小説置き場2

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あやかし姫~そのお出かけの日(20)~

 大好きな彩花様を目にすると、するりと様々な事が抜けてしまった。
 クロさんや白蝉さんの言葉が、何の意味もなさなくなってしまった。
 火羅がお帰りと言った。
 当たり前の挨拶だけど、それがひどく気にくわなかった。
 それでは、この場所が、大好きな彩花様のお住まいが、大嫌いな火羅の住まいでもあるということになる。
 ここは、私と彩花様とクロさん、それに葉子さんや太郎さんや頭領さんや小妖さん達の住まいであって、火羅の名前は無いはずなのだ。
 寂しい――彩花様が、どんどん遠くに行ってしまう。どんどん、離れて行ってしまう。
 何時でもお会いしたいのに、何時でも一緒に遊びたいのに。
 本草学の事も、もっといっぱい学びたいのに。
 それもこれも、元はといえば、あの薄汚い女のせいなのです。
 頭の中が、もやとするですよ。
 真っ黒になるです。すっきりしたいのです。
 火羅は、嫌い。
 嫌い。
 嫌い。
 嫌い。
 臭いが、嫌い。
 彩花様の臭いがするもの。
「何だ」
 妖狼は、大きな妖気の流れに目を剥いた。
 尋常ではない妖気を、幼い鬼の娘は発している。機に聡い小妖達は、既に古寺に退散している。
 姫様はというと、微笑しながら、朱桜をその細腕で抱き締めていた。
「わ、私が、」
 おろおろとしだした火羅の横で、葉子は首を横に振った。
「さっきはあんなに……朱桜ちゃん、どうしたっていうんだ」
 幼子の変心に、もう、自分の手には負えないと葉子は落胆した。
 子供の扱いにはそこそこに自信があったけど、朱桜はわからないと。
 隻腕の白狐は、痛ましげに火羅を見やった。すまないさよと、その眼差しは言っていた。
 何かあれば、自分の身を差し出してでも助けるとも言っていて、火羅は落ち着きを取り戻した。
「おう」
 太郎が唸った。
 朱桜の姿が変わっていた。
 豊かな肢体を黒い衣で包む、美しい女へと。
 似ていた。双子の鬼に、とても。
 もう一人、似ている。姫様だ。
 その顔立ち、雪よりも白い肌に、闇よりも黒い髪。姿は違えど、似通っていた。
 動き出した黒之助が、足を止めた。
「怒るよ」
 姫様が、そう、ぽつりと言った。
 その深い一声によって、黒之助は足を止めたのだ。
「はう」  
 朱桜が、弱々しく声をあげた。
「怒るよ、本当に怒るよ、朱桜ちゃん」
「はう、はう……」
 鬼の女が、狂おしげに身をよじる。
 姫様の面のような微笑は、とても冷ややかであった。
 ――どちらが鬼なのか、わからない。
 それほどに、姫様の容貌は冷たかった。
「怒っているじゃない……」
 火羅が言った。小さな声。傍らにいた葉子が、何とか聞こえるかどうかという独り言。
 しかし――
「いいえ、怒っていません。まだ」
 姫様が言った。聞こえたのだ。
 少女の声があの女の声と重なり、背中の疼きと胸の高鳴りを、火羅は感じた。
「今日は、気分が良いから」 
 朱桜は、巨大な妖気を体中に漲らせたまま、がくがくと震えていた。
 姫様から身体を離そうにも、しっかりと抱き締められてしまっている。無理に振り払うことも出来なくはないが、そんなことをしたら、人である姫様の身体がどうなることか。
 背中に回されたすらりとした両腕は、朱桜にとっては、何とも柔らかで何とも固い戒めになっていた。
 磨き抜かれた玉のような肌が、次第に色褪せたものになっていく。
 髪の艶も消えつつある。
 目に見えて、朱桜は憔悴していた。
「私は、彩花様が、」 
「大きくなったね」
 うん、綺麗綺麗。
 震える肩に、顎を乗せる。
「彩花様が大好きで、大好きだから、」
「うん、うん、知っています」
「彩花様……」
 大好きな姫様の名前を、身体をくねらせながら切なげに呼ぶ――鬼の女は、もう、それだけしか、出来なかった。
「困った妹ですね」 
 苦悩と憎悪と狂気で混濁し、炯々と鈍く光っていた朱桜の瞳が、とろんとしたものになる。肌に張りが戻り、髪に艶が戻る。
 その変貌を尻目に、どぎまぎしながら火羅は姫様を見やった。
 鬼に身体を預けるその姿は、あの女のようだった。
 肌に鮮やかな朱が差したのは、朱桜だけではなかった。
「い、妹、」
 火羅は、姫様が鬼の娘を捉えようとしている――そう、思った。
 甘美な言葉は、それだけの力を持っている。
「そう、妹――私が勝手に思っているだけですが」
 おぉんと、鬼の女は啼いた。
 姫様が、朱桜の身体を捕らえていた腕を離す。その笑みに、暖かみが戻る。
 おぉん、おぉんと、朱桜はむせび泣きながら、次第に小さくなっていく。
 幼少の姫様が袖を通した衣を纏う童女へと、姿を変えた。
「彩花様、お、お食事、を、用意しました。い、一緒に」
 泣きべそをかきながら、鬼の童は言う。
 姫様は、ほぉと、白く淡い息を吐いた。
「朱桜ちゃん、一人で?」
 朱桜は、乾いた舌打ちした。
 それから、葉子の傍にいる紅髪の少女を見やると、
「一応、本当に一応、火羅も一緒です」
 と言った。姫様がほんの一瞬表情を曇らせた。色々な考えが頭をよぎったのだろう。
「火羅は、私の邪魔ばかりしてました」
「手伝ったわ」
 朱桜と同じく、姫様の衣を纏った火羅が、腹立たしげな響きで言った。
 自分を恥じるように苦笑しながら、姫様はこくんと頷いた。



「い、い、妹ー!」
 何やら喜びっぱなしの朱桜を、茨木童子は怪訝そうに見やる。
 東北から帰ってくると、愛する姪っ子はずっとにこにことしていた。
 兄に新しい相手が出来て、朱桜の妹が生まれるとでもいうのか――絶対にないなと、その考えを打ち消す。
「朱桜、一体何をそんなに喜んでいるんだ?」
 訊いた方が早いだろうと思い、膝の上の童に尋ねた。
「それはですね、叔父上」



「王、俺は!」
「なぁ、虎熊――俺が、朱桜のことを、知らないはずないだろう? あの子のことは離れていても、手に取るようにわかるんだよ」
 膝をつき、請願する。
 美しい鬼の王は、どこまでも冷ややかに、虎熊童子を見据えていた。
「お前、面白いことを言っていたな。それに、止めようとしなかったな」
「あ、あれは、よかれと。俺は、西の鬼のために」
「そうか、よかれか。これから俺が見せることも、お前のためによかれと思ってやることだ」
 高い声で嗤いながら、見せる――鬼の王は、その言葉を強調した。
 王は、怒っていた。
 反射的に閉じた虎熊童子の瞼が、無理矢理開けられる。
 腹の底から、悲鳴をあげる。
 目にしたのは、なんともおぞましい、鬼の姿であった。