あやかし姫~姫と火羅(7)~
「眠れないの?」
「眠れないわ」
「そう……」
身体を起こすと、姫様は、薬箱をがさごそと。
竹の皮の包みを取り出すと、
「あまり、使わない方がいいのですが……」
そう前置きして、包みを開けた。
「これは?」
「眠り薬です」
「ふぅん」
丸薬を一粒口に含むと、
「そっちに行ってもいい?」
そう、火羅は言った。
「ええ、はい」
一つの布団を、二人で共用する。
少女の顔を見ていると、火羅の瞼は次第に重くなってきた。
どうしようもなかった。
平静を装う余裕も失せた。
筆も、書物も、手に付かなかった。
古寺のことは全て太郎と黒之助に任せた。
やったのは火羅の傷の手当だけであった。
「こんな、こんなことって……」
爪を、噛む。
噛みすぎて、ぼろぼろになったそれを、まだ、噛む。噛み続ける。
姫様は憔悴していた。
瞳だけが、異様な光を帯びていた。
「彩花さん……」
火羅が声をかけた。
古寺は、重く、暗く、沈んでいる。真紅の妖狼を責める言葉が発されたことはなかった。
それは、姫様を傷つけることになるからだ。
「彩花さん……」
もう一度声をかけると、姫様が顔を向けた。
「あ……はい、どうしました? もう、薬の換えの時間ですか?」
「それは、さっきしてもらったわ」
「……そう、そうでしたね」
そんなことすらも、わからなくなりつつあって。
考えて、考えて、まとまらない思考がぐるぐると廻って。
時間が、薄れていく。
「少しお話があるの。いいかしら?」
外に、出ましょう。
新鮮な空気を吸って、明るい陽差しを浴びるのも、悪くないわ。
同意し、席を立つ。
太郎が、ついて行こうとし、火羅の視線に押しとどめられた。
ふと腕を見やると、黒之助の腕が絡まっている。
ぐると、唸り声をあげると、妖狼は、背を向けた。
満足そうに頷く火羅を、じっと黒之助は見やった。
「いいわね。こうやって二人で歩くのも悪くないわ」
「ええ」
子狼の姿をした白刃が、二人の先触れ。
小川が、さやと流れていた。
この川で、遊んだ。
真紅の妖狼が、まだ、姫君であったころ。友であった赤髪の従者が、生きていたころ。
遠い、遠い、記憶のように思えた。
この川の主は、まだ、帰ってきては、いない。
「感謝してる」
「……」
立ち止まり、水の流れに目を据えたまま、火羅は、そう、言った。
姫様が、日傘をくるりと回すと、河原に腰を降ろした。
傘を持つ手を見やり、爪がぼろぼろだと思った。
「感謝してる。だから、言うわ」
火羅は、姫様の背後に回ると、背中を預けた。
「もう、いいよ」
「……」
「もう、いいから……大丈夫。私一人でも、きっと何とかなるわ」
「傷も塞がっていないのに?」
「平気よ」
妖は、人よりもずっと傷の治りが早い。
傷が残るのは、よほどの想いが込められているか、傷を癒す力がないか。
火羅は、後者だった。妖気の衰えた火羅の身体は、人とそう大差なかった。
「貴方に診てもらったんだもの。もう、平気。これ以上、迷惑はかけられないし」
「……ふざけるな」
「彩花さん?」
「ふざけるな! そんなこと、できるわけないでしょう!……今、私達の傍を離れたら……死……」
「死なないわよ、多分」
「死ぬ……死んじゃうよ! 嫌だ……もう、私には、残っていないのに。お母さんと呼んだ葉子さんも、姉のように慕ってくれた朱桜ちゃんも、沙羅ちゃんも、鈴鹿御前様も、みんな、繋がりを切ってしまった。これで、火羅さんにまで絶たれるの? 耐えられない……そんなの、耐えられない!」
必死に張っていた緊張の糸が、ついに音を立てた。
繋がりが次々と切れても、なんとか張っていた糸が、切れた。
「いたいよ……傍にいたいよ! でも……貴方の辛い顔を、これ以上見たくないの。一人は、嫌だよ。死にたくないよ。でも、貴方を苦しませるのは、もっともっと嫌だよ」
