あやかし姫~そのお出かけの日(21)~
「話があるさよ」
鬼の姫君を見送った姫様に、そう白狐は言いやった。
振っていた手を止めた姫様が、一瞬、暗い神気を発す。
葉子は構わず、
「中で待ってるよ」
そう言って、小走りに門をくぐっていった。
両手を下ろした姫様は、遠くの山々に目をやり、古寺を見ようとはしなかった。
小妖達がざわめきながら姫様を囲んだ。
「葉子さん、怖い顔してたー」
「怖いねー」
「姫様、怒られるー? 怒られるのー?」
火羅は何度も、門と姫様を見比べる。
黒之助は腕を組み、口を真一文字に結んでいる。
太郎が姫様の肩を叩いた。
「私に、どうしろと? どうすればよかったというの?」
振り返った姫様は、今にも泣きそうな表情をしていた。
「……太郎さん、色々とありがとう」
「あ、うん」
そう返事するのが、やっとだった。
「待って!」
ふらりと歩む姫様を、火羅が追った。
追って、並んで、だけど、何も言えなかった。置いてかれ、とぼと後をついていくしかなかった。
小妖達も戻っていく。
陽光が、天の頂きから落ちようとしていた。
「葉子の奴、話ってなんだよ。なんであんな怖い顔してんだよ」
「わからぬでもない」
じわりとした声であった。
人の姿をとっていた太郎の頬に、真っ白な毛が生え、波立った。
「いや、わからぬでもないが」
太郎一人、取り残される。
ざっと、腹立たしげに地面を蹴る。
草鞋からはみ出る爪。
ざくりとした抉り痕。
「太郎さん、太郎さん、葉子さんが早くこいって」
「わかってるよ」
かまいたちの兄弟が呼びにきた。
太郎は、ふてくされた顔をして、門をくぐった。
「どうしてあんなことを言ったんだ」
太郎が居間に入り、車座の一角に腰を下ろすと、そう葉子は切り出した。
太郎の位置からは小妖達が庭で薬草を干しているのが見えた。
姫様と葉子が、向かい合う形になっている。
「だって……」
「あ、あれは、私のために」
火羅が言った。庭を背にしていた。黒之助は、葉子と太郎の間に腰を下ろしていた。
「朱桜ちゃんはたいそう喜んでいた。葉子殿、拙者は別にいいと思うが」
白狐が、真紅の妖狼と鴉天狗を交互に一瞥した。
「鈴鹿御前様はどうするさよ。酒呑童子様は?」
「それは……きっと、鈴鹿御前様は、気になさらないだろうし、酒呑童子様は、朱桜ちゃんにとても甘くあられるし」
「本当にそうなのさか? 鈴鹿御前様は、本当に気になさらないさか? 鈴鹿御前様の配下の鬼達は?」
火羅が途方に暮れる。
太郎の苛立ちが募っていく。
「きっと、大丈夫……」
姫様の語尾が細くなった。
「あれは、朱桜ちゃんを縛る言葉さ。朱桜ちゃんは、本気で姫様の妹になったと思ってしまったんだよ」
「葉子さん、それが悪いことなの。私は、私はね、」
「わかってるよ、姫様が朱桜ちゃんを、朱桜ちゃんが姫様を、互いが互いをとても大切にしていること。でもね、あの子はただの鬼じゃないんだ。せめて、頭領を待つとか」
「頭領なんて……出雲を去って、どこに行ったのやら」
かりと、姫様が爪を噛んだ。
「そうでしょう? 私が、出雲の騒ぎを知らないとでも?」
葉子と黒之助の顔が、同時に蒼白になった。
太郎と火羅の視線が交じる。
「火羅さんは、あれでよかったと思ってるよね」
凄艶な顔付きになった姫様が身を乗り出す。長い黒髪がばさりと流れた。
火羅は、妖狼の姫君の顔をして、それから姫様の友人の顔になって、俯き加減に否と答えた。
身体を支えるために畳に付けた右手を、姫様は握った。左手は口元に持っていっている。
眉間にとても不快げな皺が寄った。
火羅は、翳りのある表情で、もう一度はっきり否と言った。
姫様を直視出来なかった。
何度考えても火羅は、葉子と同じ考えにしか辿り着けなかったのだ。
