅が、目を瞑る。
白刹天は、座り込み、動けなくなっていた真紅の妖狼の両腕を掴み、つうっと持ち上げた。
「衣、」
今頃気が付いたのか。遅い――
ああ、そうか。
私を、女として見ていないから。火龍と、同じだから。
あの男も、そうだった。
私を求めたのは、子供のような残酷な好奇心。
汚し、傷を遺していった。
「無駄でしょう」
衣は、作れない。
もう、自分の意思で姿を操れない。
人と妖が混じった、この姿。そういえば、あの娘もそうだったな。
「それも、そうか」
妖狼だからとも、思った。
容姿に自信はあるのだけれど。ああ、でも、でも、振り向いてはくれないし。
劣っているわけがないのに。
意外とああいうのが好み……くだらない。くだらないわ。
思考が乱れていると思った。
やれることはやったわ――慕っていた者の顔に別れを告げ、慕ってくれた者の顔を浮かべた。
赤麗に、もうすぐ会える。
どんな顔をするだろう?
また、主従を結ぶだろうか。
いや――そうじゃなくていいわ。
秘め事を全て打ち明けて、貴方の言ったとおりだったよと、声を掛けたいわ。
虎が、口を、大きく開けた。
妖狼の尾が、力無く垂れ、揺れた。
青白い肩にぞぶりと牙をたてる。血の気の失せた肌が、男の濡れた瞳に照らされている。
火羅が、はぁと、切なげに喘いだ。
ごぶりと、噛みちぎった。鎖骨を砕かれ、ぶつりと、幾本の筋が切れる音がした。
苦痛の息を零すと、唇を噛み締め、眉間に皺を寄せた。
くちゃり、
くちゃりと、
耳元で不快な音がした。
痛い。
右腕の感覚がなくなっていた。
肩の肉が、抉れ、消え、白い骨が露わになって。
目を、うっすらと開いた。見ていたいと思った。
大きく虚ろな月。
呑み込もうとしているようで。
月光蝶は、いなかった。
ふいと首を傾け、淡く光を帯びる人の娘を囲み、涎を垂らす、二匹の手負いの獣を見やる。
それから、また、火羅は男に眼差しを向けた。
「やめて」
肩を竦め、僅かに、身をよじる。
「命乞いか」
もう、白刹天の声に、怨も憎もない。
あるのは、満ち足りた匂いだけ。
そして、その言葉は、火羅の誇りを傷つけた。
命乞いなどこの私が――
傷つけたが、どうしようもなかった。
「違うわ、あの娘を……あの娘はね」
「餓天も砕天も、傷を負った。あの娘を喰らって、身を癒さねば」
それに……目の前で喰らえば、喜ぶだろう? 喜んでもらえるだろう?
そう言いながら、白刹天は少し待てと獣に手で示した。
「私は、貴方が?」
「そうだ」
「……彩花さんが死んでも、私はどういうことはないわ。仕事の相手だもの。付き合いなど、浅いものよ。でも、貴方達はまずいんじゃないのかしら」
「どういう意味だ?」
白刹天が、眼傷に手をやった。
食いついた――
「あの人の娘は、金銀妖瞳の妖狼に育てられたのよ」
「何?」
「何と!」
二匹の虎が驚愕する。
この者がそうかと、しげしげと目を見開いた。
「九尾の銀の一族の現当主の義姉、葉子も、育ての親の一人よ。その娘は、妖に育てられた」
「葉子殿も……」
太郎の名は聞き及んでいた。北の妖狼を救ったと。
葉子とは面識もある。
白刹天は、久しく聞かぬ銀狐の名に、懐かしさを覚えた。
「喰らえば二人が黙ってはいない、か」
妖狼の姫君が、金銀妖瞳の妖狼に接触したという話は聞いていた。
嘘ではないだろうと思った。
あの娘が美味に見えるのは、妖に育てられ、影響を強く受けたからか。
「大切に大切に、深く慈しまれているわ」
恨めしく思うほどに。
「北の妖狼と九尾を敵に廻すのは、得策ではない、か」
「そうよ。賢い貴方なら、わかるでしょう?」
二匹の虎は、名残惜しそうに涎を拭い、そっと離れた。
よかった。
そう、火羅は思った。
大切なものがまた、掌から零れ落ちずにすんだと。
大切なもの……違うわ。
そうじゃないわよ。
否定した。頭の中で、否定を繰り返した。
「何が可笑しい」
「可笑しい?」
「笑っているぞ」
「ああ、そうなの」
屋敷は壊れ、木々は折れ。
あちこちで煙が燻っている。
派手にやったものだ。
月光蝶がここで羽を休めることはもうないだろう。
身体中が痛む。無数にある傷口からは、もう、流れるものはなかった。
閉じようとも、しない。ぱっくりと、痕を現す。
妖が、治癒の力が強いといっても、限度がある。
深い傷を負えば、死ぬ。
重い病を患えば、死ぬ。
不死ではないのだ。
あの娘がいなければ……
もし、忍ばれたことに気が付いていたら。
傷が、もう少し浅ければ。
あの娘を、守る必要がなかったら。
こうはならなかったろう。
月光蝶が羽を休める場所を、見つけなければ。
あの翁が、彩花に外出の許可を与えなければ。
私が、誘わなければ。
私が、会わなければ。
考えても、詮無きことであった。
「いい、寝顔ね」
「結界の中にいるからな」
姫様を抱いたときに、術を掛けておいた。
守りの結界を。
姫様の周囲は、荒れてはいない。それは、結界の力だけではなかった。
「それで、他に言いたいことは?」
白刹天が言った。
妖狼と妖虎の古い争いは、既に決着がついていた。
「……ないわ」
火羅が、目を瞑る。
白刹天は、座り込み、動けなくなっていた真紅の妖狼の両腕を掴み、つうっと持ち上げた。
「衣、」
今頃気が付いたのか。遅い――
ああ、そうか。
私を、女として見ていないから。火龍と、同じだから。
あの男も、そうだった。
私を求めたのは、子供のような残酷な好奇心。
汚し、傷を遺していった。
「無駄でしょう」
衣は、作れない。
もう、自分の意思で姿を操れない。
人と妖が混じった、この姿。そういえば、あの娘もそうだったな。
「それも、そうか」
妖狼だからとも、思った。
容姿に自信はあるのだけれど。ああ、でも、でも、振り向いてはくれないし。
劣っているわけがないのに。
意外とああいうのが好み……くだらない。くだらないわ。
思考が乱れていると思った。
やれることはやったわ――慕っていた者の顔に別れを告げ、慕ってくれた者の顔を浮かべた。
赤麗に、もうすぐ会える。
どんな顔をするだろう?
また、主従を結ぶだろうか。
いや――そうじゃなくていいわ。
秘め事を全て打ち明けて、貴方の言ったとおりだったよと、声を掛けたいわ。
虎が、口を、大きく開けた。
妖狼の尾が、力無く垂れ、揺れた。
青白い肩にぞぶりと牙をたてる。血の気の失せた肌が、男の濡れた瞳に照らされている。
火羅が、はぁと、切なげに喘いだ。
ごぶりと、噛みちぎった。鎖骨を砕かれ、ぶつりと、幾本の筋が切れる音がした。
苦痛の息を零すと、唇を噛み締め、眉間に皺を寄せた。
くちゃり、
くちゃりと、
耳元で不快な音がした。
痛い。
右腕の感覚がなくなっていた。
肩の肉が、抉れ、消え、白い骨が露わになって。
目を、うっすらと開いた。見ていたいと思った。
大きく虚ろな月。
呑み込もうとしているようで。
月光蝶は、いなかった。