あやかし姫~妖狼、暮らし始め~
「姫様……焦げ臭い」
「うん」
「姫さん、煙が」
「う、うん」
「ひ、姫様、大丈夫さよ!?」
「……けほけほ、うん、一応」
黒煙が、もくもくと部屋いっぱいに、立ちこめていた。
焦げの臭いだけではなく、何とも言い表しにくい臭いが鼻を刺す。
姫様は、口元を着物の袖で覆うと、涙目になりながら廊下に出た。
耐え切れぬと獣姿の妖狼が鼻を押さえながら庭に出て、鳥の姿をとった鴉天狗は同じ色である黒煙に紛れ、半人半妖の妖狐は呆れた表情を浮かべていた。
「これは……」
あむと息を止め、頭を低くしながら葉子も庭に出た。
太郎がぜーはーぜーはーと舌を出し入れしている。
悶え苦しみ転がった後が、白い身体に付く草や土の汚れとして証となっていた。
白髪を陽に照らしながら、葉子は目を赤くした黒之助に話しかけた。
「ええっと……姫様、あの子、料理上手だって言ったよね」
「言った。言ったが……何だこれは? 何を作っているのだあの御仁は」
「なぁなぁ、葉子。俺の鼻見てくんない?」
「あい?……って、太郎、鼻腫れてるよ!?」
妖狼は鼻が効く。それが災いした。
「むぅ、痛々しいな」
つんと羽の先でつついてみる。
ぎゃあ! と一鳴きすると、妖狼は跳び上がった。
「馬鹿! 痛いんだから触るんじゃねぇよ!」
「ふぅむ……あい済まぬ」
涙をぽろぽろ流しながら黒之助が言う。
お互いに様にならぬ格好で、それ以上言い争いは続かなかった。
「ひ、火羅さん!」
「あ、待って! も、もう少しで料理出来るか、いったぁ!」
何かにぶつかる音がして、何かが崩れる音がした。
煙は閉じられた戸の隙間から、漏れ続けている。開けたくないなと思った。
姫様は、意を決して、台所の戸を開けた。
もわと煙が溢れ、もろに受け、こほんこほんと咳き込む。
足下に注意しながら、じりじりと渦中の人物に近づいた。
「だ、大丈夫ですか?」
「し、心配しなくても、私は、あう!?」
ごつんという音。
料理にはあまりふさわしくない。姫様は狼狽えた。
「も、もういいですから! 火羅さん、一旦手を止めて下さい!」
「やるって決めたの! 貴方の指図は受けないわ! あ、あら? あらら?」
「……」
水を浴びる。
桶いっぱいのぬるーい水を浴びせられた。
姫様が。
髪が、衣が、白い肌に貼り付く。ゆったりした衣で隠れていた細身の線が露わになる。
かぽんと、回転していた桶が動きを止めた。
「えっと、これは……その、ね、えっとね」
煙の向こうで人影があたふたと。
掌を向けると、煙が掻き分けられ、いつものように着物を着崩し肩を晒している火羅の姿が表れた。
姫様は、うふふと笑うと、
「手を止めなさい」
有無を言わせぬ口調で申し渡した。
火羅は、しょんぼりと尻尾をうなだらせながら、
「はい」
と返事した。額が赤くなり、少し腫れていた。
食事。
姫様の食事。古寺で唯一食事を取らなければならないのが姫様だった。妖は食べなくても生きていけるが、姫様は違う。
三妖と姫様でゆるやかーな料理当番を廻していたのだが、その輪が崩れた。
葉子が抜けたのだ。
片腕を無くした葉子の代わりにと張り切ったのが、古寺の新たな住人である火羅だった。
任せなさいと胸を叩いたときの顔は、過剰なほどの自信に充ち満ちていた。
料理の腕は、以前、お手製弁当を一緒に食べた姫様が、とても美味しいと舌鼓を打つほど。
しかし、ここに来てから、火羅が料理を作ったことはなかった。火を起こしたり、食器を並べたり洗ったりすることはあったが。
少々、姫様は危惧していた。手つきがどうも危なっかしいのだ。
太郎や黒之助は、姫様が美味しかったと言っていたし、自分で出来るって言うんだから大丈夫だろうとのんきに構えていた。
葉子は、すまないさよと姫様に謝るだけだ。
だが……現実は想像を遥かに越えていた。
「この惨状……」
大荒れである。
まるで台所だけを竜巻が襲ったような。
姫様は、顔中を煤だらけにしながら顔を覗かせた小妖達に、
「ほうきとちりとりを」
そう、言った。
それから、火羅の手首を掴むと、目の高さまで持ち上げ、
「とりあえず、治療しましょうか」
