小説置き場2

山岳に寺社仏閣に両生類に爬虫類に妖怪に三国志にetcetc

あやかし姫~姫と火羅(8)~

 森の中の、小さな庵。
 化け蜘蛛が一匹、琵琶弾きが一人。
「狐か……」
 そう、呟いた。
 白蝉は、琵琶を奏で続けている。
 優雅な音が、暗い庵から静かな森に流れていく。
 黒之丞は、琵琶の音を聞きながら、友である黒之助の言葉を思い出していた。
 狐が、多くなった。
 こちらへの敵意を見せなかったので、放っておいた。
 どうせ黒之助達が関与しているのだろうと思ったのだ。
 案の定であった。
 ただ、想像を超えていた。玉藻御前の名を聞くことになるとは、思ってもいなかった。
 黒之助は、ここを退いた方がいいと言った。
 争いに巻き込まれるやもしれぬと。
 断った。
 逃げるのは、性に合わない。
 白蝉は、傍にいると言った。そうするだろうなと思っていたので、止めはしなかった。
 行くところもなかった。
 古寺の娘の友人である、妖狼の娘。
 玉藻御前に差し出せば、全てが解決する。
 黒之助は、絶対にしないだろうと、少し嬉しそうに言った。
 黒之丞も、相手が誰であれ、そのようなことはしない。
 もし、白蝉を差し出せと言われ、その先に死しかないのなら――大妖だろうが何だろうが、喰い殺してやる。
「葉子さんは、元気にしているのでしょうか」
 白蝉が、言った。
「さあな」
 そう、首を振った。時折、琵琶を習いに顔を出していた銀狐は、彩花と一族の間で板挟みになり、ついに姿を消してしまったという。
 その少し前に、羽矢風の命が狛犬を連れて出雲へ向かっている。
 神無月でもないのに、一介の土地神である羽矢風が出かけるのは妙なことであった。
 理由を尋ねても、教えてはくれなかった。緊張と怯えと恐れのないまぜになった顔をしていた。 
「!」
 腰を半ば上げ、黒之丞がすくっと身構えた。
 白蝉の琵琶を弾く手が止まる。
 化け蜘蛛に冷や汗が浮かんだ。
 見られていた。肌で感じる。
 庵の外に、何かいた。
 大きな、大きな、何かだ。
 自分が怯えていることに、黒之丞は気がついた。
「よい、琵琶の音であった」
 女の声が聞こえてきた。
「懐かしい、琵琶の音であった」
 女は、溜息混じりに、そう、言った。
「その琵琶の名を、知っているか?」
 女が、問う。
 白蝉が、琵琶を抱えながら、不安げに黒之丞を見やる。その視線に注意を向けることもできず、ただただ固まっている。
「知らぬか?」
 女が、また、問う。返事をしようとした白蝉の口を押さえるのが、やっとであった。
「琵琶の名は、黒踊玉音。海の向こうの、狐の住まう山で、ある女が大事にしていた琵琶よ」
「……」
「よき弾き手に恵まれ、大切にされ、私は嬉しい。礼を言おう」
 気配が消える。
 黒之丞が、腰を落とした。
「……何だか、哀しい声でありました」
 我に返ったように、ほっと息を吸うと、白蝉が言った。
「この琵琶に、縁のある方なのでしょうか」
「……許せぬ」
 黒之丞の身体が、震えていた。
「黒之丞さん?」
「許せぬ……」
 憤怒が、駆け巡る。
 今のは、怯えだ。ただ、庵の前に立たれただけで、自分は怯え、動けなくなっていた。
 情けない。もし、襲われていたら……何も出来ず、殺されていたろう。
 情けない、情けない。
 情けない自分を、許せない。
「少し、出かける」
 そう言った黒之丞の手を、
「……早く帰ってきてくださいね」
 白蝉が握り締めた。
 ああと頷く。
 外に出ると、大きく息を吸う。
 口から吐いた糸で、庵を絡め取る。
 玉藻御前が出てきたということは、黒之助の方はかなり切羽詰まっているということなのだろう。
「羽矢風がいればな……」
 よく、他愛ない諍いを起こし、白蝉に窘められた。
 あれで、それなりに力はあるし、狛犬は番犬に使えるし、白蝉を慰めることも出来る。
 自分の手を見る。
 白蝉は、心細さを隠して自分を送り出した。
「俺には、やはり勿体ない女だ」
 森を駆ける。
「本当に、な」



