小説置き場2

山岳に寺社仏閣に両生類に爬虫類に妖怪に三国志にetcetc

あやかし姫~月の蝶(終)~

「火羅さん……」
 真紅の妖狼。
 炎を纏っていた。小さいが、間違いなく炎だった。
 火羅が、大きな額を寄せると、姫様はそっと触れた。
「帰りますか?」
「ええ……」
「朗報、でしょうか。火羅さんが深手を負ったことを広めた方は、亡くなられたそうです」
 ぴくりと、耳が動いた。
「へぇ」
「帰るんですね」
「帰るわ」
「本当に帰るんですね」
「いつまでも居座られ続けたら、良くないでしょう?」
「そんなことないです!」
「ふふ……」
 否定してくれるんだね。
「何がおかしいんですか……」
「貴方は、やっぱり泣き虫よ」
「ええ、そうですよ」
「でも、帰らないとね」
 だって……ずっといたくなるもの。心地良いから。
 それは、よくないことだから。
「もう少し身を委ねていたいけど、」
「……はぁ」
 ふぇ? 何言ってるんだろう、私。
「お、お酒には気をつけなさい」
 そういえば、耳噛まれたっけ。あれには本当にびっくりしたわ。
「そうします……」
 姫様が小さく謝った。
 違うんだけどと、火羅は思った。
 まぁ、いいか。



 火羅は車に乗った。
 別れがたいものがあって。離れがたいものがあって。
 その想いが、恐いような気がした。
 でも……火龍、か。深く、深く、傷を遺した。
 まさかね。
 太郎様……父上……わ、私は。そ、そんなはずないと思うんだけど。
 古寺の屋根を見やり、火羅は静止した。
 あの女がいたから。あの女がけたけたと嗤っていたから。瞬きする間に、その姿は消え去った。
 黒之助が、やれやれという表情を浮かべていた。
 機嫌を損ねた鬼の姫君をなだめていたのはこの烏天狗と、森に住まう夫婦だという。
 苦労したのだろう。
 頭領が、鋭い視線を送った。
 肌に沫が生じる。話をした。起こったことを、全て。夢だと、一言で片付けられた。有無を許さぬという口調であった。
 それ以上でも、それ以下でもないと。
 葉子が、また来なさいなと手を振っている。
 困ったことがあったら使いなと、一通の手紙をもらった。
 木助と葉美へと。葉子よりと。
 ありがたかった。好意を、向けてくれている。
 多分、彩花のおかげ。
 この妖のことを、母親のようだと、自慢するように言っていた。
 太郎様が、屋根を見ていた。
 顔を向け直すと、傷、きちんと癒せよと言ってくれた。
 彩花さんの顔を見やる。
 頷いていた。
 そういえば、この唇に触れたんだっけ……
 うう――本当に、まさかね。
「お世話になりました」



 簾を下げると、昼の月が見えた。
 背中に、手を廻す。
 傷口を指先でなぞると、火羅は、これからのことを考えた。 
 答えは、一つ――西の妖狼が隆盛を誇ることは、もう、ないだろう。
「また、会えるかな」
 会いたいけどね。
 二十日。長すぎた。別に構わない。
 妖狼の姫として、数多の妖を統べて生きる理由を、あの時失っていた。
 結局、自分は妖虎に負けてしまったのだ。
「蝶を、もう一度見たいけど……」
 どうだろうかと、ぼんやりと考える。
「嫌でしょうね。そうよね」
 運命というものは、あるのだろうか。
 あるとすれば、よくよく凝ってあるに違いない。なにせ、阿蘇の火龍からなのだから。
「人でも、妖でも、神でもない。それ故に、人でも、妖でも、神でもある」
 たった一人の、かけがいのない大切な友人。
「友人、よね。それ以上じゃあ……」
 どうして、あんなことをしたんだろう?
 泣いていたから。
 ただ、それだけ……
「ああ」
 耳を噛まれた仕返し、かな。



「火羅さん……」
「うん?」
「帰りたくなかった」
「帰りたくない?」
「帰りたくなかったんだよ」
 火羅の今の立場は苦しい。
 とても、苦しい。
 そんな場所へ、帰したくなかった。
「姫様がそう言うんなら、そうなんだろうな」
 俺にはわかんねぇけど。
「ねぇ、屋根の上に、何がいたの?」
「……何もいねぇよ」
「二人は、何を見たの?」
「火羅も俺も、何も見ていないって」
「よくわかったね、火羅さんもだって」
「……ぐ?」
「私は、二人と言っただけだよ? それが、太郎さんと火羅さんだとは言ってません」
「ぐ、ぐ……」 
「私が、知ってはいけないことなの?」
「……」
「ねぇ、太郎さん」
「……」
「……朱桜ちゃん達と温泉に行こうか」
「行く」
「沙羅ちゃんも誘って、白蝉さん達も誘って、鈴鹿御前様や桐壺さん達とお会いましょうか」
「……なぁ」
「はい?」
「咲夜も呼んでいい?」
「それ、いい考えですね」
「うんうん」
 ねぇ、太郎さん。
 太郎さんも……私に、近くなってるよ。
 でも、教えない。教えてくれなかったから。
 火羅さん……いつか、いつか、また、蝶を見ましょうね。



 西の妖狼の姫君が、表舞台から退いたという報せが姫様に届いたのは、それからすぐのことであった。