切り傷擦り傷でいっぱいの手を見やった。
「い、いらないわよ! このぐらい、平気だもの!」
「てい」
触る。
髪の先から水滴がしずしずと落ちた。
「……いったぁ」
強がりを言うものの、姫様に触れられると、途端、妖狼は顔をしかめた。
火羅と葉子は、妖としての力をかなり失っている。
太郎や黒之助ならあっという間に塞がる傷も、二人は遅々として治らない。
今も、しかりだ。
「はい、行きますよー」
「こ、このぐらい……」
くすんくすんと鼻を鳴らしながら引っ張られていく。よくよく見やると、額だけでなく、鼻の頭も赤くなっている。
真紅の妖狼の姫君の面影は、どこにもなかった。
「初めてここでする料理だから、張り切って、頑張って……そうしたら、あんな風になって」
「はぁ」
「べ、別に悪気はないのよ。いつもあんな感じだったし……貴方が止めるのが早過ぎるのよ!」
「はぁ」
「そうよ! これから美味しくなるはずだったのに! 馬鹿! 馬鹿馬鹿!」
「ああ、動かないの!」
「はい」
「ねぇ、火羅さん。あの時のお弁当、本当に火羅さんが」
「し、失礼な! 私を疑っているの! 私があの時どれだけ苦労を重ねたか……あのお弁当は、ちゃんと自分で作ったわ!」
「そうですか」
「嬉しそうだな、葉子」
「ねぇ」
にんまりと笑いながら、葉子は、火羅の手に治療を施す姫様を見ていた。
二人の会話が流れてくる。
白尾がわさわさと揺れていた。
「あの二人、なかなかいい感じだと思わない? 姉妹……そう、姉妹みたいでさぁ」
「姉妹か……」
太郎も、白尾をわさわさ振った。
「火羅殿が姉だと?」
台所の片付けを終えた黒之助が、お盆を持って戻ってきた。
お盆の上にはおにぎりと漬け物。
火羅が作っていた物は、食べられる物とは思えなかったので、とりあえず肥料ぐらいにはなろうと庭に埋められた。
「違う違う。火羅は妹さよ」
「おいおい、火羅は、俺と歳が近いんだぞ。がきの時に会ったことがあるらしいし」
「やっぱり妹さよ。姫様は、うーんと太郎よりも大人だし」
「……」
反論出来ない。本当にしっかりした人なのだ。
「一応、太郎殿も育ての親なのだ。しっかりして欲しいものだな」
「うっせぇなぁ」
「にしても、どうするのだこれから。あんな光景を見たら、朱桜殿がまたへそを曲げるぞ」
「……朱桜ちゃんは、姫様のこと慕っているもんね」
きらきらとした尊敬の眼差しは、時として拒絶の意を示す。
火羅――その名を、鬼の娘は嫌っていた。
「灼いてるのかな、彩花ちゃん」
何となく、太郎は、朱桜の気持ちがわかるような気がした。
「ほぉ、太郎殿がそんなことを言うか」
「なんだよ、わりいか?」
「いや、悪いとは言っておらぬ」
姫様が黒之助を手招きしている。鴉天狗はすぐにその誘いに乗った。
唇を尖らせながら、火羅は姫様がのろりのろりとおにぎりを食べるのを見ていた。
遅めの朝食だと、太郎は思った。
しばらくは、料理当番は三人で廻すことになるだろう。
火羅は、駄目だ。
今日でよくわかった。
黒之助は、見かけに拠らず手先は器用である。太郎も、出来る。
凝った物は作れないが、姫様が美味しいと言ってくれるので、太郎は満足だった。
「朱桜ちゃんは、クロちゃんに懐いてるみたいだし、任せて大丈夫かな」
確かに、三人の中では黒之助に一番懐いている。
意外だった。葉子は、子供に好かれやすいし、子供好きなのだ。光や白月も、葉子に懐いている。朱桜だけが、違った。
以前、姫様とこじれたときも、黒之助が上手く二人の仲を取り持った。
朱桜は咲夜とも仲がいい。嬉しいことだった。
「そういえばそうだな」
葉子の姿を見ていて、ふと胸がつまった。
全身の毛が白く染まっただけで、葉子の半人半妖の姿は、変わってはいない。
だが、太郎は、老いを感じとった。
古い付き合いだ。
古寺に来てから、ずっと一緒に暮らしてきた。
しかし、妖狐から老いを感じ取ったのは、初めてだった。
姫様も気付いているだろう。自分よりもずっと鋭く、そして、母と娘なのだから。
太郎は、おもむろに欠伸を一つした。
妖だろうが、いつかは死ぬ。不老に近くはあっても、決してそうではない。
