小説置き場2

山岳に寺社仏閣に両生類に爬虫類に妖怪に三国志にetcetc

あやかし姫~姫と火羅(7)~

「眠れないの?」
「眠れないわ」
「そう……」
 身体を起こすと、姫様は、薬箱をがさごそと。
 竹の皮の包みを取り出すと、
「あまり、使わない方がいいのですが……」
 そう前置きして、包みを開けた。
「これは?」
「眠り薬です」
「ふぅん」
 丸薬を一粒口に含むと、
「そっちに行ってもいい?」
 そう、火羅は言った。
「ええ、はい」
 一つの布団を、二人で共用する。
 少女の顔を見ていると、火羅の瞼は次第に重くなってきた。




 どうしようもなかった。
 平静を装う余裕も失せた。
 筆も、書物も、手に付かなかった。
 古寺のことは全て太郎と黒之助に任せた。
 やったのは火羅の傷の手当だけであった。
「こんな、こんなことって……」
 爪を、噛む。
 噛みすぎて、ぼろぼろになったそれを、まだ、噛む。噛み続ける。
 姫様は憔悴していた。
 瞳だけが、異様な光を帯びていた。
「彩花さん……」
 火羅が声をかけた。
 古寺は、重く、暗く、沈んでいる。真紅の妖狼を責める言葉が発されたことはなかった。
 それは、姫様を傷つけることになるからだ。
「彩花さん……」
 もう一度声をかけると、姫様が顔を向けた。
「あ……はい、どうしました? もう、薬の換えの時間ですか?」
「それは、さっきしてもらったわ」
「……そう、そうでしたね」
 そんなことすらも、わからなくなりつつあって。
 考えて、考えて、まとまらない思考がぐるぐると廻って。
 時間が、薄れていく。
「少しお話があるの。いいかしら?」
 外に、出ましょう。
 新鮮な空気を吸って、明るい陽差しを浴びるのも、悪くないわ。
 同意し、席を立つ。
 太郎が、ついて行こうとし、火羅の視線に押しとどめられた。
 ふと腕を見やると、黒之助の腕が絡まっている。
 ぐると、唸り声をあげると、妖狼は、背を向けた。
 満足そうに頷く火羅を、じっと黒之助は見やった。



「いいわね。こうやって二人で歩くのも悪くないわ」
「ええ」
 子狼の姿をした白刃が、二人の先触れ。
 小川が、さやと流れていた。
 この川で、遊んだ。
 真紅の妖狼が、まだ、姫君であったころ。友であった赤髪の従者が、生きていたころ。
 遠い、遠い、記憶のように思えた。
 この川の主は、まだ、帰ってきては、いない。
「感謝してる」
「……」
 立ち止まり、水の流れに目を据えたまま、火羅は、そう、言った。
 姫様が、日傘をくるりと回すと、河原に腰を降ろした。
 傘を持つ手を見やり、爪がぼろぼろだと思った。
「感謝してる。だから、言うわ」
 火羅は、姫様の背後に回ると、背中を預けた。
「もう、いいよ」
「……」
「もう、いいから……大丈夫。私一人でも、きっと何とかなるわ」
「傷も塞がっていないのに?」
「平気よ」
 妖は、人よりもずっと傷の治りが早い。
 傷が残るのは、よほどの想いが込められているか、傷を癒す力がないか。
 火羅は、後者だった。妖気の衰えた火羅の身体は、人とそう大差なかった。
「貴方に診てもらったんだもの。もう、平気。これ以上、迷惑はかけられないし」
「……ふざけるな」
「彩花さん?」
「ふざけるな! そんなこと、できるわけないでしょう!……今、私達の傍を離れたら……死……」
「死なないわよ、多分」
「死ぬ……死んじゃうよ! 嫌だ……もう、私には、残っていないのに。お母さんと呼んだ葉子さんも、姉のように慕ってくれた朱桜ちゃんも、沙羅ちゃんも、鈴鹿御前様も、みんな、繋がりを切ってしまった。これで、火羅さんにまで絶たれるの? 耐えられない……そんなの、耐えられない!」
 必死に張っていた緊張の糸が、ついに音を立てた。
 繋がりが次々と切れても、なんとか張っていた糸が、切れた。
「いたいよ……傍にいたいよ! でも……貴方の辛い顔を、これ以上見たくないの。一人は、嫌だよ。死にたくないよ。でも、貴方を苦しませるのは、もっともっと嫌だよ」
「嫌……絶対に嫌!」
「わかってよ……」
 姫様も、火羅も、泣いていた。
 姫様は、火羅のことを想って、泣いた。
 火羅は、姫様のことを想って、泣いた。
 互いに互いを想い合って、泣いた。
「一人にしないでって言ったのは、火羅さんだよ……私は、守るって約束したんだよ……」
「いいの? それで、いいの? みんなとの繋がりを取り戻すのは、簡単なのよ?」
「辛い……辛いけど、火羅さんを、失いたくない。火羅さんを失って取り戻した繋がりは、もう、同じ繋がりじゃない」
「放してはくれないのね」
「……ええ」
「守って……」
「火羅さん」
「ごめんなさい……怖い、怖い……」
「……守ります」
     


