あやかし姫~姫と火羅(1)~
「どこへ連れて行くというの?」
答えはない。
火羅は、ごとと揺れるようになった車の中で、ころと横になった。
築いてきたものを見事に失った。
残ったのは徒労感だけ。
誰も私に味方してくれなかった。
可笑しくなり、思わず薄笑みが零れるほどに。
真紅の妖狼の火羅は、今、囚われの身となっていた。
長く政に携わってきた。
阿蘇の火龍が死に、その後に起こった混乱。
族長である父を差し置いて、火羅は動いた。
自分の身を生贄として差し出した父。
西の妖狼は、北の妖狼とは違い、孤高であらねばならぬという掟はなかった。
それなのに、幾らでも手はあったのに、一番容易な方法をとった父。
口出しはさせなかった。
力ある妖に対するには、力なき妖達がまとまること。それが、自分のような者を出さないようにするための方法。
そう信じて、火羅は奔走した。
妖虎との争いを筆頭に、数多の困難があった。
それをくぐり抜けてきた。
幸いだったのは、自分が、それなりに力ある妖であったことと、皆が恐れるに足る存在――大妖、玉藻御前があったこと。
長い年月を掛け、西の妖狼族を中心とした妖の集まりを、九尾の片翼――銀の一族ほどに大きくしたというのに。
道が狂ったのは、多分、あの場所に、あの娘に会ってからだ。
金銀妖瞳の妖狼を夫とすることに失敗した。
長年仕えていた従者を失った。
そして……妖虎に、敗れた。
一応の手当てを受けて舞い戻った火羅を待っていたのは、形を変えた群れ、であった。それは、もう、火羅が必死に繋ぎ止めていたものとは、違っていた。
父が動いたのだ。
群れの意思を決めるのは、長達の合議制によるとなった。
そこに火羅の居場所はなかった。
西の妖狼は、中心ではなくなっていた。十人の長の中で、最も弱き者、そんな立ち位置になっていた。
父を、長の座から引きずり降ろさなかったことを、後悔した。
いずれは自分が継ぐのだからと、そのままにしておいたのだ。
力を持つことを怖がる、そんな父だった。
争い事が嫌いで、平穏を望む。
私がしてきたことを、憎んでいた。妖狼は、ひっそりと、生きていけばよい。そう考えていた。
否定はしなかった。
肯定もしなかった。
甘かったのだ、自分は。長の座を、取り上げておけば良かったのだ。
こうなることを一番恐れていたのに。
父は、末席に在るというだけで、満足している。
西の妖狼が、これからどういう扱いを受けるのか、考えていない。他の妖狼達も同じであった。
合議制が上手くいくはずがない。父に政の手腕はない。
群れは瓦解するだろう。
十人の長のうち、反目し合う者がどれだけいるか、考えたことなどないのだろう。
私の苦労を考えたことなどないのだろう。
もう、どうでもよかった。
力が抜けるというのは、こういうことを言うのだと、よくよく思い知った。
これから、また、荒れるだろう。
西の妖狼族が生き残ることを、祈るだけだった。
「会いたいよ……」
あの娘に会いたかった。
叶わぬことだった。
妖狼の里で、待っていたのは、父と長達。
しばらく軟禁され、傷の静養という名目のもと、自分の身柄は移されることになった。
抵抗はしなかった。抵抗する気力もなかった。抵抗する力もなかった。
その間、満足な治療は与えられなかった。
あの娘がくれた薬も、あの銀狐がくれた文も、全て取り上げられた。
独りだった。
ごとり――
車輪が、停まる。
「火羅殿」
そう、声をかけられた。
傷の静養、か。傷は、癒えきってはいない。だから、間違いではない。
でも、はっきり言えばいいと思う。
私が、邪魔なのだと。
静養をした方がよかろうと言ったときの、勝ち誇った醜い顔は、忘れられない。
「着いたのね」
