あやかし姫~跡目争い(22)~
「今日は……今日も、来ないのか」
黒之助は忙しく、あまり会いに来れなかった。
大切にしていた人の娘が姿を消したのだそうだ。
本当に人の娘なのかどうか、怪しいものだとなずなは思う。
あの瀧夜叉に妖猿と、互角に渡り合ったのだ。
「来てくれないのか」
生き残ることが出来た。
瀧夜叉は、死んだ。
妖猿も、死んだ。
あれは一本気だった。本気で乱の成功を目指していた。
私は中途半端だった。大天狗様を倒そうとは思っていなかった。
そのお陰か、同士の大半が生き残った。
綱姫は手心を加えてくれたようだ。
「っつ――」
濁った夜風が羽に滲みる。
もう、飛べない。
命は助かったが、羽は失った。綱姫の妖気が、羽を蝕んだ。
このまま、この牢獄で、一生を終えるのだろう。
黒之丞も同じ牢獄に入っていた。
瀧夜叉の父は、酒呑童子ではなく、黒夜叉だったそうだ。あの宝玉に魅せられた、愚かな鬼――そう思うと、哀れだった。あの宝玉は、様々なものを狂わせた。
あの石ころさえなければ、きっと――ひんやりとした、黒木の格子に、触れる。
鎖が、じゃらんと、音を奏でた。
「未練だ」
黒之丞は人の女と結ばれた。
黒之助があれほど狼狽するのだから、きっと、あの人の娘と、いい仲なのだろう。
私は、もう、過去だ。
幸せになればいいと、思う。
「未練だ――よ」
遠くから見るだけだった私は、もう、過去なのだ。
「未練?」
ひしゃげた声だった。
獣の妖気だった。何の感慨もなかった。遅かったなとだけ、思った。
「私も、殺しに来たのか」
白い装束。金色の毛。傷で縫われた両目――瀧夜叉を殺した、南の妖狼。
「骨が折れ候」
金咬が、そう、言った。
「そうか……ここまで来れば、容易いぞ」
両足にも、両手にも、封印の呪を施した枷が嵌められている。
赤子の手を捻るよりも容易いだろう。
「楽に、してくれ……幸せになってほしいけど、見たくない」
「殊勝」
殺しやすいよう、薄衣一枚の身体を格子に押し当てた。
胸に爪が伸びた。
堅い音がした。
錫杖が、凛と鳴った。
「ぬ?」
「拙者が、当たりか」
逞しい背中だった。
見事な黒羽だった。
様々な色が織り込まれた、美しい羽だ。
「下がっていろ」
「く、黒之助?」
「待ち伏せ?」
「大天狗様の読みが、当たったな」
黒之助の足下に、小さな風の渦が生じた。
「金咬……なずな殿には、毛一本触れさせぬよ」
風が、広がる。
気持ちのいい風だった。
くふりと笑った金咬の姿が忽然と溶ける。
なずなは、唖然としていた。
「黒之助、これは、どういう」
「瀧夜叉と同じように、お主も狙われるのではと、大天狗様は考えたのだ」
「囮か……大天狗様、らしい」
空気が激しく揺れた。
黒之助が、錫杖で受けた。
姿は見えないが、確かにいる。
二度三度と、黒之助が錫杖で受け流した。動きが、悪かった。傷のせいに違いない。
それでも受けられたのは、周囲に張り巡らした風で、動きを読んでいるからだろう。
「ちぃっ!」
小さく呪いを唱えると、四方に稲妻が奔った。
ぷすりと煙。焼ける匂い。何かが倒れる。
黒之助が、首を捻った。
血が噴き出し、天井に張り付いた狼が見えた。
「一匹ではないか」
拭うこともせず、黒之助は淡々と言った。
「勿論。ああ、お前の仲間は、亡い」
「……一網打尽にしてくれる!」
「甘い」
狼が牙を剥いた。金咬ではない。地面すれすれを奔った。なずなの喉を狙っていた。
咄嗟に差し出された黒之助の手首の肉を、狼は咬み千切った。
「甘い甘い」
「くぬ!
