あやかし姫~月の蝶(12)~
仰向けに火羅は倒れていた。倒れ、手首をかざしていた。
衣は、袖を通しただけ。
衿を大きく開かせ、傷の残る肌を外気に触れさせていた。
姫様が腰を降ろし、火羅の肩に手を置いた。
喰われた傷は、一応塞がってはいた。その部分だけ、鮮やかな赤桃色をしていた。
「悪いわね、毎日、毎日」
「いえ」
「まだ、炎がでない」
妖狼は、あの日から炎を失っていた。
「……気長に、待つしかないです」
「駄目なのよ!」
がばりと身を起こす。
胸の傷を見やり、姫様は目を伏せた。
着物の衿を閉じ、帯を結ぶ。
「羨ましいの?」
「違います」
いつもの軽口。楽しくはない。互いに、表情を動かさなかった。
「……それじゃあ、駄目なのよ」
そう、心細げに言った。
「ですが」
「私は、西の妖狼の姫なの」
担ぎ込まれて、十二日。
火羅が目を開いたのは、五日目の朝。
最初は、口を開くのも辛そうであった。
「西の……妖狼の……」
「今は私の客人の火羅さんです」
同じようなことを言ったなと火羅は思った。表情が少し和らぎ、すぐに引き締められた。
「わかってる、わかってるけど」
でも、どうしても。
赤麗の時とは違うのだ。
妖虎に襲われ、深い傷を負ったということが、九州の妖達に広まっていた。
隠していたのに。知っているのは、古寺の住人だけだ。
彼女たちが漏らすはずなかった。白刹天の仲間がまだいるということだろう。
それが、個なのか、群れなのかすら、掴めてはいない。
頭領が動いていた。古寺にも、固い守りを施していた。
「私の力不足です……」
「違う!」
強く否定し、はっと口を押さえた。
「……違うわ。貴方はよくやってくれている。不甲斐ないのは私の方なのよ」
焼け爛れた肌に、新たについた傷。妖白虎が、最初に刻んだ傷。
そこだけに、膿が溜まった。痛みを生んだ。一日に一度、膿を出さなければならなかった。
吸い出すのは、秘め事を知っている姫様の役目。
それは、姫様にしか、出来なかった。
初めて膿を吸い出されたときは、顔を真っ赤にしたものだ。楽になるというのはわかるが、それでも。
今は、恥ずかしさに、それとは別の感情が加わっているような気がした。
その気持ちが、少し、恐くあった。
「私の方……待つしかないってわかってるんだけどね。今帰ったらどうなるか……結束はそんなに固いものじゃない。力の無い私を見たら、一気に瓦解する。また、戻ってしまう」
そして、次の盟主は……誰だろうか。
九州の大妖に、その気はなかった。あの大狐は、そういうことに嫌悪感を抱いている気配がある。
大陸から渡ってきたということが関係しているのかもしれない。身近な者と権力争いで破れたという話を聞いたことがあった。
「待つしかないというのも、辛いものね」
ことんと、頭を姫様の肩に預けた。こうしていると、安心した。
姫様は、誰かに触れていることが好きらしいと思ったが、それは自分もだったようだ。
よく、傍にいてくれた。
眠り、恐くなり、目を覚ますと、彩花がいる。
一人ではないのだと教えてくれる。
傷のせいだろうか、恐ろしい夢を見るようになった。
遠い遠い遠い、過去の景色。
目が醒める。恐くて、震える。
そんなとき、彼女はいつも寄り添ってくれていた。
「……辛いものです」
そう、姫様は答えた。
姫様も待っていた。
火羅を襲った妖。
それを屠った者。真っさらに消し去った者。
火羅は、自分がやったと言った。そうは思えなかった。
自分が、酔い、気を失わなければ、この事態は防げたろうか。
少なくとも、力にはなれたはずだ。白刃がいる。金銀妖瞳の妖狼の毛から生まれた式神は、闘う力を持っていた。
私が気を失っている間に、何があったのだろうか。火羅は、本当に一人で襲ってきた妖虎を消し去ったのか。
本当に火羅がやったのかもしれない。
この傷は、その証。
それとも――私が?