護衛――いや、火羅を監視する任に就いた妖は、十二人。
皆々、力はある。
白刹天よりは随分と劣るが、今の火羅には勝てぬ者ばかりだった。
臭いを嗅ぐ。
鼻は利かなかった。わかってはいたのだが、つい、癖でやってしまう。
簾を上げ、足下に注意しながら、車から降りた。
地面に見覚えがあった。
顔を上げる。
山があった。
険しい、切り立った山。岩山だ。深い穴を抱いている。
目を見張り、一歩、下がった。火車に背を遮られ、それ以上退けなかった。
「火羅殿?」
監視の妖が、少し身構えながら話しかける。
それだけ、火羅の様子は異常であった。
酷く、何かに怯えていた。
「ここだと、いうの……」
「ここで傷を癒してほしいと」
言った妖は、嗤っているようであった。
火羅の怯えが面白かったのだろう。
「いやよ……いや! いや!」
甲高い、悲鳴に近い声をあげながら、妖狼の姿に転じ、火羅はその場を離れようとした。
すぐに組み伏せられる。
妖狼、妖虎、河童、山狗、雷獣、猿鬼、大百足……
妖達が、真紅の妖狼を押さえつけた。
「縛!」
皆が一斉に同じ呪を唱えると、白銀の鎖が、火羅の四肢に巻き付いた。
「我らが妖気を固めた鎖、逃れられはせぬ!」
鎖が、ぎりと戒めを強くし、耐え切れぬと言うように、妖狼は、半人半妖に転じた。
「さすがは、西の妖狼の……」
どこからともなく、感嘆の声があがる。このようなときのために、あらかじめ策は講じていた。
縛られて尚、火羅は鎖の間から、炎を噴き上げている。
気を抜けば、破られる。
さらに妖気を籠めた。炎は次第に小さくなり、消えていった。
それから、妖達は、呆然とする火羅を、ずると山の方に引きずっていった。
岩の路に、爪痕が、深く、深く、残った。
「うっ」
広い空間。
狭い洞窟の奥に広がる空間。知っている。火羅は、外に通じる穴を見やる。
妖達が、踵を返すところであった。
「待って!」
吠える。
じゃらりと、白銀が鳴る。
四肢から伸びた鎖は、生き物のように四方八方に伸びると、垂れ下がる鍾乳石や石柱に絡みついた。
「待って!」
もう一度、叫んだ。
誰も火羅を見ようとはしなかった。黙々と、持ってきた札を壁に貼り付けている。
せせら笑いを浮かべている者が、何人もいた。
空洞全体に結界を張り巡らすつもりだと気がついた。
気がついても、どうしようもなかった。
「待ってよ……これは、このことは、父上も知っているの!」
集落から付き従った唯一の妖狼が、顔を向けた。
こくりと、頷いた。
「嘘……」
身体の力が抜ける。
「嘘よ……」
臭い。
硫黄の、臭い。
「嘘よ……そんなの、そんなの、」
ここは、足を踏みいれるはずのない場所だった。
二度と訪れないと誓った場所だった。
この場所は、この鍾乳洞は、あの男の住処。
かって九州を牛耳った、八百万の神々が一柱、阿蘇の火龍の住処。
臭いが、鼻に突き刺さる。
あの男の臭い。
記憶が、蘇る。
執拗に弄ばれ、嬲られ、傷をつけられた記憶。
疼く。
背中が、疼く。
「父上……」
父上は、私の身を差し出した。
一度ならず、二度までも。
「や……いや……」
いる。
近くにいる。
あの男が、いる。
「こないで! こないでよ!」
あの男が、まとわりついてくる。あの男の手が、息遣いが、そこかしこに生きている。
「誰か……誰か!?」
死んだのだ。
あの男は、私を汚して、死んだのだ。
なのに、なのに、
「どうして生きてるのよ!」
叫ぶと火羅は、何もない一点を見つめた。
心が、崩れていく。
ゆっくりと、確かに。
夢と現が、交わっていく。
「死んで……死んでよ……」
真紅の妖狼は、龍の屍と、踊った。
踊り、続けた。
身体の自由を奪われて尚、空虚な一人踊りを演じた。