錫杖が狼の頭を砕いた。
黒之助が、血を吐いた。
「仲間を、盾に」
「主のために死ぬは、本望」
「確かに」
金咬の爪は、頭を砕かれた妖狼の身体ごと、黒之助の身体を貫いていた。
「黒之助、あの時の傷が、まだ」
「……大したことではない」
錫杖を捨て、腕を掴む。
金咬は、腕を引き抜こうとしたが、黒之助の剛力によってかなわなかった。
ならばと臓腑を傷つける。血を吐いたが、腕を離そうとはしなかった。
高らかな、呪いだった。黒之助の身体が、黄金色に輝いた。
黒い塵が、ようと舞う。
盾になった狼も、金咬も、稲妻に焼かれ、塵と化した。
黒之助は、立っているのがやっとだった。
ぐらついた。それでも、立っていた。黒之助が膝をつく姿を覚えていないことに、なずなは思い当たった。
なずなは、口を押さえた。黒之助の羽の向こうに、金色の毛が見えた。
「甘い」
狼の爪。目を閉じた。錫杖は鳴らない。骨と肉の捻れる音がした。
「黒之助!」
格子越しに、黒之助の身体を支えた。死ぬなら、一緒だった。未練だった。
金咬の追撃が、来ない。
目を向けた。
金咬の身体があった。
首が不自然な位置にある。身体と、逆しまなのだ。
闇に浮かぶ白い腕が、その頭に寄せられてた。
「あー?」
少女の顔。突如、浮かび上がった。少女の身体が、浮かび上がった。
瀧夜叉と争っていた少女と、似ていた。
金咬が、倒れる。死んでいた。
細腕が、頭に伸びる。ごきりと首を、捻じ切った。
「姫さん……」
「うー、うー……太郎さんに、これ、見せてくる。太郎さんに、褒めて、もらう」
「駄目だ、駄目だ、姫さん!」
「褒めて、もらう」
「姫……さん」
少女が消えると、黒之助が膝を着いた。
狡いと、なずなは思った。それから、強く抱き締めた。長く触れていたかった。
「太郎、さん、太郎、さん」
「姫様」
「これ、これね、ほら、ほらね」
「金咬……」
「褒めて、褒めて、褒めて」
「……ああ」
「嬉しいな、嬉しいな。もっともっと、褒めてほしいな」
突如現れた姫様は、首を置いて、すぐに消えた。
「姫様、あたいが」
「彩花姉様、わたしのこと」
「……なんだよ、触れもしなかったぞ。ちく、しょう……」
赤子のような姫様の笑みが、金銀妖瞳に焼き付いていた。
「あの、役立たずめ」
男が、言った。
「この国の妖は、役立たずばかりだ。鬼も、然り。脆弱だ」
男が、面白がるように、言った。
「それが、面白い。なぁ、姉上」
男が、喉を鳴らす。
海の匂いを纏った数多の妖が、黒く濡れた砂浜で、恭しく傅いた。
「……容易く、牢を破るか」
「あ、うー?」
「眠れ。今は、もう少し」
「……厭」
六っつの蛇が、翁の向こうで、首をもたげた。
「太郎さんに、褒めてもらぅ」
少女も、無垢に、首を傾げた。
「怖い……怖い、怖い」
「ど、どうしたの?」
「あれが、あやつが」
赤子のように怯え、しがみついてきた彩華を、心配そうに火羅はあやした。
「彩花さんのこと? 彩花さんがどうかしたの? ……震えてるじゃない」
「……火羅ぁ、妾は、妾は、もっと」
蛇が、落ちていた。
翁の姿をした、蛇だった。
黒之助は忙しく、あまり会いに来れなかった。
大切にしていた人の娘が姿を消したのだそうだ。
本当に人の娘なのかどうか、怪しいものだとなずなは思う。
あの瀧夜叉に妖猿と、互角に渡り合ったのだ。
「来てくれないのか」
生き残ることが出来た。
瀧夜叉は、死んだ。
妖猿も、死んだ。
あれは一本気だった。本気で乱の成功を目指していた。
私は中途半端だった。大天狗様を倒そうとは思っていなかった。
そのお陰か、同士の大半が生き残った。
綱姫は手心を加えてくれたようだ。
「っつ――」
濁った夜風が羽に滲みる。
もう、飛べない。
命は助かったが、羽は失った。綱姫の妖気が、羽を蝕んだ。
このまま、この牢獄で、一生を終えるのだろう。
黒之丞も同じ牢獄に入っていた。
瀧夜叉の父は、酒呑童子ではなく、黒夜叉だったそうだ。あの宝玉に魅せられた、愚かな鬼――そう思うと、哀れだった。あの宝玉は、様々なものを狂わせた。
あの石ころさえなければ、きっと――ひんやりとした、黒木の格子に、触れる。
鎖が、じゃらんと、音を奏でた。
「未練だ」
黒之丞は人の女と結ばれた。
黒之助があれほど狼狽するのだから、きっと、あの人の娘と、いい仲なのだろう。
私は、もう、過去だ。
幸せになればいいと、思う。
「未練だ――よ」
遠くから見るだけだった私は、もう、過去なのだ。
「未練?」
ひしゃげた声だった。
獣の妖気だった。何の感慨もなかった。遅かったなとだけ、思った。
「私も、殺しに来たのか」
白い装束。金色の毛。傷で縫われた両目――瀧夜叉を殺した、南の妖狼。
「骨が折れ候」
金咬が、そう、言った。
「そうか……ここまで来れば、容易いぞ」
両足にも、両手にも、封印の呪を施した枷が嵌められている。
赤子の手を捻るよりも容易いだろう。
「楽に、してくれ……幸せになってほしいけど、見たくない」
「殊勝」
殺しやすいよう、薄衣一枚の身体を格子に押し当てた。
胸に爪が伸びた。
堅い音がした。
錫杖が、凛と鳴った。
「ぬ?」
「拙者が、当たりか」
逞しい背中だった。
見事な黒羽だった。
様々な色が織り込まれた、美しい羽だ。
「下がっていろ」
「く、黒之助?」
「待ち伏せ?」
「大天狗様の読みが、当たったな」
黒之助の足下に、小さな風の渦が生じた。
「金咬……なずな殿には、毛一本触れさせぬよ」
風が、広がる。
気持ちのいい風だった。
くふりと笑った金咬の姿が忽然と溶ける。
なずなは、唖然としていた。
「黒之助、これは、どういう」
「瀧夜叉と同じように、お主も狙われるのではと、大天狗様は考えたのだ」
「囮か……大天狗様、らしい」
空気が激しく揺れた。
黒之助が、錫杖で受けた。
姿は見えないが、確かにいる。
二度三度と、黒之助が錫杖で受け流した。動きが、悪かった。傷のせいに違いない。
それでも受けられたのは、周囲に張り巡らした風で、動きを読んでいるからだろう。
「ちぃっ!」
小さく呪いを唱えると、四方に稲妻が奔った。
ぷすりと煙。焼ける匂い。何かが倒れる。
黒之助が、首を捻った。
血が噴き出し、天井に張り付いた狼が見えた。
「一匹ではないか」
拭うこともせず、黒之助は淡々と言った。
「勿論。ああ、お前の仲間は、亡い」
「……一網打尽にしてくれる!」
「甘い」
狼が牙を剥いた。金咬ではない。地面すれすれを奔った。なずなの喉を狙っていた。
咄嗟に差し出された黒之助の手首の肉を、狼は咬み千切った。
「甘い甘い」
「くぬ!
