小説置き場2

山岳に寺社仏閣に両生類に爬虫類に妖怪に三国志にetcetc

あやかし姫~そのお出かけの日(終)~

 茶けた枯れ草の上に腰を下ろし、黙り込んだ姫様の傍で、人の姿をした太郎は、視線を宙に彷徨わせていた。
 山の上。
 小さな古寺が見える。村も見下ろせる。
 村を挟んで古寺の向かい側にある山まで、姫様と一緒に『飛んだ』――空間を、ねじ曲げたらしい。
 瞬きの間に景色が変わったから、多分そうなのだろうと妖狼は結論づけた。
 太郎は、乱れた黒髪に掌を乗せると、
「なぁ」
 と、姫様に声をかけた。姫様の小柄な身体が、今朝よりもいっそう小さく見える。
 姫様の薄い肩、小振りな肘、細い手首と、順々に動いていき、最後にすらりとした人差し指が天を衝いた。
 さらりと空に書かれた文字。
 ふわりと風が巻き起こった。
 太郎が眉を顰める。横に伸ばした手が、薄緑色の膜に押し返された。
 外の気配も、臭いも、感じられなくなった。
「結界……姫様、なぁ」
 なぁ――鈍く声が反響した。声の後ろを声が付いてくる。
「ああ、もう!!!」
 大きな声。
 腹の底、腑から絞り出したような、そんな声。
 姫様の大声が、無数に響き合う。雨を凌いだ洞窟と同じだ。
 太郎も、叫んだ姫様も、思わず耳を押さえていた。
「うあ、や、山彦が」
 結界が声が外に漏れるのを防いだのだ。
 防いで、内に叩き返したのだ。
 そう気が付いたのは、耳の奥が痺れた後だった。
「え、ええ」
 千や万の声の集いは、地鳴りのようであった。
 ひとしきり騒ぎ立てた声が鎮まると、姫様は背筋を凛と伸ばし、こほんと咳をした。
 ばつが悪そうだった。
「音のこと、考えていませんでした」
「耳、大丈夫か?」
「耳よりも、頭がちょっとくらくらします」
 こめかみをぐりぐり押さえると、大したことはないですがと付け加えた。
「まぁ、いいかな。大声出して、少しすっきりしたし」
 うーんと背を丸めると、姫様は横になった。
 横になって、太郎の膝の上に頭を乗せた。
 胡座の上に、滑らかな黒髪が大きく広がった。
「あんなに怒らなくてもいいのにね」
 髪に隠れ、表情が見えない。指でどけると、額に触れた。
「どうなんだろうなぁ」
「朱桜ちゃんも、朱桜ちゃんだよね。私が帰ってきて早々に、火羅さんに悪意を剥き出しにして。それで、私が喜ぶと思ったのかな。思ったから、鬼の形になったんだよね。私が、私達が、どれだけの思いをしたか、考えもせずに」
 姫様が拳を握ると、肌理の細かい肌に桃色の粒が乗った。
 火羅の命を助けるために、払った犠牲は小さくなかった。
「考えてはいるんだろうが」
 あの鬼の娘がそこまで愚かだとは思えなかった。姫様に似て、聡い幼子だと思っている。
「怒るって言ったとき――とても、苦しそうだったね。妹って呼んだとき、とても、嬉しそうだったね」
 妖狼は顎を引いた。
「朱桜ちゃんは、これで……私の言う通り、かな。もう、火羅さんに変なことしないよね」
「言う通り?」
 元々朱桜は、姫様の言葉をよく聞いていた。
 引っ掛かった。
「だって……私、お姉さんだもの」
 妹……欲しかったんです。そう呟いた姫様は、少し恥ずかしそうだった。
「姉妹の契りは」
「私は、結んだつもりです」
「でもよ、それって」
 西の鬼の王の娘の義理の姉ってことは……王の座を継ぐ地位があるってことになるんじゃないのか?
「私は、鬼じゃないですから……関係はないはずです」
 事も無げに姫様は言い、
「それも、そうか――」
 と太郎は頷いた。
「葉子さんは、多分……勝手に決めたから、怒ったんだと思うな」
 うぅーと、柔らかな頬が膝頭に押し当てられる。
 太郎の脳裏に、白狐の暗い顔が浮かんだ。
「火羅さんも、色々と気を回してくれたんだろうけど……」
 最後に見た火羅は、様子がおかしかった。時々火羅はそうなる。虚ろになるときがある。
 色々と辛い目にあったからだろう。
 可愛がっていた従者に死なれ、妖虎に破れ、父と一族に裏切られ――紅蓮の洞窟で会ったとき、心はほとんど壊れていた。姫様の呼びかけで、何とか自分を取り戻したのだ。
 それからすぐに九尾の大妖と相対した。
 縁を絶ち切られていく姫様に、取り戻したばかりの心を痛め、悩んだ末に皆に眠り薬を呑ませ、自ら玉藻御前の前に身を投げ出そうとした。
 平静なのが、おかしいのだ。
「でも――いいや、もう。どうにもならないもの」
 はぁと、諦めた表情になると、
「何かあったら、その時考えます」
 ね、と、姫様は寂しげに微笑んだ。
「大事がないといいが」
「大事になったら、太郎さんが助けてくれますよね」
「そりゃあ、おお、もちろんだ」
「きっと大丈夫ですよ」
 姫様が、膝から離れた。
「朱桜ちゃん……綺麗だったな」
 黒い、姫様に似た鬼。禍々しかった。
 大妖の血を受け継いでいるのだと、見る者を納得させる姿だった。
「あれが、朱桜ちゃんの鬼の姿なんだよね。大きな妖気。美しい顔立ちで、身体には膨らみがあって……」
 姫様は、太郎を見据えた。
