あやかし姫~そのお出かけの日(17)~
衣擦れの音と、冷えた匂いで、太郎は目を覚ました。
燻り火が薫っている。
微睡み気味に両腕の間からいなくなった姫様を捜した。
「見ないで下さい」
洞穴の奥。声が硬い。
外は朝。雨があがっている。森が、動き出していた。
「いいですよ」
首を返す。
眉間に皺を寄せた姫様は、襦袢の上に旅衣を羽織っていた。
「姫様、」
顔がまだ赤い。夜よりは苦しげではなかった。
「一つ聞きたいのですが」
「?」
「昨日は、眠っただけ?」
「うん」
「太郎さんの腕の中で?」
「うん」
「ふぅん」
姫様がそろそろと近づいてきた。
歩みはぎこちなかった。
座り込むように、腰を下ろした。
「痛いです」
「ど、どこが!?」
音が反響する。あっちこっちで妖狼が叫ぶ。
姫様は耳を押さえると、大したことではないと前置きした。
「身体のあちこち」
はぁっと姫様は目を伏せ、小首を傾げた。
「肉も骨も、悲鳴をあげています」
姫様は体力がなかった。それはよく知っている。だから、いっぱい休んだ。
無為に流れる時間は、苦にならなかった。
「……か、風邪は?」
「もう一眠りしたら、大丈夫じゃないかな」
「そっか、大丈夫か」
「太郎さんのおかげです」
姫様に頭を撫でられる。堪らなく嬉しくて、いつものように尾を振った。
衣全部乾かなかったと、姫様は言った。
「乾くまで、待つのか?」
「いえ」
燻し香に、つんと刺すような冷たい匂いが満ちた。
思わず身体を震わせていた。
「その前に……太郎さん、それ、塗って」
姫様が置いた小さな器と、背を向けた姫様を何度も見比べた。
器の中の軟膏には、姫様の指の痕がある。
「は?」
姫様が、羽織っていた衣を落とし、襦袢の帯を緩める。
細い首筋。
薄い背中。
眩しいほど、汚れがなかった。昨日見たはずだが、恥ずかしかった。
「ひ、姫様?」
「せ、背中には、届かないの!」
それで、おうと太郎は応えた。
小さな器は、姫様と同じく、少しでも力を込めると、壊れそうだった。
「そう、もうちょっと右……あ、下、じゃなくて、上」
「帰ったら、葉子に揉んでもらえよ」
薬を柔肌に塗り込み、姫様が襦袢を整えるのを見ながら、太郎は言った。
肉が硬くなっていた。相当に凝っている。
太郎の言葉を捉えた姫様が、淡く頷く。
妖狼は音無く息を吐いた。禍々しい神気が、一瞬、見えた。
黙々と、姫様が半乾きの着物を畳む。
太郎が畳んだ衣は、姫様の手による衣と並ぶと、より煩雑さが増した。
畳む間、二人は無言だった。
「で、どうする?」
畳んだ着物を籠に積み終えると、沈黙に耐えきれなくなった太郎が、口を開いた。
姫様は丸薬を口に含むと、
「帰ります」
短く、そう言った。
「いや、それは帰るだろうけど」
ここでもう少し休むのか、歩いて帰るのか、歩いては帰らないのか。
道は、色々あるのだ。
「帰らないというのも、ありますよ」
妖狼は、訝しげに姫様を見やった。
柔らかい、優しい微笑み。
違うなと、胸の中で呟いた。
「冗談だろ」
「冗談です」
苦いと舌を出す。それから、白尾に顔を埋めた。
「尾は、温かいね」
襦袢の上に一枚羽織るだけでは寒かろうと、いつものように白尾を伸ばした。姫様は無言で、それを身体に捲いた。
「太郎さん……私って、魅力がない?」
金銀妖瞳。黒瞳がずり落ちるように失せた。
妖狼の瞳に映るのは、あどけない、乾いた笑みだった。
「火羅さんや鈴鹿御前様と違って、子供みたいな身体だし……あちこち膨らみ、ないし。肋透けてるし」
「な、何だそれ」
白く、仄かに赤らんた裸身が脳裏に浮かび上がり、照れた太郎は姫様を見れなくなって、視線を火の痕に落とした。
「だ、だって……だって」
白尾が目の下まで上げられる。
やっぱりそうなんだと、姫様は呟いた。
山宿でも、同じようなことを言われたと、太郎は思った。
「姫様より綺麗なものを、俺は、見たことがない」
俯いたまま、言う。
「……嘘」
「嘘じゃない」
大きく見開かれた目が、細くなり、柔らかな優しい笑みが宿る。
見透かされても、悪くない。
「私も、太郎さんの瞳より綺麗なもの、見たことないよ」
「嘘じゃないな」
「うん」
姫様が、立つ素振りを見せた。
太郎も従った。
――抱けば、よかったのによ。
旅に出て、初めて聞いた嗤い声。