そして、火羅は、その先を読んでもいた。やってしまったことは、しょうがない。あの鬼の娘の喜びようでは、本気にしてしまっているに違いない。だから、忌々しいことながら、姉妹の契りは結ばれてしまったことになる。少女が言って、鬼の娘は受け入れたのだから。妖の契りは、とても強い。
今さら、それをどうこうできるものでもない。
葉子が何を考えているのか、火羅はわからなかった。それを、知りたかった。
「……煩い」
「わ、私のこと?」
「煩い。煩い、煩い、煩い……煩わしい」
「ひ、姫さん?」
「確かに、短慮だったのかもしれません! でも、それで、だから、どうしろと!?」
もはや、神気は隠しようがなかった。
激昂した姫様は、月の光のない闇夜のような、そんな神気をまとっていた。
「私にどうしてほしいのですか!?」
あの女の声がした。火羅は、思わず女を探した。だが、どこにもいなかった。
神気。大きい。大きいが、朱桜がまとった黒い妖気に感じた怖気を、姫様の神気には感じなかった。
胸に宿ったのは恐怖よりも恍惚に近い。どちらに対して生じたものなのか、わからなかった。
人の娘がゆらりと重なる。あれは鬼を選んだのか。
自分が毀れ始めている。躰は、毀れていた。心が、毀れていくのだ。
今の彩花はどちらなのだろうか。自分に優しくしてくれる友人か、自分を弄ぶ――なんだろう、あの女は。訊きたい。ちゃんとした答えが欲しい。その答えは、自分を毀してくれるだろう。
どちらを選ばなければならないとき、自分は完全に毀れてしまうに違いない。遅かれ早かれ、そうなるはずなのだ。
あの子は――煩い事が多すぎる。
きっとそう長くは……
「それは……」
葉子は――答えなかった。
答えられなかった。
「ないんですね」
姫様が、立ち上がった。
「太郎さん!」
妖狼の名を呼びながら、足音高く居間を出る。
「待てよ姫様!」
妖狼と姫様の気配が、古寺から見事になくなる。あの時と、同じだ。
火羅が、焔の息を吐いた。
葉子が――固まっていた。
「あたいは……クロちゃん、あたいは、」
「気にくわなかったのか?」
黒之助が言った。鴉天狗は達観していた。彼は、こじれの元が見通せていたのだ。
結局嫉妬とやらが原因なのだと。
ぐずと、隻腕の白狐は鼻をすすった。
「どうしてあたいに一言もなく! あたいは、いたんだ! いたんだよ! 大事なことじゃないか! そんなの、おかしいよ!」
火羅は葉子を見やり――くすりとした。誰も気づかなかったけれど。
「姫さん、気持ちが昂っていかたからな」
「姫様、旅、楽しかったさか……そうさよね、姫様、経験ないもんね。頭領、させてくれなかったもんね。いつも、妖の方法だったもんね」
「人の旅」
火羅が、ぼんやりとしたまま、言った。
噛んだ爪は、何だか血の味がした。
「ああ、そうか。姫様、嬉しかったさか。なのに、朱桜ちゃんがああで――泣かしたかったさか。苛めたかったさか」
「……拙者は違うと思うが」
「姫様、優しいけど……容赦はないから」
火羅は、首を傾げながら、爪をもう一度噛んでみた。やっぱり血の味しかしなかった。
「火羅!」
「あ……」
葉子は、火羅が姫様と同じ事をしているのに、やっと感づいた。
「何やってるさよ、ったく! こんなに、深く」
葉子の声は、次第に細くなった。姫様は歯で噛んでいたが、火羅は牙で噛んでいる。爪ごと、肉を噛みちぎっていた。
「……火羅、大丈夫さか?」
「ええ、ええ」
虚ろな瞳は、白狐を見ていなかった。
「あてられたか」
黒之助が、何やら呟き、ぼんやりとした火羅に息を吹きかけた。
大きく目をぱちくりとした火羅は、「痛い!」と叫んで指を押さえた。
「……全く、全く、保護者失格さね」
そう言った葉子は、血で滲んだ火羅の指先を、ぱくんと口に含んだ。
甘噛みしながら唾液をよく傷口に絡め、黒之助が手渡した黒い包帯で手早く結んだ。
「姫様、探さないとね」