あまり動かなくなったと、太郎は思った。
「うん」
「姫さん、煙が」
「う、うん」
「ひ、姫様、大丈夫さよ!?」
「……けほけほ、うん、一応」
黒煙が、もくもくと部屋いっぱいに、立ちこめていた。
焦げの臭いだけではなく、何とも言い表しにくい臭いが鼻を刺す。
姫様は、口元を着物の袖で覆うと、涙目になりながら廊下に出た。
耐え切れぬと獣姿の妖狼が鼻を押さえながら庭に出て、鳥の姿をとった鴉天狗は同じ色である黒煙に紛れ、半人半妖の妖狐は呆れた表情を浮かべていた。
「これは……」
あむと息を止め、頭を低くしながら葉子も庭に出た。
太郎がぜーはーぜーはーと舌を出し入れしている。
悶え苦しみ転がった後が、白い身体に付く草や土の汚れとして証となっていた。
白髪を陽に照らしながら、葉子は目を赤くした黒之助に話しかけた。
「ええっと……姫様、あの子、料理上手だって言ったよね」
「言った。言ったが……何だこれは? 何を作っているのだあの御仁は」
「なぁなぁ、葉子。俺の鼻見てくんない?」
「あい?……って、太郎、鼻腫れてるよ!?」
妖狼は鼻が効く。それが災いした。
「むぅ、痛々しいな」
つんと羽の先でつついてみる。
ぎゃあ! と一鳴きすると、妖狼は跳び上がった。
「馬鹿! 痛いんだから触るんじゃねぇよ!」
「ふぅむ……あい済まぬ」
涙をぽろぽろ流しながら黒之助が言う。
お互いに様にならぬ格好で、それ以上言い争いは続かなかった。
「ひ、火羅さん!」
「あ、待って! も、もう少しで料理出来るか、いったぁ!」
何かにぶつかる音がして、何かが崩れる音がした。
煙は閉じられた戸の隙間から、漏れ続けている。開けたくないなと思った。
姫様は、意を決して、台所の戸を開けた。
もわと煙が溢れ、もろに受け、こほんこほんと咳き込む。
足下に注意しながら、じりじりと渦中の人物に近づいた。
「だ、大丈夫ですか?」
「し、心配しなくても、私は、あう!?」
ごつんという音。
料理にはあまりふさわしくない。姫様は狼狽えた。
「も、もういいですから! 火羅さん、一旦手を止めて下さい!」
「やるって決めたの! 貴方の指図は受けないわ! あ、あら? あらら?」
「……」
水を浴びる。
桶いっぱいのぬるーい水を浴びせられた。
姫様が。
髪が、衣が、白い肌に貼り付く。ゆったりした衣で隠れていた細身の線が露わになる。
かぽんと、回転していた桶が動きを止めた。
「えっと、これは……その、ね、えっとね」
煙の向こうで人影があたふたと。
掌を向けると、煙が掻き分けられ、いつものように着物を着崩し肩を晒している火羅の姿が表れた。
姫様は、うふふと笑うと、
「手を止めなさい」
有無を言わせぬ口調で申し渡した。
火羅は、しょんぼりと尻尾をうなだらせながら、
「はい」
と返事した。額が赤くなり、少し腫れていた。
食事。
姫様の食事。古寺で唯一食事を取らなければならないのが姫様だった。妖は食べなくても生きていけるが、姫様は違う。
三妖と姫様でゆるやかーな料理当番を廻していたのだが、その輪が崩れた。
葉子が抜けたのだ。
片腕を無くした葉子の代わりにと張り切ったのが、古寺の新たな住人である火羅だった。
任せなさいと胸を叩いたときの顔は、過剰なほどの自信に充ち満ちていた。
料理の腕は、以前、お手製弁当を一緒に食べた姫様が、とても美味しいと舌鼓を打つほど。
しかし、ここに来てから、火羅が料理を作ったことはなかった。火を起こしたり、食器を並べたり洗ったりすることはあったが。
少々、姫様は危惧していた。手つきがどうも危なっかしいのだ。
太郎や黒之助は、姫様が美味しかったと言っていたし、自分で出来るって言うんだから大丈夫だろうとのんきに構えていた。
葉子は、すまないさよと姫様に謝るだけだ。
だが……現実は想像を遥かに越えていた。
「この惨状……」
大荒れである。
まるで台所だけを竜巻が襲ったような。
姫様は、顔中を煤だらけにしながら顔を覗かせた小妖達に、
「ほうきとちりとりを」
そう、言った。
それから、火羅の手首を掴むと、目の高さまで持ち上げ、
「とりあえず、治療しましょうか」
切り傷擦り傷でいっぱいの手を見やった。