「お前は、追われ、ここに匿われ、幸せだったのだろう? 弱い自分をさらけ出し、好いた女に守ってもらってなぁ」
 嗤いながら、紅い髪を女がさらりと撫でやる。帯が、ほどけた。土の上に落ちた。
 赤子のようにされるがままであった。だらりと両腕を頭の上に投げ出し、半裸の躯を隠そうともせず、惚けたように女を見ていた。
 女の細い指先が、
 髪から、
 また頬へ、
 首筋へ、
 胸へ、
 腹へと、傷口にかかりながらつたうと、ぞくりと、背中を抜けるものがあった。
 火羅の少し痩せた身体には、無数の傷痕が残っている。
 古いものも、新しいものもある。
 それらを女の指が這うと、微かな痛みと大きな興奮が沸いた。
 女は、鼻を近づけ、妖狼がするようにくんと臭いを嗅いだ。
「いいなぁ、この臭い。かぐわしい腐臭。
 まるで拷問よ。これほどの馳走を目の前にしておるというのに。
 魂も、肉も、ほどよい死臭がしておるのに。
 ああ、食べたい、喰らいたい。
 生きたまま、齧りつきたいものよ」
 食べられるか――
 それもいいかもしれないと、ぼぉっと火羅は考えた。熱に浮かされているような高揚感に包まれていた。
 あの子の血肉になるのもいい。ずっと一緒にいられるもの。
「可愛がってやろう。お前の望むままに。それとも、嬲られた方がよいか? くつ、くつ……よい遊びに、なろう」
「遊、び?」
 女が遊びと言った瞬間、火羅の思考を包んでいた霧が、さぁっと引いていった。
 以前、同じことを言った男がいたのだ。
 同じことを言って、自分を生き地獄に落とした男が。
「そう……妾と遊んでたもれ」
 艶めかしく嗤ってから、女は火羅の様子が違っていることに気づき、首を傾げた。
「い、いや!」
 火羅の髪が、ごうと、炎に転じた。
 女は手を放し、身を翻すと、じっと暗い眼差しで、火羅を見やった。
 そして、意外そうな表情を浮かべると、また首を傾げた。
「楽しませてやるぞ? それは、お前の望みではないのか?」
「そうね……そうなのかもね」
 着物をただす。肌を、隠す。
 乱れた衣は、簡単には直らないが、何とか形にしようとした。
 帯――燃え落ちていた。手で押さえるしかなかった。
 身に着けているものは全て、彩花のものだった。
 ああでもないこうでもないと、二人で選んだのだ。
「私は……太郎様を、好きではないもの。ふりをしているだけだもの」
 くつ、くつ、くつ――
「好きになれないのよ、男の人が。
 私は、あの日から……そう、そうなのよ。ずっと好きになれなかったわ。
 あの子が、好きなんだ。
 私のために必死になってくれる、あの子が。
 でも、あの子にはいるから、大切な人が。傍に、いるから」
 膝に力が入らなかった。
 何を言っているのだろうと思った。友達じゃなかったのだろうか。
「なぁ……悔しくはないか?」
 女が身を寄せてくる。
 背後から、抱きすくめられる。
 耳を甘く囓られる。女の息が耳をくすぐる。
 身体が、震えた。
「……私の立ち入る間はないわ」
 火照りは、ずっと生じていた。必死に押さえつけようとした。
 これは、あの子じゃない。
 だから、言える。
 あの子には、言えない。
「そうかよ」
「それに、もう、遊ばれたくないの」
 女がその言葉を発さなければ、どこまでも堕ちていけただろう。
 逆らう術を持っていなかったのだ。
「ちぇ……そういえば、そうであったな」
 つまらなそうに言うと、女が身体を離そうとした。
 振り返り、身体の前が露わになるのも厭わず、女の顔を両の手で挟む。きょとんとした顔を真っ直ぐ見据えると、火羅の方から口づけをした。
 これで、二度目だった。自分からするのは。
 吸ってやる。吸い返してくる。舌が触れあう。一度目よりもずっと長い。
 唇を離す。
 つぅっと、涎が二人の唇を繋いだ。
 火羅が恥じらうように微笑むと、女は唇の両端をにたりと吊り上げた。
 白い糸が切れた。
「面白い」
「そうかしら」
 手を離したがために乱れた衣を、また押さえる。
「ああ、ああ。欲しいがの……」
「私は……やっぱり、駄目なのよ」
 女に身体を預けたい。
 女が望むなら、踏みにじられてもいい。あの時、従うと言った。何でもすると言った。
 自分の想いに気づくべきだった。憎悪は、深く転じていたのだ。
 でも、それは……駄目だよ。
 似合いの人が、ちゃんといるもの。
「……無粋な」
 女が、ふと宙を見上げた。火羅も、宙を見上げた。
 緑色の光が、激しく流れていた。
 結界の光だ。
「何? 何なの?」
「ふん、こんなことが出来るのは、限られておるわ」
 結界が、消える。
 女が一人、入ってきた。
 髪も衣も乱れている火羅に冷たい視線を送ると、
「なんの艶事かしらね?」
 そう、言った。
 口調に、静かな怒りが満ちている。火羅は、立ち竦んだ。
「さあて。覗き見とは趣味の悪い」
 姫様の姿をした女が、火羅を庇うように立ち位置を変えながら答えた。
「まぁ、いいけどね。私は、あんたに死んでほしいだけだし」
 玉藻御前は厳かに宣言する。
 九つの尾が、金色に、銀色に、光り輝いた。