葉子が、自嘲するように、老いた笑みを浮かべやった。
鬼の姫君を見送った姫様に、そう白狐は言いやった。
振っていた手を止めた姫様が、一瞬、暗い神気を発す。
葉子は構わず、
「中で待ってるよ」
そう言って、小走りに門をくぐっていった。
両手を下ろした姫様は、遠くの山々に目をやり、古寺を見ようとはしなかった。
小妖達がざわめきながら姫様を囲んだ。
「葉子さん、怖い顔してたー」
「怖いねー」
「姫様、怒られるー? 怒られるのー?」
火羅は何度も、門と姫様を見比べる。
黒之助は腕を組み、口を真一文字に結んでいる。
太郎が姫様の肩を叩いた。
「私に、どうしろと? どうすればよかったというの?」
振り返った姫様は、今にも泣きそうな表情をしていた。
「……太郎さん、色々とありがとう」
「あ、うん」
そう返事するのが、やっとだった。
「待って!」
ふらりと歩む姫様を、火羅が追った。
追って、並んで、だけど、何も言えなかった。置いてかれ、とぼと後をついていくしかなかった。
小妖達も戻っていく。
陽光が、天の頂きから落ちようとしていた。
「葉子の奴、話ってなんだよ。なんであんな怖い顔してんだよ」
「わからぬでもない」
じわりとした声であった。
人の姿をとっていた太郎の頬に、真っ白な毛が生え、波立った。
「いや、わからぬでもないが」
太郎一人、取り残される。
ざっと、腹立たしげに地面を蹴る。
草鞋からはみ出る爪。
ざくりとした抉り痕。
「太郎さん、太郎さん、葉子さんが早くこいって」
「わかってるよ」
かまいたちの兄弟が呼びにきた。
太郎は、ふてくされた顔をして、門をくぐった。
「どうしてあんなことを言ったんだ」
太郎が居間に入り、車座の一角に腰を下ろすと、そう葉子は切り出した。
太郎の位置からは小妖達が庭で薬草を干しているのが見えた。
姫様と葉子が、向かい合う形になっている。
「だって……」
「あ、あれは、私のために」
火羅が言った。庭を背にしていた。黒之助は、葉子と太郎の間に腰を下ろしていた。
「朱桜ちゃんはたいそう喜んでいた。葉子殿、拙者は別にいいと思うが」
白狐が、真紅の妖狼と鴉天狗を交互に一瞥した。
「鈴鹿御前様はどうするさよ。酒呑童子様は?」
「それは……きっと、鈴鹿御前様は、気になさらないだろうし、酒呑童子様は、朱桜ちゃんにとても甘くあられるし」
「本当にそうなのさか? 鈴鹿御前様は、本当に気になさらないさか? 鈴鹿御前様の配下の鬼達は?」
火羅が途方に暮れる。
太郎の苛立ちが募っていく。
「きっと、大丈夫……」
姫様の語尾が細くなった。
「あれは、朱桜ちゃんを縛る言葉さ。朱桜ちゃんは、本気で姫様の妹になったと思ってしまったんだよ」
「葉子さん、それが悪いことなの。私は、私はね、」
「わかってるよ、姫様が朱桜ちゃんを、朱桜ちゃんが姫様を、互いが互いをとても大切にしていること。でもね、あの子はただの鬼じゃないんだ。せめて、頭領を待つとか」
「頭領なんて……出雲を去って、どこに行ったのやら」
かりと、姫様が爪を噛んだ。
「そうでしょう? 私が、出雲の騒ぎを知らないとでも?」
葉子と黒之助の顔が、同時に蒼白になった。
太郎と火羅の視線が交じる。
「火羅さんは、あれでよかったと思ってるよね」
凄艶な顔付きになった姫様が身を乗り出す。長い黒髪がばさりと流れた。
火羅は、妖狼の姫君の顔をして、それから姫様の友人の顔になって、俯き加減に否と答えた。
身体を支えるために畳に付けた右手を、姫様は握った。左手は口元に持っていっている。
眉間にとても不快げな皺が寄った。
火羅は、翳りのある表情で、もう一度はっきり否と言った。
姫様を直視出来なかった。
何度考えても火羅は、葉子と同じ考えにしか辿り着けなかったのだ。
