小説置き場2

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あやかし姫~跡目争い(39)~

 葉子の白い爪、朱桜の黒い霞。
 姫様に接するほんの僅か、ぎりぎりのところで、押し止まった。
「どうしてさ、姫様。どうしてなのさ」
 揺れる白尾、立ち上る八本の影。
 隻腕の女怪は、自分の命を磨り減らし、かっての姿を取り戻す。
「何故なのです、彩花姉様。何故、ここまで、変わってしまったのですか?」
 禍々しい霞が、姫様によく似た鬼を象る。
 強く歪んだ想いを、黒い障気として身に纏う。
 二人が、呻いた。
 どれだけ変わっても、姫様を――娘であり姉である大切な人を、傷つけられるわけがなかった。
 そう、二人には出来なかった。
 信じていたのだ。
 妖としての本能が、彩花を喰ったという姫様の形をした何かに、殺気として噴き出した。
 その流れを押し止めたのは、二人の情。
 同じ形。
 ならば姫様だと。
 姫様のはずだと。
「怒ったり泣いたり、忙しいことですね」
 姫様は、溜息混じりにそう言って、肩を竦ませた。
 そして、何度も唸る葉子の額を、人差し指で軽く突いた。
「まことに、怖い、怖い」
 葉子の白髪が逆立ち、九尾の狐の影が消えた。
 衝撃が抜け、頭の中がぐわんとかき混ざり、目がぐるんと廻った。
 ゆっくりと、景色が動く。空が、見える。大の字に倒れた。倒れ、胸の内が崩れる音を聞いた。
 元々、何が何だかわからなくなってはいたけれど――姫様に躊躇なく力を振るわれ、葉子の心にひびが入った。
「怖い、お母さん」
 獣の顔に変じた葉美が、牙を剥いた。
 飛びかからなかったのは、お腹の子と、おぞましいほどの力を間近で見ていたからだ。
 目を見開いたまま、何かを呟き始めた葉子に、葉子ねぇ、葉子ねぇと、葉美が這い寄っていく。
 葉子の身体から、力が漏れていた。火羅と同じである。その身に乏しい妖気を、使いきったからだ。
 葉美は、薄くなった葉子の身体に触れると、おのれの妖気を分け与え始めた。
 もう、姫様は、狐の姉妹に目をくれなかった。
 その冷えた眼差しは、固まっている鬼の少女に向けられていた。
「彩花姉様、何を? 葉子さんが、葉子さんが、倒れてしまいましたよ」
「そうだね、朱桜ちゃん――貴方も、そう、なろうか?」
 にこりと、した。
 朱桜の肌が総毛立った。
「彩花姉様がしたのですか?」
 朱桜の目から次々と涙が零れる。
 艶やかな少女の姿になっていても、古寺に預けられたときの幼子の目で、憧れの人を見ていた。
 一心に、慕う――憧れ、真似をし、執着した――偶像、であった。
 その偶像は、冷ややかに、手を、伸ばそうとした。
 いつものように、頭を撫でるような、優しい仕草で。
「貴方がどう考えようと、それは貴方の勝手だけど、貴方の理想を押しつけられても困ります。私は、彩花は、彩華は、躊躇しない質ですよ? 弱肉強食こそ、私達の掟でしょう?」
 そう、言い放った。
 少女の掌で渦巻く、莫大な力。朱桜の纏う霞を、難なく引き千切る。ここにいる妖達の中で、最も強いであろう鬼姫の力を掻き消していく。
 無防備に、口を開けて、子鬼はその光景を見やる。
 赤い眼はそれでも信じていた。
 縋るような眼差しに、少女はただ、嘲りを返した。
「拙者達が育てたのだ。弱肉強食、正しくその通り。姫さんはそういうお人だったが……優しかった。葉子殿を――母と慕った方を、妹と慕ってくれた方を、ためらいなく傷つけられるお人ではなかったよ」
 黒羽が渦を巻き砕け散る。
 黒之助の腕の中で、朱桜がかちと歯を噛み合わせる。
 しゃんと錫杖を鳴らし、なずなに手を出すなと伝える。
 頷いたなずなは、稲荷の主従と、九尾の姉妹、それに沙羅達を、さっと一纏めにした。
 薙刀こそ構えたが、なずなに手を出す気はない。
 姿を見た時点で、勝てないと悟っていたのである。傷がなかったとしても、抗える相手ではないと見定めていた。勝てぬ戦はなるべくしない。黒之助や黒之丞と違う点だ。
 しかし、いざとなれば――腹は括った。
 相手は、渡辺綱と似ている。どこがと言うのは難しいが、しいて言えば、その在り方がだ。