「嫌……絶対に嫌!」
「わかってよ……」
姫様も、火羅も、泣いていた。
姫様は、火羅のことを想って、泣いた。
火羅は、姫様のことを想って、泣いた。
互いに互いを想い合って、泣いた。
「一人にしないでって言ったのは、火羅さんだよ……私は、守るって約束したんだよ……」
「いいの? それで、いいの? みんなとの繋がりを取り戻すのは、簡単なのよ?」
「辛い……辛いけど、火羅さんを、失いたくない。火羅さんを失って取り戻した繋がりは、もう、同じ繋がりじゃない」
「放してはくれないのね」
「……ええ」
「守って……」
「火羅さん」
「ごめんなさい……怖い、怖い……」
「……守ります」
「黒之丞は、この場所を離れないと、そう言っていました」
「白蝉さんも?」
「はい。黒之丞の傍が、自分の居場所だと」
「ありがとう」
黒之助は、少し活力を取り戻したように見える姫様の容貌に、ほっと胸を撫で下ろした。
すぐに、気を引き締める。
気配が、満ちていた。
古寺には、四人だけ。
小妖達は、月心に預かってもらった。
厭だと言った妖達を、姫様がこんこんと諭した。
泣きながら諭す姫様に、ついに小妖達は折れた。
沙羅から聞いていたのだろう。何も言わず、月心は聞き入れてくれた。
がらんとなった。
つい先日までは、賑わいがあったのに。
不意に様々な妖達が遊びに来る、華やかな場所であったのに。
今は、どうであろう。
主は姿を消し、銀狐は姿を消し、小妖達は姿を消し。
訪れるものはあらず――周囲に漂う、狐の臭い。
「黒之助さん……」
「はっ」
「殺さないで。そして、危なくなったら……逃げても、いいからね」
どんと鴉天狗は錫杖を床に打ち付けた。
姫様が目を丸くし、火羅が怯えたように太郎に視線を向ける。
白狼は、寝そべったまま、耳をぴくりと動かしただけだった。
「姫さん、拙者を見くびられるな。
姫さんを育て、十数年。
拙者は、そのことに、誇りを持ってきました。
天狗になることよりも、ずっと大切なことだと、そう思って参りました。
これからも拙者は、姫さんを守り続ける所存でござる」
「……」
「なぁに、九尾の狐というても、葉子殿のような骨のある奴はおりませぬよ。拙者が一喝すれば、すごと引き返すような奴らばかりでありましょうや。一応、太郎殿もいることですし」
「一応ってなんだよ」
「拙者一人で十分ということだ」
「鴉が一羽いなくなっても、俺がいれば、姫様も火羅も、守れる」
「いなくなってもとは、どう意味だ」
「む……む?」
「相変わらず、頭の切れる御仁だ」
「……馬鹿にしてんだろお前」
「いやぁ」
「狐の前に、まず、お前を血祭りにあげてやる」
「戦力にならぬということを教えて欲しいようだな」
「やめなさい!」
姫様が、一喝した。
くつくつと、黒之助が笑む。
くつくつと、太郎が笑む。
懐かしいと、姫様は思った。こうやって、二人はよく喧嘩した。
笑った。
笑うことも懐かしいと思った。
火羅と顔を合わせ、笑いやった。
夜が来た。
待ち望んだ夜だ。
庭に出た。
皆、うつらうつらしている。
私のしていることは、裏切りなのだろうか。
飲み物に、眠り薬を混ぜたのだから。
でもね、彩花さん。
嬉しかったよ。
本当に、嬉しかったよ。
だから、貴方を、裏切るね。
私を、許さなくていいから。そんなに、悲しまなくていいから。
貴方には笑顔が似合ってるよ。
「どこへ、行く」
「……」
「くっ、くっ、くっ」
そうだった。この女がいたのだ。
彩花と同じ顔をした、この女が。
忘れていた。
忘れてはいけないことなのに。
「狐の臭い……くっ、くっ……夜気に、漲っておるわ」
「……そうなの。私、今、鼻が利かないから」
話が、できる?