妖達は、もう、いなかった。
答えはない。
火羅は、ごとと揺れるようになった車の中で、ころと横になった。
築いてきたものを見事に失った。
残ったのは徒労感だけ。
誰も私に味方してくれなかった。
可笑しくなり、思わず薄笑みが零れるほどに。
真紅の妖狼の火羅は、今、囚われの身となっていた。
長く政に携わってきた。
阿蘇の火龍が死に、その後に起こった混乱。
族長である父を差し置いて、火羅は動いた。
自分の身を生贄として差し出した父。
西の妖狼は、北の妖狼とは違い、孤高であらねばならぬという掟はなかった。
それなのに、幾らでも手はあったのに、一番容易な方法をとった父。
口出しはさせなかった。
力ある妖に対するには、力なき妖達がまとまること。それが、自分のような者を出さないようにするための方法。
そう信じて、火羅は奔走した。
妖虎との争いを筆頭に、数多の困難があった。
それをくぐり抜けてきた。
幸いだったのは、自分が、それなりに力ある妖であったことと、皆が恐れるに足る存在――大妖、玉藻御前があったこと。
長い年月を掛け、西の妖狼族を中心とした妖の集まりを、九尾の片翼――銀の一族ほどに大きくしたというのに。
道が狂ったのは、多分、あの場所に、あの娘に会ってからだ。
金銀妖瞳の妖狼を夫とすることに失敗した。
長年仕えていた従者を失った。
そして……妖虎に、敗れた。
一応の手当てを受けて舞い戻った火羅を待っていたのは、形を変えた群れ、であった。それは、もう、火羅が必死に繋ぎ止めていたものとは、違っていた。
父が動いたのだ。
群れの意思を決めるのは、長達の合議制によるとなった。
そこに火羅の居場所はなかった。
西の妖狼は、中心ではなくなっていた。十人の長の中で、最も弱き者、そんな立ち位置になっていた。
父を、長の座から引きずり降ろさなかったことを、後悔した。
いずれは自分が継ぐのだからと、そのままにしておいたのだ。
力を持つことを怖がる、そんな父だった。
争い事が嫌いで、平穏を望む。
私がしてきたことを、憎んでいた。妖狼は、ひっそりと、生きていけばよい。そう考えていた。
否定はしなかった。
肯定もしなかった。
甘かったのだ、自分は。長の座を、取り上げておけば良かったのだ。
こうなることを一番恐れていたのに。
父は、末席に在るというだけで、満足している。
西の妖狼が、これからどういう扱いを受けるのか、考えていない。他の妖狼達も同じであった。
合議制が上手くいくはずがない。父に政の手腕はない。
群れは瓦解するだろう。
十人の長のうち、反目し合う者がどれだけいるか、考えたことなどないのだろう。
私の苦労を考えたことなどないのだろう。
もう、どうでもよかった。
力が抜けるというのは、こういうことを言うのだと、よくよく思い知った。
これから、また、荒れるだろう。
西の妖狼族が生き残ることを、祈るだけだった。
「会いたいよ……」
あの娘に会いたかった。
叶わぬことだった。
妖狼の里で、待っていたのは、父と長達。
しばらく軟禁され、傷の静養という名目のもと、自分の身柄は移されることになった。
抵抗はしなかった。抵抗する気力もなかった。抵抗する力もなかった。
その間、満足な治療は与えられなかった。
あの娘がくれた薬も、あの銀狐がくれた文も、全て取り上げられた。
独りだった。
ごとり――
車輪が、停まる。
「火羅殿」
そう、声をかけられた。
傷の静養、か。傷は、癒えきってはいない。だから、間違いではない。
でも、はっきり言えばいいと思う。
私が、邪魔なのだと。
静養をした方がよかろうと言ったときの、勝ち誇った醜い顔は、忘れられない。
「着いたのね」
護衛――いや、火羅を監視する任に就いた妖は、十二人。