「い、いらないわよ! このぐらい、平気だもの!」
「てい」
触る。
髪の先から水滴がしずしずと落ちた。
「……いったぁ」
強がりを言うものの、姫様に触れられると、途端、妖狼は顔をしかめた。
火羅と葉子は、妖としての力をかなり失っている。
太郎や黒之助ならあっという間に塞がる傷も、二人は遅々として治らない。
今も、しかりだ。
「はい、行きますよー」
「こ、このぐらい……」
くすんくすんと鼻を鳴らしながら引っ張られていく。よくよく見やると、額だけでなく、鼻の頭も赤くなっている。
真紅の妖狼の姫君の面影は、どこにもなかった。
「初めてここでする料理だから、張り切って、頑張って……そうしたら、あんな風になって」
「はぁ」
「べ、別に悪気はないのよ。いつもあんな感じだったし……貴方が止めるのが早過ぎるのよ!」
「はぁ」
「そうよ! これから美味しくなるはずだったのに! 馬鹿! 馬鹿馬鹿!」
「ああ、動かないの!」
「はい」
「ねぇ、火羅さん。あの時のお弁当、本当に火羅さんが」
「し、失礼な! 私を疑っているの! 私があの時どれだけ苦労を重ねたか……あのお弁当は、ちゃんと自分で作ったわ!」
「そうですか」
「嬉しそうだな、葉子」
「ねぇ」
にんまりと笑いながら、葉子は、火羅の手に治療を施す姫様を見ていた。
二人の会話が流れてくる。
白尾がわさわさと揺れていた。
「あの二人、なかなかいい感じだと思わない? 姉妹……そう、姉妹みたいでさぁ」
「姉妹か……」
太郎も、白尾をわさわさ振った。
「火羅殿が姉だと?」
台所の片付けを終えた黒之助が、お盆を持って戻ってきた。
お盆の上にはおにぎりと漬け物。
火羅が作っていた物は、食べられる物とは思えなかったので、とりあえず肥料ぐらいにはなろうと庭に埋められた。
「違う違う。火羅は妹さよ」
「おいおい、火羅は、俺と歳が近いんだぞ。がきの時に会ったことがあるらしいし」
「やっぱり妹さよ。姫様は、うーんと太郎よりも大人だし」
「……」
反論出来ない。本当にしっかりした人なのだ。
「一応、太郎殿も育ての親なのだ。しっかりして欲しいものだな」
「うっせぇなぁ」
「にしても、どうするのだこれから。あんな光景を見たら、朱桜殿がまたへそを曲げるぞ」
「……朱桜ちゃんは、姫様のこと慕っているもんね」
きらきらとした尊敬の眼差しは、時として拒絶の意を示す。
火羅――その名を、鬼の娘は嫌っていた。
「灼いてるのかな、彩花ちゃん」
何となく、太郎は、朱桜の気持ちがわかるような気がした。
「ほぉ、太郎殿がそんなことを言うか」
「なんだよ、わりいか?」
「いや、悪いとは言っておらぬ」
姫様が黒之助を手招きしている。鴉天狗はすぐにその誘いに乗った。
唇を尖らせながら、火羅は姫様がのろりのろりとおにぎりを食べるのを見ていた。
遅めの朝食だと、太郎は思った。
しばらくは、料理当番は三人で廻すことになるだろう。
火羅は、駄目だ。
今日でよくわかった。
黒之助は、見かけに拠らず手先は器用である。太郎も、出来る。
凝った物は作れないが、姫様が美味しいと言ってくれるので、太郎は満足だった。
「朱桜ちゃんは、クロちゃんに懐いてるみたいだし、任せて大丈夫かな」
確かに、三人の中では黒之助に一番懐いている。
意外だった。葉子は、子供に好かれやすいし、子供好きなのだ。光や白月も、葉子に懐いている。朱桜だけが、違った。
以前、姫様とこじれたときも、黒之助が上手く二人の仲を取り持った。
朱桜は咲夜とも仲がいい。嬉しいことだった。
「そういえばそうだな」
葉子の姿を見ていて、ふと胸がつまった。
全身の毛が白く染まっただけで、葉子の半人半妖の姿は、変わってはいない。
だが、太郎は、老いを感じとった。
古い付き合いだ。
古寺に来てから、ずっと一緒に暮らしてきた。
しかし、妖狐から老いを感じ取ったのは、初めてだった。
姫様も気付いているだろう。自分よりもずっと鋭く、そして、母と娘なのだから。
太郎は、おもむろに欠伸を一つした。
妖だろうが、いつかは死ぬ。不老に近くはあっても、決してそうではない。
あまり動かなくなったと、太郎は思った。