密かな妖しの囁きを、妖狼太郎は無視したのであった。
燻り火が薫っている。
微睡み気味に両腕の間からいなくなった姫様を捜した。
「見ないで下さい」
洞穴の奥。声が硬い。
外は朝。雨があがっている。森が、動き出していた。
「いいですよ」
首を返す。
眉間に皺を寄せた姫様は、襦袢の上に旅衣を羽織っていた。
「姫様、」
顔がまだ赤い。夜よりは苦しげではなかった。
「一つ聞きたいのですが」
「?」
「昨日は、眠っただけ?」
「うん」
「太郎さんの腕の中で?」
「うん」
「ふぅん」
姫様がそろそろと近づいてきた。
歩みはぎこちなかった。
座り込むように、腰を下ろした。
「痛いです」
「ど、どこが!?」
音が反響する。あっちこっちで妖狼が叫ぶ。
姫様は耳を押さえると、大したことではないと前置きした。
「身体のあちこち」
はぁっと姫様は目を伏せ、小首を傾げた。
「肉も骨も、悲鳴をあげています」
姫様は体力がなかった。それはよく知っている。だから、いっぱい休んだ。
無為に流れる時間は、苦にならなかった。
「……か、風邪は?」
「もう一眠りしたら、大丈夫じゃないかな」
「そっか、大丈夫か」
「太郎さんのおかげです」
姫様に頭を撫でられる。堪らなく嬉しくて、いつものように尾を振った。
衣全部乾かなかったと、姫様は言った。
「乾くまで、待つのか?」
「いえ」
燻し香に、つんと刺すような冷たい匂いが満ちた。
思わず身体を震わせていた。
「その前に……太郎さん、それ、塗って」
姫様が置いた小さな器と、背を向けた姫様を何度も見比べた。
器の中の軟膏には、姫様の指の痕がある。
「は?」
姫様が、羽織っていた衣を落とし、襦袢の帯を緩める。
細い首筋。
薄い背中。
眩しいほど、汚れがなかった。昨日見たはずだが、恥ずかしかった。
「ひ、姫様?」
「せ、背中には、届かないの!」
それで、おうと太郎は応えた。
小さな器は、姫様と同じく、少しでも力を込めると、壊れそうだった。
「そう、もうちょっと右……あ、下、じゃなくて、上」
「帰ったら、葉子に揉んでもらえよ」
薬を柔肌に塗り込み、姫様が襦袢を整えるのを見ながら、太郎は言った。
肉が硬くなっていた。相当に凝っている。
太郎の言葉を捉えた姫様が、淡く頷く。
妖狼は音無く息を吐いた。禍々しい神気が、一瞬、見えた。
黙々と、姫様が半乾きの着物を畳む。
太郎が畳んだ衣は、姫様の手による衣と並ぶと、より煩雑さが増した。
畳む間、二人は無言だった。
「で、どうする?」
畳んだ着物を籠に積み終えると、沈黙に耐えきれなくなった太郎が、口を開いた。
姫様は丸薬を口に含むと、
「帰ります」
短く、そう言った。
「いや、それは帰るだろうけど」
ここでもう少し休むのか、歩いて帰るのか、歩いては帰らないのか。
道は、色々あるのだ。
「帰らないというのも、ありますよ」
妖狼は、訝しげに姫様を見やった。
柔らかい、優しい微笑み。
違うなと、胸の中で呟いた。
「冗談だろ」
「冗談です」
苦いと舌を出す。それから、白尾に顔を埋めた。
「尾は、温かいね」
襦袢の上に一枚羽織るだけでは寒かろうと、いつものように白尾を伸ばした。姫様は無言で、それを身体に捲いた。
「太郎さん……私って、魅力がない?」
金銀妖瞳。黒瞳がずり落ちるように失せた。
妖狼の瞳に映るのは、あどけない、乾いた笑みだった。
「火羅さんや鈴鹿御前様と違って、子供みたいな身体だし……あちこち膨らみ、ないし。肋透けてるし」
「な、何だそれ」
白く、仄かに赤らんた裸身が脳裏に浮かび上がり、照れた太郎は姫様を見れなくなって、視線を火の痕に落とした。
「だ、だって……だって」
白尾が目の下まで上げられる。
やっぱりそうなんだと、姫様は呟いた。
山宿でも、同じようなことを言われたと、太郎は思った。
「姫様より綺麗なものを、俺は、見たことがない」
俯いたまま、言う。
「……嘘」
「嘘じゃない」
大きく見開かれた目が、細くなり、柔らかな優しい笑みが宿る。
見透かされても、悪くない。
「私も、太郎さんの瞳より綺麗なもの、見たことないよ」
「嘘じゃないな」
「うん」
姫様が、立つ素振りを見せた。
太郎も従った。
――抱けば、よかったのによ。
旅に出て、初めて聞いた嗤い声。
密かな妖しの囁きを、妖狼太郎は無視したのであった。