そして、火羅は、その先を読んでもいた。やってしまったことは、しょうがない。あの鬼の娘の喜びようでは、本気にしてしまっているに違いない。だから、忌々しいことながら、姉妹の契りは結ばれてしまったことになる。少女が言って、鬼の娘は受け入れたのだから。妖の契りは、とても強い。
今さら、それをどうこうできるものでもない。
葉子が何を考えているのか、火羅はわからなかった。それを、知りたかった。
「……煩い」
「わ、私のこと?」
「煩い。煩い、煩い、煩い……煩わしい」
「ひ、姫さん?」
「確かに、短慮だったのかもしれません! でも、それで、だから、どうしろと!?」
もはや、神気は隠しようがなかった。
激昂した姫様は、月の光のない闇夜のような、そんな神気をまとっていた。
「私にどうしてほしいのですか!?」
あの女の声がした。火羅は、思わず女を探した。だが、どこにもいなかった。
神気。大きい。大きいが、朱桜がまとった黒い妖気に感じた怖気を、姫様の神気には感じなかった。
胸に宿ったのは恐怖よりも恍惚に近い。どちらに対して生じたものなのか、わからなかった。
人の娘がゆらりと重なる。あれは鬼を選んだのか。
自分が毀れ始めている。躰は、毀れていた。心が、毀れていくのだ。
今の彩花はどちらなのだろうか。自分に優しくしてくれる友人か、自分を弄ぶ――なんだろう、あの女は。訊きたい。ちゃんとした答えが欲しい。その答えは、自分を毀してくれるだろう。
どちらを選ばなければならないとき、自分は完全に毀れてしまうに違いない。遅かれ早かれ、そうなるはずなのだ。
あの子は――煩い事が多すぎる。
きっとそう長くは……
「それは……」
葉子は――答えなかった。
答えられなかった。
「ないんですね」
姫様が、立ち上がった。
「太郎さん!」
妖狼の名を呼びながら、足音高く居間を出る。
「待てよ姫様!」
妖狼と姫様の気配が、古寺から見事になくなる。あの時と、同じだ。
火羅が、焔の息を吐いた。
葉子が――固まっていた。
「あたいは……クロちゃん、あたいは、」
「気にくわなかったのか?」
黒之助が言った。鴉天狗は達観していた。彼は、こじれの元が見通せていたのだ。
結局嫉妬とやらが原因なのだと。
ぐずと、隻腕の白狐は鼻をすすった。
「どうしてあたいに一言もなく! あたいは、いたんだ! いたんだよ! 大事なことじゃないか! そんなの、おかしいよ!」
火羅は葉子を見やり――くすりとした。誰も気づかなかったけれど。
「姫さん、気持ちが昂っていかたからな」
「姫様、旅、楽しかったさか……そうさよね、姫様、経験ないもんね。頭領、させてくれなかったもんね。いつも、妖の方法だったもんね」
「人の旅」
火羅が、ぼんやりとしたまま、言った。
噛んだ爪は、何だか血の味がした。
「ああ、そうか。姫様、嬉しかったさか。なのに、朱桜ちゃんがああで――泣かしたかったさか。苛めたかったさか」
「……拙者は違うと思うが」
「姫様、優しいけど……容赦はないから」
火羅は、首を傾げながら、爪をもう一度噛んでみた。やっぱり血の味しかしなかった。
「火羅!」
「あ……」
葉子は、火羅が姫様と同じ事をしているのに、やっと感づいた。
「何やってるさよ、ったく! こんなに、深く」
葉子の声は、次第に細くなった。姫様は歯で噛んでいたが、火羅は牙で噛んでいる。爪ごと、肉を噛みちぎっていた。
「……火羅、大丈夫さか?」
「ええ、ええ」
虚ろな瞳は、白狐を見ていなかった。
「あてられたか」
黒之助が、何やら呟き、ぼんやりとした火羅に息を吹きかけた。
大きく目をぱちくりとした火羅は、「痛い!」と叫んで指を押さえた。
「……全く、全く、保護者失格さね」
そう言った葉子は、血で滲んだ火羅の指先を、ぱくんと口に含んだ。
甘噛みしながら唾液をよく傷口に絡め、黒之助が手渡した黒い包帯で手早く結んだ。
「姫様、探さないとね」
葉子が、自嘲するように、老いた笑みを浮かべやった。