小説置き場2

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あやかし姫~そのお出かけの日(10)~

 真っ白になった頭に、ふつと言葉が沸く。
 馬鹿は貴方じゃない、と。馬鹿は、もちろん彩花さんたちでもない、と。
 馬鹿は、私じゃないのか、と。
 ここで、容易く諦めるのか、と。
 諦めていいのか、と。
「否、だわ」
「否?」
「嫌よ。そんなの、嫌。絶対に嫌」
「嫌なのは、私ですよ。彩花様ですよ」
 全くですと、伸ばした手を引っ込め、朱桜は腰に当てた。
「そんなことない! 彩花さんは私に手を差し伸べてくれた! あの人は、私に……手を添えてくれた」
「……彩花様が、お前に? お前なんかに? 笑わせないで下さいです」
「生きるって決めたのよ! 私は、彩花さんの傍で生きるわ!」
 言ってから、ちょっと顔が熱くなった。
「だから、そんなことさせないって言ってるですよ!」   
 朱桜の目が、血走った。それが、わかった。
 頭を、もたげていた。もたげられた。目を合わせることが出来た。
 顔だけでなく、全身が熱い。それも、内側からだ。今なら、きっと出せると思った。
 真紅の妖狼。
 名の由来は、全身を染める紅にあるのではない。
 息。
 白くない。
 もう一度、確かめるように吐く。
 赤い。
 いける。
 胸一杯に空気を吸い込んだ。朱桜の妖気も混じり、肺が、少し痛んだ。
「ま、待て! 朱桜様に!?」
 鬼が言う。
 火羅は、妖気に押さえられている葉子の姿を目に収めた。
 あの時も、今日も、自分のために、必死になってくれた。
 彩花さんだけじゃない。この場所には、欲しかったものがある。
「私は……これが、私の想いよ!」
 真紅の妖狼は、紅蓮の息吹を朱桜に叩きつけた。
 ざぁと、燃えさかる炎。
 どうだと、思う。
 ああと、思う。
 無情にも朱桜は、火羅の想いを、右手の一振りで、容易く掻き消してみせたのだ。
「これがお前の想い? 随分と軽いですね」
 蔑視。肌を刺す。
「ま、まだよ!」
 もう一度、火を吐こうとした。
 その前に、口を押さえられていた。
「ん、ん――」
 ゆっくりと、軽々と、持ち上げられた。
「やっぱり、お前は彩花様を騙してるですよ。今のではっきりとわかったですよ」
 炎を出せなかった。長いこと、出せなかった。
 やっと、出せた。ここにいたいと強く願うと、炎が出せた。
 なのに――
 わかってくれない。
「よかったです、早めに摘むことが出来て。悪い芽は、早めに摘むに限るです」
 わかってよ!
 私は、私はね!
 叫びたくても、口は塞がれていた。
 古寺の壁に、思いっきり叩きつけられる。
 木板がへこみ、頭が揺れる。
 口の中で、血の味がした。
 もう駄目だと思った。
 お弁当を食べてくれたあの子。私の絵を喜んでくれたあの子。私のために泣いてくれたあの子。
 喜怒哀楽、様々な表情を浮かべ、感情を変えるあの子。
 女と、葉子と、赤麗が、脳裏を掠めた。
 女の顔が浮かんだとき、身体が疼いた。
「死ん、」   
 ぱちんと、小気味好い音がした。
 妖気の嵐が収まる。
 火羅は、ぶらとしていた足が、床に着くのを感じた。
 それから、膝が崩れた。
 背を壁に預ける。呆然と、見やる。
 もくという煙の中、二人の男女。
 一人は、頬を腫らした朱桜。
 もう一人は――平手を上げた、黒之助。
 まだ、火羅は生きていた。