錫杖が狼の頭を砕いた。
黒之助が、血を吐いた。
「仲間を、盾に」
「主のために死ぬは、本望」
「確かに」
金咬の爪は、頭を砕かれた妖狼の身体ごと、黒之助の身体を貫いていた。
「黒之助、あの時の傷が、まだ」
「……大したことではない」
錫杖を捨て、腕を掴む。
金咬は、腕を引き抜こうとしたが、黒之助の剛力によってかなわなかった。
ならばと臓腑を傷つける。血を吐いたが、腕を離そうとはしなかった。
高らかな、呪いだった。黒之助の身体が、黄金色に輝いた。
黒い塵が、ようと舞う。
盾になった狼も、金咬も、稲妻に焼かれ、塵と化した。
黒之助は、立っているのがやっとだった。
ぐらついた。それでも、立っていた。黒之助が膝をつく姿を覚えていないことに、なずなは思い当たった。
なずなは、口を押さえた。黒之助の羽の向こうに、金色の毛が見えた。
「甘い」
狼の爪。目を閉じた。錫杖は鳴らない。骨と肉の捻れる音がした。
「黒之助!」
格子越しに、黒之助の身体を支えた。死ぬなら、一緒だった。未練だった。
金咬の追撃が、来ない。
目を向けた。
金咬の身体があった。
首が不自然な位置にある。身体と、逆しまなのだ。
闇に浮かぶ白い腕が、その頭に寄せられてた。
「あー?」
少女の顔。突如、浮かび上がった。少女の身体が、浮かび上がった。
瀧夜叉と争っていた少女と、似ていた。
金咬が、倒れる。死んでいた。
細腕が、頭に伸びる。ごきりと首を、捻じ切った。
「姫さん……」
「うー、うー……太郎さんに、これ、見せてくる。太郎さんに、褒めて、もらう」
「駄目だ、駄目だ、姫さん!」
「褒めて、もらう」
「姫……さん」
少女が消えると、黒之助が膝を着いた。
狡いと、なずなは思った。それから、強く抱き締めた。長く触れていたかった。
「太郎、さん、太郎、さん」
「姫様」
「これ、これね、ほら、ほらね」
「金咬……」
「褒めて、褒めて、褒めて」
「……ああ」
「嬉しいな、嬉しいな。もっともっと、褒めてほしいな」
突如現れた姫様は、首を置いて、すぐに消えた。
「姫様、あたいが」
「彩花姉様、わたしのこと」
「……なんだよ、触れもしなかったぞ。ちく、しょう……」
赤子のような姫様の笑みが、金銀妖瞳に焼き付いていた。
「あの、役立たずめ」
男が、言った。
「この国の妖は、役立たずばかりだ。鬼も、然り。脆弱だ」
男が、面白がるように、言った。
「それが、面白い。なぁ、姉上」
男が、喉を鳴らす。
海の匂いを纏った数多の妖が、黒く濡れた砂浜で、恭しく傅いた。
「……容易く、牢を破るか」
「あ、うー?」
「眠れ。今は、もう少し」
「……厭」
六っつの蛇が、翁の向こうで、首をもたげた。
「太郎さんに、褒めてもらぅ」
少女も、無垢に、首を傾げた。
「怖い……怖い、怖い」
「ど、どうしたの?」
「あれが、あやつが」
赤子のように怯え、しがみついてきた彩華を、心配そうに火羅はあやした。
「彩花さんのこと? 彩花さんがどうかしたの? ……震えてるじゃない」
「……火羅ぁ、妾は、妾は、もっと」
蛇が、落ちていた。
翁の姿をした、蛇だった。