皆々、力はある。
白刹天よりは随分と劣るが、今の火羅には勝てぬ者ばかりだった。
臭いを嗅ぐ。
鼻は利かなかった。わかってはいたのだが、つい、癖でやってしまう。
簾を上げ、足下に注意しながら、車から降りた。
地面に見覚えがあった。
顔を上げる。
山があった。
険しい、切り立った山。岩山だ。深い穴を抱いている。
目を見張り、一歩、下がった。火車に背を遮られ、それ以上退けなかった。
「火羅殿?」
監視の妖が、少し身構えながら話しかける。
それだけ、火羅の様子は異常であった。
酷く、何かに怯えていた。
「ここだと、いうの……」
「ここで傷を癒してほしいと」
言った妖は、嗤っているようであった。
火羅の怯えが面白かったのだろう。
「いやよ……いや! いや!」
甲高い、悲鳴に近い声をあげながら、妖狼の姿に転じ、火羅はその場を離れようとした。
すぐに組み伏せられる。
妖狼、妖虎、河童、山狗、雷獣、猿鬼、大百足……
妖達が、真紅の妖狼を押さえつけた。
「縛!」
皆が一斉に同じ呪を唱えると、白銀の鎖が、火羅の四肢に巻き付いた。
「我らが妖気を固めた鎖、逃れられはせぬ!」
鎖が、ぎりと戒めを強くし、耐え切れぬと言うように、妖狼は、半人半妖に転じた。
「さすがは、西の妖狼の……」
どこからともなく、感嘆の声があがる。このようなときのために、あらかじめ策は講じていた。
縛られて尚、火羅は鎖の間から、炎を噴き上げている。
気を抜けば、破られる。
さらに妖気を籠めた。炎は次第に小さくなり、消えていった。
それから、妖達は、呆然とする火羅を、ずると山の方に引きずっていった。
岩の路に、爪痕が、深く、深く、残った。
「うっ」
広い空間。
狭い洞窟の奥に広がる空間。知っている。火羅は、外に通じる穴を見やる。
妖達が、踵を返すところであった。
「待って!」
吠える。
じゃらりと、白銀が鳴る。
四肢から伸びた鎖は、生き物のように四方八方に伸びると、垂れ下がる鍾乳石や石柱に絡みついた。
「待って!」
もう一度、叫んだ。
誰も火羅を見ようとはしなかった。黙々と、持ってきた札を壁に貼り付けている。
せせら笑いを浮かべている者が、何人もいた。
空洞全体に結界を張り巡らすつもりだと気がついた。
気がついても、どうしようもなかった。
「待ってよ……これは、このことは、父上も知っているの!」
集落から付き従った唯一の妖狼が、顔を向けた。
こくりと、頷いた。
「嘘……」
身体の力が抜ける。
「嘘よ……」
臭い。
硫黄の、臭い。
「嘘よ……そんなの、そんなの、」
ここは、足を踏みいれるはずのない場所だった。
二度と訪れないと誓った場所だった。
この場所は、この鍾乳洞は、あの男の住処。
かって九州を牛耳った、八百万の神々が一柱、阿蘇の火龍の住処。
臭いが、鼻に突き刺さる。
あの男の臭い。
記憶が、蘇る。
執拗に弄ばれ、嬲られ、傷をつけられた記憶。
疼く。
背中が、疼く。
「父上……」
父上は、私の身を差し出した。
一度ならず、二度までも。
「や……いや……」
いる。
近くにいる。
あの男が、いる。
「こないで! こないでよ!」
あの男が、まとわりついてくる。あの男の手が、息遣いが、そこかしこに生きている。
「誰か……誰か!?」
死んだのだ。
あの男は、私を汚して、死んだのだ。
なのに、なのに、
「どうして生きてるのよ!」
叫ぶと火羅は、何もない一点を見つめた。
心が、崩れていく。
ゆっくりと、確かに。
夢と現が、交わっていく。
「死んで……死んでよ……」
真紅の妖狼は、龍の屍と、踊った。
踊り、続けた。
身体の自由を奪われて尚、空虚な一人踊りを演じた。
妖達は、もう、いなかった。