「何を血迷うておられる!」
 一喝した黒之助の形相は、凄まじいものだ。
 人の顔のままであるがゆえに、逆に、妖の姿よりも、凄まじい怒りが見て取れた。
「く、く、く、クロさん」
 朱桜は、頬を押さえ、あわと唇を震えさせた。
「葉子殿と火羅殿が、どのような失礼をしたかは存ぜぬ。
 存ぜぬが、朱桜殿が今、なさろうとされていることに、その罪は値するのか! 
 そのような振る舞いをしてよいのか! 
 答えよ! 
 拙者が納得できるのか!」
 仁王立ちする黒之助を見ながら、やっと来たさよと言いやり、葉子は火羅の許へ這っていった。
「クロさんが、私を、ぶ、ぶ、」
 潤んだ瞳に八の字眉。それまでの勢いは消え失せていた。
 嫉妬も恍惚もどこにもない。あるのは叱られ怯える子供の目だ。
「拙者は、姫さんにこの場所を任された者の一人! たとえ朱桜殿であろうと、狼藉は捨て置けぬ!」
 黒之助の表情は、厳しいままだ。
 朱桜の妖気が、強くなったり弱くなったりと、崩れ始めた。
「ぶった! 
 私をぶった! ひどい、ひどいよ! 
 クロさんも私を、私を嫌いになったんだ! 
 彩花様もそうだ! 
 私も、父さまも何も出来なかったから怒って、会ってくれないんだ!」
 朱桜の訴えに、黒之助が、唇を真一文字に閉じる。
 葉子は、よく頑張ったさよと、火羅の耳に吹き込んだ。
「……そのようなことが、あるかぁ!!!」
 黒羽を広げ、怒声を発す。
 古寺が大きく震える。
 人の顔に、青筋が幾本も浮き出た。短く刈った髪が、叫ぶと同時に逆立った。
「ひゃうっ」
 もう、泣き声だ。
 屹立していた美しい女の形が、幽かになり始めていた。角も、小さくなっている。
 身体が、一回り小さくなった。
「朱桜殿が知っている姫さんは、そのような方ですか? 違うでしょう? 心の籠もった文を、何度も送ったはずです」
 黒之助は、優しい声色を出した。
 まるで、白蝉の琵琶の音のような。
 朱桜は、泣きべそをかきながら、
「でも、私、返事を、か、書いてない」
 と、言った。
 ほろほろと、泣いていた。
 何をやっていると怒りで顔を真っ赤にし、邪魔をするなと黒之助に襲いかかろうとした虎熊を、今度は星熊が止めた。
「それでも、姫さんは送っています。嫌いになったら、そんなことしないでしょう」
「彩花様、私のこと、まだ、好き? 仲良くしてくれるですか?」
「ええ。朱桜ちゃんにお会いになりたいと、思うております」
「クロさんも、私のこと嫌いじゃないですか?」
「ええ。嫌いではありませんよ。申し訳ありません、このような乱暴なことを」
 黒之助の厚い手が、朱桜の小さな頬に触れる。
 鬼の王の娘は、童女の姿に戻っていた。
 本当に申し訳ありませんと、黒之助は赤く腫れた頬を撫でた。
「朱桜殿、一体どうしたのですか?」
 目線を合わせようと、膝をつく。
 朱桜は、涙をいっぱい浮かべながら、もごと言った。
「せ、せっか、せっかく父上さまに無理を言って、ひどいことを言ってまで、会いに来たのに、い、いなくて、いなくて、彩花様、いなくて、く、クロさんもいなくて、会いたかったのに、それで、それで、火羅がいて」
 火羅は、気の抜けた表情を浮かべ、頭の上に葉子の顎を乗せ、抱擁されていた。
「ずっと、ずっと考えていたです。どうして、火羅なんだろうって。火羅は、火羅は、悪い奴ですよ。私と咲夜さんを、襲ったですよ。なのに、彩花様はどうしてって。ここで暮らせるなんて、彩花様の傍にいられるなんて、おかしいって。きっと騙されてるんだって、思ったですよ」
 押さえつけられていた鬼が、もう一人の鬼を振り払うと、部屋を出ていった。
 葉子が目を細める。火羅が、ふぅぅと唸り始めていた。
「私は、傍にいれないのに、いつでも会えないのに、そんなの、そんなの、狡い――」
「それで、同じ事をなされたのですか?」
「同じ、事?」
「あの時の火羅と、同じ事をしたのですか?」
「同じ? 同じ……私は、同じ事を?」
 目が、大きく開かれた。
「そうとしか、言いようがありませぬよ」
「そんな――」 
 泣き声。ひく、ひくっと、静かに。
 黒之助の首にしがみつく。
 よいしょと童女を抱き上げると、黒之助は、火羅の方に歩み寄った。
「朱桜殿」
 ふぅと、赤い息が吐かれる。
 ちらと火羅を忍び見ると、すぐに黒之助の山伏装束に顔を埋めた。
「朱桜殿」
「……ご、ごめんなさいです」
 それだけ言うのが、精一杯だった。
 火羅は、すぐに返事をしなかった。
 唸り続ける。
 こんこんと、葉子が顎で火羅の頭を叩いた。
「……いいわ」
 そう、火羅は言った。
「おあいこ、なのでしょう」
 火羅も、それだけ言うのが精一杯だった。
 葉子は、子供の仲直りみたいさねと思った。
「……白蝉さんと、黒之丞さんと、会いたいです」
 そう、朱桜は言った。
「お送りしますよ」
 黒之助が答えると、こくんと頷いた。
「火羅さん、ごめんなさいです……」
 もう一度、言う。
 火羅は、顔を横向け、
「いいわ」
 と答えた。
「ちょっとクロちゃん、片付けは」
「葉子殿に任せるよ」
 ばさっと羽ばたく。
 みるみると黒い影が小さくなる。
「……せっかく掃除したばかりなのに」
 葉子は、呆れたように言った。
「手伝いましょう」
 鬼。一人、戻ってきた。
「あんたは……」
「星熊童子と申します」
 礼儀正しい。先程、朱桜を停めようとした男だ。
「じゃ、じゃあね、お言葉に甘えて」
「葉子さん……」
「何さよ」
「私、やっぱり、朱桜さんに嫌われてるみたい」
「……」
「同じ眼、してたもの」
「そうかい」
「彩花さんには悪いけど……私も、好きじゃないわ」
 星熊は、黙って、二人を見ていた。