あの時の恐怖がない。
悦びは、あった。
「妾はどうすればよかろうや」
女が、首を傾げた。
魔性の色が、薄いと思った。
「何もしなければいいんじゃない?」
これは、よい、機会。
やっと天は、私に味方したのかもしれない。
「そうしたいんじゃが……それは、困る」
「……」
「妾は、そなたが八つ裂きにされようと、一向にかまわぬのじゃが……あの娘が、それを嫌がる」
「……難しいわね」
「難しい、本当に難しい」
純粋に悩んでいるのだろう。
火羅は、可笑しくなった。
これで己の明暗が決まるというのに、その仕草が可愛かったからだ。
「食べるのは、駄目、死なすのは、駄目。だが、このままでは、妾に利益はない。狐を食うことも出来ぬしの」
「そうなの」
狐を殺さないでと、あの子は言った。
それがあの子の苦しい立場を知らしめていた。
「ん……あった」
「何?」
「女じゃが……それはそれで、楽しめよう」
瞳が輝く。綺麗だと思った。
身体を抱き寄せられ、唇を奪われ、地面に横たえられ。
それは、一瞬のことであった。
両腕を片手で押えられ、もう一度、唇が重ねられる。長く、あった。
濡れた瞳、けたと嗤う。
何をしようというのか、すぐに、理解した。
「いや、」
小さな声を出すと、火羅は、身をよじった。
女の身体が、自分の上にある。
小さな身体だ。小柄な身だ。
だが、逃げられない。いや、逃げられないのではない。
自分の身体が、逃げようとしないのだ。
呆然とする火羅を見ながら、楽しげに女は身を揺すると、
「望んでいたのだろう」
首筋に舌を這わせ、軽く噛みついた。
「違う……私は、」
弱々しく呻いた。
悦びが――あった。盪けそうになった。
逃げたくないと思っていた。
「好いたのは、あの狼ではない。お前が好いたのは、この、娘よ。くく……肌を逢わせたかったのだ。閨を共にしたかったのだ」
「そんな……こと……」
頭が、痺れる。
女のあいた手が、胸の前をはだけさせ、傷の残る乳房の上に置かれた。
見ないでと、思った。
醜い傷痕がある身体を、見られたくない。
いつも晒しているのに、今は、そう思ってしまった。
あの子は、本当に綺麗だった。
見ていると、うっとりとしてしまう、ほっそりとした、白く、清い身体。
あの子は私を羨ましがるけれど、そんなことはないのだ。
女は、月の光を浴び、自らも光を発している。
女から顔を背けることができなかった。
悩ましげに息を零すと、火羅の胸に爪を立てる。
自分のものであるという印をつけるように、新たに、小さく赤い傷をつけた。
「お前も、この娘も、繋がりを失い、傷を舐め合っていたではないか。文字通り、舐められもしたではないか。お前の膿を吸ったのは、誰ぞ? それを、密かに悦んでいたのは、誰ぞ?」
「それは……」
「嫌がる素振りを、見せたか? 見せなかったろう?」
女が、紅潮した頬にそっと手を寄せる。
火羅の腕の力が抜けた。女が手をゆっくりと離しても、動きを見せなかった。
女は、火羅の顔に細い指を添わせたまま、空いた手で、火羅の帯をほどき始めた。
「眠れないわ」
「そう……」
身体を起こすと、姫様は、薬箱をがさごそと。
竹の皮の包みを取り出すと、
「あまり、使わない方がいいのですが……」
そう前置きして、包みを開けた。
「これは?」
「眠り薬です」
「ふぅん」
丸薬を一粒口に含むと、
「そっちに行ってもいい?」
そう、火羅は言った。
「ええ、はい」
一つの布団を、二人で共用する。
少女の顔を見ていると、火羅の瞼は次第に重くなってきた。
どうしようもなかった。
平静を装う余裕も失せた。
筆も、書物も、手に付かなかった。
古寺のことは全て太郎と黒之助に任せた。
やったのは火羅の傷の手当だけであった。
「こんな、こんなことって……」
爪を、噛む。
噛みすぎて、ぼろぼろになったそれを、まだ、噛む。噛み続ける。
姫様は憔悴していた。
瞳だけが、異様な光を帯びていた。
「彩花さん……」
火羅が声をかけた。
古寺は、重く、暗く、沈んでいる。真紅の妖狼を責める言葉が発されたことはなかった。
それは、姫様を傷つけることになるからだ。
「彩花さん……」
もう一度声をかけると、姫様が顔を向けた。
「あ……はい、どうしました? もう、薬の換えの時間ですか?」
「それは、さっきしてもらったわ」
「……そう、そうでしたね」
そんなことすらも、わからなくなりつつあって。
考えて、考えて、まとまらない思考がぐるぐると廻って。
時間が、薄れていく。
「少しお話があるの。いいかしら?」
外に、出ましょう。
新鮮な空気を吸って、明るい陽差しを浴びるのも、悪くないわ。
同意し、席を立つ。
太郎が、ついて行こうとし、火羅の視線に押しとどめられた。
ふと腕を見やると、黒之助の腕が絡まっている。
ぐると、唸り声をあげると、妖狼は、背を向けた。
満足そうに頷く火羅を、じっと黒之助は見やった。
「いいわね。こうやって二人で歩くのも悪くないわ」
「ええ」
子狼の姿をした白刃が、二人の先触れ。
小川が、さやと流れていた。
この川で、遊んだ。
真紅の妖狼が、まだ、姫君であったころ。友であった赤髪の従者が、生きていたころ。
遠い、遠い、記憶のように思えた。
この川の主は、まだ、帰ってきては、いない。
「感謝してる」