自らが時折滲ませる力。それは、私のものであって、私のものではない……
そして、
そして。
姫様は、頭領を待っていた。頭領と話をすることを、望んでいた。
一度、姫様は太郎を救った。
火羅も、救おうとした。出来なかった。瀕死の妖狼を救ったあの術を。
禁じられている。即座に理解した。禁じたのは、ただ、一人。禁じられるのは、ただ、一人。
この古寺の主。
そうとしか考えられなかった。
太郎に命を注いでから、私が纏うことが、多くなった。
それが、理由だろうか。
「薬がしみるわ」
「我慢して下さい」
「白刹天様……」
女が一人、篝火を前にして、何かに頬を寄せていた。
青い、男の、首。
それは、あの白虎の首であった。
あやかし姫が捨てた、首であった。
妖の骸は、月光蝶にたいらげられた。死を喰らう蝶々――月光蝶に。
しかし、白刹天の首は、女の手元に残ったのだ。
いや、戻ったと言うべきか。
「もうすぐ、もうすぐでございますよ。あの憎き狼と、あの娘を、貴方様に捧げますゆえ」
齢は三十ばかし。女は、巫女装束を身に着けていた。能面のような顔に、涙の痕がくっきりと。
火に、石を放る。
何かが、火を弾けさせ、勢いよく飛び出し、空に帯を残して消えていった。
女が、高く、高く、嗤った。
妖虎達。
良き、妖達だった。
一緒に暮らしを営んだ。
火羅が、人の娘だけを連れて遠出するということを掴んだのは彼女だった。
千載一遇の機会。妖虎の宿願を叶える日。彼らは、連れて行ってと頼んだ女に、残れと言った。
人であるからだ。虎ではないからだ。
そう思い、塞ぎ込んだ。
違った。
白い虎は、言った。言ってくれた。
仲間の冷やかしの中、頷いた。何度も頷いた。その言葉を胸に抱いて待っていたのに。
帰ってきたのは、首だけ、だった。
夢は消えた。
残ったのは、深い憎しみだけ。
狼が、壊した。狼を、壊す。
その想いだけ。
どうやって壊そうか。
まずは、親しそうにしていたあの娘を踏みにじる。それから、ゆっくりと壊してやる。
「楽しいだろうな」
女は、そう、言った。
そして、嗤った。
衣は、袖を通しただけ。
衿を大きく開かせ、傷の残る肌を外気に触れさせていた。
姫様が腰を降ろし、火羅の肩に手を置いた。
喰われた傷は、一応塞がってはいた。その部分だけ、鮮やかな赤桃色をしていた。
「悪いわね、毎日、毎日」
「いえ」
「まだ、炎がでない」
妖狼は、あの日から炎を失っていた。
「……気長に、待つしかないです」
「駄目なのよ!」
がばりと身を起こす。
胸の傷を見やり、姫様は目を伏せた。
着物の衿を閉じ、帯を結ぶ。
「羨ましいの?」
「違います」
いつもの軽口。楽しくはない。互いに、表情を動かさなかった。
「……それじゃあ、駄目なのよ」
そう、心細げに言った。
「ですが」
「私は、西の妖狼の姫なの」
担ぎ込まれて、十二日。
火羅が目を開いたのは、五日目の朝。
最初は、口を開くのも辛そうであった。
「西の……妖狼の……」
「今は私の客人の火羅さんです」
同じようなことを言ったなと火羅は思った。表情が少し和らぎ、すぐに引き締められた。
「わかってる、わかってるけど」
でも、どうしても。
赤麗の時とは違うのだ。
妖虎に襲われ、深い傷を負ったということが、九州の妖達に広まっていた。
隠していたのに。知っているのは、古寺の住人だけだ。
彼女たちが漏らすはずなかった。白刹天の仲間がまだいるということだろう。
それが、個なのか、群れなのかすら、掴めてはいない。
頭領が動いていた。古寺にも、固い守りを施していた。
「私の力不足です……」
「違う!」
強く否定し、はっと口を押さえた。
「……違うわ。貴方はよくやってくれている。不甲斐ないのは私の方なのよ」
焼け爛れた肌に、新たについた傷。妖白虎が、最初に刻んだ傷。
そこだけに、膿が溜まった。痛みを生んだ。一日に一度、膿を出さなければならなかった。
吸い出すのは、秘め事を知っている姫様の役目。