「黒之丞は、この場所を離れないと、そう言っていました」
「白蝉さんも?」
「はい。黒之丞の傍が、自分の居場所だと」
「ありがとう」
 黒之助は、少し活力を取り戻したように見える姫様の容貌に、ほっと胸を撫で下ろした。
 すぐに、気を引き締める。
 気配が、満ちていた。
 古寺には、四人だけ。
 小妖達は、月心に預かってもらった。
 厭だと言った妖達を、姫様がこんこんと諭した。
 泣きながら諭す姫様に、ついに小妖達は折れた。
 沙羅から聞いていたのだろう。何も言わず、月心は聞き入れてくれた。
 がらんとなった。
 つい先日までは、賑わいがあったのに。
 不意に様々な妖達が遊びに来る、華やかな場所であったのに。
 今は、どうであろう。
 主は姿を消し、銀狐は姿を消し、小妖達は姿を消し。
 訪れるものはあらず――周囲に漂う、狐の臭い。
「黒之助さん……」
「はっ」
「殺さないで。そして、危なくなったら……逃げても、いいからね」
 どんと鴉天狗は錫杖を床に打ち付けた。
 姫様が目を丸くし、火羅が怯えたように太郎に視線を向ける。
 白狼は、寝そべったまま、耳をぴくりと動かしただけだった。
「姫さん、拙者を見くびられるな。
 姫さんを育て、十数年。
 拙者は、そのことに、誇りを持ってきました。
 天狗になることよりも、ずっと大切なことだと、そう思って参りました。
 これからも拙者は、姫さんを守り続ける所存でござる」
「……」
「なぁに、九尾の狐というても、葉子殿のような骨のある奴はおりませぬよ。拙者が一喝すれば、すごと引き返すような奴らばかりでありましょうや。一応、太郎殿もいることですし」 
「一応ってなんだよ」
「拙者一人で十分ということだ」
「鴉が一羽いなくなっても、俺がいれば、姫様も火羅も、守れる」
「いなくなってもとは、どう意味だ」
「む……む?」
「相変わらず、頭の切れる御仁だ」
「……馬鹿にしてんだろお前」
「いやぁ」
「狐の前に、まず、お前を血祭りにあげてやる」
「戦力にならぬということを教えて欲しいようだな」
「やめなさい!」
 姫様が、一喝した。
 くつくつと、黒之助が笑む。
 くつくつと、太郎が笑む。
 懐かしいと、姫様は思った。こうやって、二人はよく喧嘩した。
 笑った。
 笑うことも懐かしいと思った。
 火羅と顔を合わせ、笑いやった。