「……」
立ち止まり、水の流れに目を据えたまま、火羅は、そう、言った。
姫様が、日傘をくるりと回すと、河原に腰を降ろした。
傘を持つ手を見やり、爪がぼろぼろだと思った。
「感謝してる。だから、言うわ」
火羅は、姫様の背後に回ると、背中を預けた。
「もう、いいよ」
「……」
「もう、いいから……大丈夫。私一人でも、きっと何とかなるわ」
「傷も塞がっていないのに?」
「平気よ」
妖は、人よりもずっと傷の治りが早い。
傷が残るのは、よほどの想いが込められているか、傷を癒す力がないか。
火羅は、後者だった。妖気の衰えた火羅の身体は、人とそう大差なかった。
「貴方に診てもらったんだもの。もう、平気。これ以上、迷惑はかけられないし」
「……ふざけるな」
「彩花さん?」
「ふざけるな! そんなこと、できるわけないでしょう!……今、私達の傍を離れたら……死……」
「死なないわよ、多分」
「死ぬ……死んじゃうよ! 嫌だ……もう、私には、残っていないのに。お母さんと呼んだ葉子さんも、姉のように慕ってくれた朱桜ちゃんも、沙羅ちゃんも、鈴鹿御前様も、みんな、繋がりを切ってしまった。これで、火羅さんにまで絶たれるの? 耐えられない……そんなの、耐えられない!」
必死に張っていた緊張の糸が、ついに音を立てた。
繋がりが次々と切れても、なんとか張っていた糸が、切れた。
「いたいよ……傍にいたいよ! でも……貴方の辛い顔を、これ以上見たくないの。一人は、嫌だよ。死にたくないよ。でも、貴方を苦しませるのは、もっともっと嫌だよ」
「嫌……絶対に嫌!」
「わかってよ……」
姫様も、火羅も、泣いていた。
姫様は、火羅のことを想って、泣いた。
火羅は、姫様のことを想って、泣いた。
互いに互いを想い合って、泣いた。
「一人にしないでって言ったのは、火羅さんだよ……私は、守るって約束したんだよ……」
「いいの? それで、いいの? みんなとの繋がりを取り戻すのは、簡単なのよ?」
「辛い……辛いけど、火羅さんを、失いたくない。火羅さんを失って取り戻した繋がりは、もう、同じ繋がりじゃない」
「放してはくれないのね」
「……ええ」
「守って……」
「火羅さん」
「ごめんなさい……怖い、怖い……」
「……守ります」
「黒之丞は、この場所を離れないと、そう言っていました」
「白蝉さんも?」
「はい。黒之丞の傍が、自分の居場所だと」
「ありがとう」
黒之助は、少し活力を取り戻したように見える姫様の容貌に、ほっと胸を撫で下ろした。
すぐに、気を引き締める。
気配が、満ちていた。
古寺には、四人だけ。
小妖達は、月心に預かってもらった。
厭だと言った妖達を、姫様がこんこんと諭した。
泣きながら諭す姫様に、ついに小妖達は折れた。
沙羅から聞いていたのだろう。何も言わず、月心は聞き入れてくれた。
がらんとなった。
つい先日までは、賑わいがあったのに。
不意に様々な妖達が遊びに来る、華やかな場所であったのに。
今は、どうであろう。
主は姿を消し、銀狐は姿を消し、小妖達は姿を消し。
訪れるものはあらず――周囲に漂う、狐の臭い。
「黒之助さん……」
「はっ」
「殺さないで。そして、危なくなったら……逃げても、いいからね」
どんと鴉天狗は錫杖を床に打ち付けた。
姫様が目を丸くし、火羅が怯えたように太郎に視線を向ける。
白狼は、寝そべったまま、耳をぴくりと動かしただけだった。
「姫さん、拙者を見くびられるな。
姫さんを育て、十数年。
拙者は、そのことに、誇りを持ってきました。
天狗になることよりも、ずっと大切なことだと、そう思って参りました。
これからも拙者は、姫さんを守り続ける所存でござる」
「……」
「なぁに、九尾の狐というても、葉子殿のような骨のある奴はおりませぬよ。拙者が一喝すれば、すごと引き返すような奴らばかりでありましょうや。一応、太郎殿もいることですし」
「一応ってなんだよ」
「拙者一人で十分ということだ」
「鴉が一羽いなくなっても、俺がいれば、姫様も火羅も、守れる」
「いなくなってもとは、どう意味だ」
「む……む?」
「相変わらず、頭の切れる御仁だ」
「……馬鹿にしてんだろお前」
「いやぁ」
「狐の前に、まず、お前を血祭りにあげてやる」
「戦力にならぬということを教えて欲しいようだな」
「やめなさい!」
姫様が、一喝した。
くつくつと、黒之助が笑む。
くつくつと、太郎が笑む。
懐かしいと、姫様は思った。こうやって、二人はよく喧嘩した。
笑った。
笑うことも懐かしいと思った。
火羅と顔を合わせ、笑いやった。
夜が来た。
待ち望んだ夜だ。
庭に出た。
皆、うつらうつらしている。
私のしていることは、裏切りなのだろうか。
飲み物に、眠り薬を混ぜたのだから。
でもね、彩花さん。
嬉しかったよ。
本当に、嬉しかったよ。
だから、貴方を、裏切るね。
私を、許さなくていいから。そんなに、悲しまなくていいから。
貴方には笑顔が似合ってるよ。
「どこへ、行く」
「……」
「くっ、くっ、くっ」
そうだった。この女がいたのだ。
彩花と同じ顔をした、この女が。
忘れていた。
忘れてはいけないことなのに。
「狐の臭い……くっ、くっ……夜気に、漲っておるわ」
「……そうなの。私、今、鼻が利かないから」
話が、できる?