「目を奪われました?」
「いいや」
 朱桜よりも、鬼になっても抱擁したまま離さない姫様が心配でならなかった。
 『あの』朱桜なら、姫様の脆い身体を簡単に壊せたのだ。それこそ息をするように、姫様を殺せたのだ。危うい橋を、平然と渡っていたのだ。
「本当に? あんなに魅力的だったのに?」
「……俺って、信用ないのか?」
 しょんぼりとする太郎に向けられていた姫様の目が、大きく見開かれた。
「……だって、気になるんだもの。太郎さんのこと、好きだから、気になるんだもの」
 心当たりがあった。だから、爪に視線を落とした姫様を前にして、太郎は押し黙った。
「私だけ、身体貧相だから……いっぱい食べてるし、火羅さんに教えてもらったやり方、毎日してるのに、全然、子供のままで。私ね、五年前の着物、着れるんだよ。旅の用意してた時、着れたんだよ。葉子さん、懐かしいって言ってたけど、火羅さん、憐れんでいたもの」
 いじらしいと思った。 
「……姫様、可愛いなぁ」
 苦笑いを浮かべた妖狼を、禍々しい神気が襲う。
 そして太郎は、手もなく姫様に押し倒されていた。
「可愛い? 可愛い!? 子供っぽいということですか!?」
 声が響く。責めるように、苛むように。
「ち、違、そうじゃなくて」
「このぉ! やっぱりそうなんですね! 私は、私の、私が!」
 何度も叩きにくる姫様の繊細な手首を、神経を尖らせながら掴みとると、太郎はくるりと身体を入れ替えた。
「お、落ち着け、姫様!」
「う、うう――」
 じたばたしていた姫様の力が、すっと抜けた。
 手首を離すと、枯れ草の上にぽとんと落ちた。
「太郎さんにとって私は、子供なんだ。ずっと子供なんだ。女として、見てくれないんだ」
 横を向き、愁いを帯びた声を出した。
「……そんなこたぁねぇよ、姫様」
 宥めるような言い方。いつの間にこんな言葉遣いを覚えたのだろうと束の間考えた。
「痩せてて、平坦で……知ってるよね。昨日、見たんだものね。魅力、なかったでしょ。本当は、なかったんでしょ? いいよ、わかってるから。太郎さんの言葉、嬉しかったけど、わかってるから。みんなみんな綺麗で、綺麗になって、私だけ子供で、見劣りするもんね」
 拗ねていた。
「だから、そんなことないよ姫様。姫様、一番綺麗だよ」
 拗ねた顔も、嫌いじゃなかった。
「私は、そう思わない」
「俺は、そう思う。文句あっか?」 
「……証が」
「証?」
「証が、欲しい」
 やっぱり、信用されてないんだなと、太郎は悲しくなった。
 哀しくなって、そして、段々と腹が立ってきた。
 首筋に目を向け、いやと思い直すと、太郎は姫様の衿に手をかけずらし、右肩を露わにさせた。
 白雪をまぶしたような肩が眩しくて、妖狼は金銀妖瞳を細めた。
 何をと、姫様の困惑した、怯えすらある表情。扇情的だった。理性を、やんわりと崩した。
 頭がついていかないようで、身体は固まっていて、息をすることすら忘れている。
 妖狼は――ゆっくりと、姫様の肩に、噛みついた。  
「くっ」
 牙をほんの少し肌に食い込ませると、甘やかな息が、耳元を駆け抜けた。
 太郎は、血が出る前に牙を離した。
「証」
 朱い点が二つ、白い肌の上に乗った。姫様は、細首を傾け傷を見やった。見えるように傷を残した。
 じんわりと肌が紅潮し始めると、傷はいっそう朱くなった。
「一日で消えるだろうけど、証だ」
 小妖達が、結界の周りに姿を見せ始めた。葉子や黒之助が姿を現すのも、時間の問題だろう。
 隠れんぼは、お終いだ。
「ああ、うん、うん」
 伸びやかな指先が、確かめるように傷に触れた。
 何をやっているんだと、太郎は思った。嫌われたんじゃないかと、急に怯えが襲ってきた。
「証です」
 姫様が恥じらいの笑みを見せる。  
 好きだと、あらためて思った。
 心底、惚れているのだと思った。
 また毀れそうになった理性を、周囲の状況が何とか押し止めた。
「私、葉子さんに、謝る」
「そうだな」
 起きあがろうとする気配を感じ、身体をどけた。
 小妖達が見ているのではと今さらながら太郎は肝を冷やした。 
 襟元を正し、肩を納め、屈託なく心地よさげに笑った姫様は、
「朱桜ちゃんが苦しそうだったとき、私ね……いい気味だって、思ったの」
「ずっと、だもんな。姫様、ずっと心を痛めてるのに」
「それもあるけど……楽しかったから。うん、とても楽しかったから。だから、朱桜ちゃんも、そして葉子さんも、嫌だった、邪魔されて。でも、また幸せだから」
 姫様を抱き寄せたのは、妖狼だった。
 華奢である。
 華奢な身体を、力いっぱい――それこそ痛いほどに――抱き締めた。
 そして、耳元で囁いた。
「ずっと幸せにするから」
 こくんと頷いて姫様は、身体を離し、結界を解いた。



 白狐と互いに泣いて謝って。
 黒鴉に頭を撫でられて。
 目聡い真紅の妖狼に、湯船の中で、冷やかされて。
 鬼の童子は一人怯え、鬼の姫君は姉を慕い。
 そうして姫様初めての、自分の足での長いお出かけは、色々な余韻を残しながら、静かな終わりを迎えたとさ。