 夜が来た。
 待ち望んだ夜だ。
 庭に出た。
 皆、うつらうつらしている。
 私のしていることは、裏切りなのだろうか。
 飲み物に、眠り薬を混ぜたのだから。
 でもね、彩花さん。
 嬉しかったよ。
 本当に、嬉しかったよ。
 だから、貴方を、裏切るね。
 私を、許さなくていいから。そんなに、悲しまなくていいから。
 貴方には笑顔が似合ってるよ。
「どこへ、行く」
「……」
「くっ、くっ、くっ」
 そうだった。この女がいたのだ。
 彩花と同じ顔をした、この女が。
 忘れていた。
 忘れてはいけないことなのに。
「狐の臭い……くっ、くっ……夜気に、漲っておるわ」
「……そうなの。私、今、鼻が利かないから」
 話が、できる? 
 あの時の恐怖がない。
 悦びは、あった。
「妾はどうすればよかろうや」
 女が、首を傾げた。
 魔性の色が、薄いと思った。
「何もしなければいいんじゃない?」
 これは、よい、機会。
 やっと天は、私に味方したのかもしれない。
「そうしたいんじゃが……それは、困る」
「……」
「妾は、そなたが八つ裂きにされようと、一向にかまわぬのじゃが……あの娘が、それを嫌がる」
「……難しいわね」
「難しい、本当に難しい」
 純粋に悩んでいるのだろう。
 火羅は、可笑しくなった。
 これで己の明暗が決まるというのに、その仕草が可愛かったからだ。
「食べるのは、駄目、死なすのは、駄目。だが、このままでは、妾に利益はない。狐を食うことも出来ぬしの」
「そうなの」
 狐を殺さないでと、あの子は言った。
 それがあの子の苦しい立場を知らしめていた。
「ん……あった」
「何?」
「女じゃが……それはそれで、楽しめよう」
 瞳が輝く。綺麗だと思った。
 身体を抱き寄せられ、唇を奪われ、地面に横たえられ。
 それは、一瞬のことであった。
 両腕を片手で押えられ、もう一度、唇が重ねられる。長く、あった。
 濡れた瞳、けたと嗤う。
 何をしようというのか、すぐに、理解した。
「いや、」
 小さな声を出すと、火羅は、身をよじった。
 女の身体が、自分の上にある。
 小さな身体だ。小柄な身だ。
 だが、逃げられない。いや、逃げられないのではない。
 自分の身体が、逃げようとしないのだ。
 呆然とする火羅を見ながら、楽しげに女は身を揺すると、
「望んでいたのだろう」
 首筋に舌を這わせ、軽く噛みついた。
「違う……私は、」
 弱々しく呻いた。
 悦びが――あった。盪けそうになった。
 逃げたくないと思っていた。
「好いたのは、あの狼ではない。お前が好いたのは、この、娘よ。くく……肌を逢わせたかったのだ。閨を共にしたかったのだ」
「そんな……こと……」
 頭が、痺れる。
 女のあいた手が、胸の前をはだけさせ、傷の残る乳房の上に置かれた。
 見ないでと、思った。
 醜い傷痕がある身体を、見られたくない。
 いつも晒しているのに、今は、そう思ってしまった。
 あの子は、本当に綺麗だった。
 見ていると、うっとりとしてしまう、ほっそりとした、白く、清い身体。
 あの子は私を羨ましがるけれど、そんなことはないのだ。
 女は、月の光を浴び、自らも光を発している。
 女から顔を背けることができなかった。
 悩ましげに息を零すと、火羅の胸に爪を立てる。
 自分のものであるという印をつけるように、新たに、小さく赤い傷をつけた。
「お前も、この娘も、繋がりを失い、傷を舐め合っていたではないか。文字通り、舐められもしたではないか。お前の膿を吸ったのは、誰ぞ? それを、密かに悦んでいたのは、誰ぞ?」
「それは……」
「嫌がる素振りを、見せたか? 見せなかったろう?」
 女が、紅潮した頬にそっと手を寄せる。
 火羅の腕の力が抜けた。女が手をゆっくりと離しても、動きを見せなかった。
 女は、火羅の顔に細い指を添わせたまま、空いた手で、火羅の帯をほどき始めた。