あの時の恐怖がない。
悦びは、あった。
「妾はどうすればよかろうや」
女が、首を傾げた。
魔性の色が、薄いと思った。
「何もしなければいいんじゃない?」
これは、よい、機会。
やっと天は、私に味方したのかもしれない。
「そうしたいんじゃが……それは、困る」
「……」
「妾は、そなたが八つ裂きにされようと、一向にかまわぬのじゃが……あの娘が、それを嫌がる」
「……難しいわね」
「難しい、本当に難しい」
純粋に悩んでいるのだろう。
火羅は、可笑しくなった。
これで己の明暗が決まるというのに、その仕草が可愛かったからだ。
「食べるのは、駄目、死なすのは、駄目。だが、このままでは、妾に利益はない。狐を食うことも出来ぬしの」
「そうなの」
狐を殺さないでと、あの子は言った。
それがあの子の苦しい立場を知らしめていた。
「ん……あった」
「何?」
「女じゃが……それはそれで、楽しめよう」
瞳が輝く。綺麗だと思った。
身体を抱き寄せられ、唇を奪われ、地面に横たえられ。
それは、一瞬のことであった。
両腕を片手で押えられ、もう一度、唇が重ねられる。長く、あった。
濡れた瞳、けたと嗤う。
何をしようというのか、すぐに、理解した。
「いや、」
小さな声を出すと、火羅は、身をよじった。
女の身体が、自分の上にある。
小さな身体だ。小柄な身だ。
だが、逃げられない。いや、逃げられないのではない。
自分の身体が、逃げようとしないのだ。
呆然とする火羅を見ながら、楽しげに女は身を揺すると、
「望んでいたのだろう」
首筋に舌を這わせ、軽く噛みついた。
「違う……私は、」
弱々しく呻いた。
悦びが――あった。盪けそうになった。
逃げたくないと思っていた。
「好いたのは、あの狼ではない。お前が好いたのは、この、娘よ。くく……肌を逢わせたかったのだ。閨を共にしたかったのだ」
「そんな……こと……」
頭が、痺れる。
女のあいた手が、胸の前をはだけさせ、傷の残る乳房の上に置かれた。
見ないでと、思った。
醜い傷痕がある身体を、見られたくない。
いつも晒しているのに、今は、そう思ってしまった。
あの子は、本当に綺麗だった。
見ていると、うっとりとしてしまう、ほっそりとした、白く、清い身体。
あの子は私を羨ましがるけれど、そんなことはないのだ。
女は、月の光を浴び、自らも光を発している。
女から顔を背けることができなかった。
悩ましげに息を零すと、火羅の胸に爪を立てる。
自分のものであるという印をつけるように、新たに、小さく赤い傷をつけた。
「お前も、この娘も、繋がりを失い、傷を舐め合っていたではないか。文字通り、舐められもしたではないか。お前の膿を吸ったのは、誰ぞ? それを、密かに悦んでいたのは、誰ぞ?」
「それは……」
「嫌がる素振りを、見せたか? 見せなかったろう?」
女が、紅潮した頬にそっと手を寄せる。
火羅の腕の力が抜けた。女が手をゆっくりと離しても、動きを見せなかった。
女は、火羅の顔に細い指を添わせたまま、空いた手で、火羅の帯をほどき始めた。