それは、姫様にしか、出来なかった。
初めて膿を吸い出されたときは、顔を真っ赤にしたものだ。楽になるというのはわかるが、それでも。
今は、恥ずかしさに、それとは別の感情が加わっているような気がした。
その気持ちが、少し、恐くあった。
「私の方……待つしかないってわかってるんだけどね。今帰ったらどうなるか……結束はそんなに固いものじゃない。力の無い私を見たら、一気に瓦解する。また、戻ってしまう」
そして、次の盟主は……誰だろうか。
九州の大妖に、その気はなかった。あの大狐は、そういうことに嫌悪感を抱いている気配がある。
大陸から渡ってきたということが関係しているのかもしれない。身近な者と権力争いで破れたという話を聞いたことがあった。
「待つしかないというのも、辛いものね」
ことんと、頭を姫様の肩に預けた。こうしていると、安心した。
姫様は、誰かに触れていることが好きらしいと思ったが、それは自分もだったようだ。
よく、傍にいてくれた。
眠り、恐くなり、目を覚ますと、彩花がいる。
一人ではないのだと教えてくれる。
傷のせいだろうか、恐ろしい夢を見るようになった。
遠い遠い遠い、過去の景色。
目が醒める。恐くて、震える。
そんなとき、彼女はいつも寄り添ってくれていた。
「……辛いものです」
そう、姫様は答えた。
姫様も待っていた。
火羅を襲った妖。
それを屠った者。真っさらに消し去った者。
火羅は、自分がやったと言った。そうは思えなかった。
自分が、酔い、気を失わなければ、この事態は防げたろうか。
少なくとも、力にはなれたはずだ。白刃がいる。金銀妖瞳の妖狼の毛から生まれた式神は、闘う力を持っていた。
私が気を失っている間に、何があったのだろうか。火羅は、本当に一人で襲ってきた妖虎を消し去ったのか。
本当に火羅がやったのかもしれない。
この傷は、その証。
それとも――私が?
自らが時折滲ませる力。それは、私のものであって、私のものではない……
そして、
そして。
姫様は、頭領を待っていた。頭領と話をすることを、望んでいた。
一度、姫様は太郎を救った。
火羅も、救おうとした。出来なかった。瀕死の妖狼を救ったあの術を。
禁じられている。即座に理解した。禁じたのは、ただ、一人。禁じられるのは、ただ、一人。
この古寺の主。
そうとしか考えられなかった。
太郎に命を注いでから、私が纏うことが、多くなった。
それが、理由だろうか。
「薬がしみるわ」
「我慢して下さい」
「白刹天様……」
女が一人、篝火を前にして、何かに頬を寄せていた。
青い、男の、首。
それは、あの白虎の首であった。
あやかし姫が捨てた、首であった。
妖の骸は、月光蝶にたいらげられた。死を喰らう蝶々――月光蝶に。
しかし、白刹天の首は、女の手元に残ったのだ。
いや、戻ったと言うべきか。
「もうすぐ、もうすぐでございますよ。あの憎き狼と、あの娘を、貴方様に捧げますゆえ」
齢は三十ばかし。女は、巫女装束を身に着けていた。能面のような顔に、涙の痕がくっきりと。
火に、石を放る。
何かが、火を弾けさせ、勢いよく飛び出し、空に帯を残して消えていった。
女が、高く、高く、嗤った。
妖虎達。
良き、妖達だった。
一緒に暮らしを営んだ。
火羅が、人の娘だけを連れて遠出するということを掴んだのは彼女だった。
千載一遇の機会。妖虎の宿願を叶える日。彼らは、連れて行ってと頼んだ女に、残れと言った。
人であるからだ。虎ではないからだ。
そう思い、塞ぎ込んだ。
違った。
白い虎は、言った。言ってくれた。
仲間の冷やかしの中、頷いた。何度も頷いた。その言葉を胸に抱いて待っていたのに。
帰ってきたのは、首だけ、だった。
夢は消えた。
残ったのは、深い憎しみだけ。
狼が、壊した。狼を、壊す。
その想いだけ。
どうやって壊そうか。
まずは、親しそうにしていたあの娘を踏みにじる。それから、ゆっくりと壊してやる。
「楽しいだろうな」
女は、そう、言った。
そして、嗤った。