 今使える最強の術、千手の力を、なずなは蓄え始めた。
 綱姫に通じなかった術だが、あの時は一人だった。
 今は、黒之助がいる。
 相手が綱姫を凌ぐとわかっていても、黒之助がいれば十分で、黒之丞がいないことを残念に思った。
「知らなかっただけじゃないのかな。みんな、みんな、隠し事が多かったでしょう? 私が……辛くないと、思った?」
「……拙者も、辛く」
 黒之助は言い淀んだ。
 知らなかった――自分は知らなかったのだと、あらためて思った。
 古寺の暮らしは、穏やかで、騒がしく――心から好きで、好きだったからこそ目を瞑っていたから、黒之助は、言い淀んだ。
 危ういものだとわかっていた。
 葉子も太郎も頭領も、黒之助自身も、そうだ。一癖も二癖もある人物ばかりである。波風なく過ごせたのが奇蹟のような面子だ。
 そして、姫様も。
 破綻は必然だった。
 それでも守りたかったのだ。
「だから、何? クロさんも辛かった、だから私に我慢しろと? そんなのやだよ」
 首を振る。
 少女が何度も首を振る。
 その姿が懐かしかった。
 幼い頃の姫様の仕草だった。
「私は、私は!」
「ああ、そうか。そういうことか」
 妖狼が、言った。
 言って頭を掻き乱した。
「……太郎さん?」
「姫様、いるんだな」
 葉子が、太郎を見た。
 黒之助が、太郎を見た。
「……私の話、聞いてたの? 太郎さん達が知ってる姫様はね、もう、いないの。さっき、自分で言ってたよね」
「いるさ」
「どこに? 彩華も彩花も食べちゃったんだよ? 私の中でどろどろに溶けて消えちゃったんだよ」
 朱桜の眼に力が戻る。
 ほんの束の間のことで、姫様を見ると萎んでいった。
 ごめんなさいですと、言う。
 もう、火羅と喧嘩しないです。
 だから、だから、彩花姉様と。
「どんな力を持とうと、人でも、妖でも、神でもなくて、何だかよくわからなくても、姫様は姫様で、俺は姫様のこと、好きなんだよ」
「わからない方ですね。私は、もう、太郎さんのことなんて、好きですよ……はい?」
「ほらな。姫様が簡単に喰われてたまるか。俺が心底惚れた人だぞ」
 にかっと、尾を振りながら、そう、言った。
「てめぇ、ちょっと黙ってろ。俺の頭の中でぎゃーぎゃーうるせぇんだよ」
 何かを追い払うように、全身を振るわせ、金銀妖瞳で姫様を見やる。
 子供のような無垢な笑み、ただ純粋に好意だけを向けて。
「うるさい、なぁ」
「……お前、言ったな? 歪みがあの女で、中身がお前で、姫様は蓋だったって。違うんだろう?」
「うるさいと、言ってるよね。私の言うことがわかんないの! お前の好きな彩花は消えたの。消えたと何度も言ってるでしょ! 私を、この私を見ろ! この死に損ない、もう死んでるくせに、うるさいうるさい!」
 歪んでいた。
 余裕が消え、綺麗な形が、歪みに歪んだ。
「ああ、そうか……そこか」
 太郎が目を細めた。
 獣がその本性を現した。
 身構えようとした姫様の身体に、生白い腕が絡まる。
 姫様が首を横向けた。
 この場にいる、もう一頭の狼。
 牙を抜かれたはずの、狼。
 火羅の腕だった。
「太郎、様……微力ながら、私達が、力になります」
「頼む」
 ゆっくりと距離を縮める。
 足取りは、軽くも重くもなく、いつものように。
 縁側で日向ぼっこする姫様に、近づくように。
「どういうつもり? 火羅さんの身体は私のものなんだよ」
 まずはと、姫様が呪いを唱える。
 火羅の身体も心も、意のままのはずだった。
 身体を癒し、心を毀して、自分の物にしたのだ。そのために、紛い物の神を参考にして、自分の欠片を火羅の口に含ませたのである。
 呪い一つで火羅の身体に宿った姫様の欠片が蝕む。
 しかし、であった。
 火羅の身体に、変化はなかった。
「いいえ、違うわ」
 狼狽える姫様の目の前で、太郎が牙を剥いた。
 耳元まで裂けた口は、間違いなく狼の顎だった。   
「お馬鹿さんねぇ。この身体は私とあの人のものよ。貴方がそうしてくれたのに」
 ぬっと伸びた蒼白い腕が、渦を作り始めた姫様の手首を掴んだ。
「どうして、お前が!」
 あの人。
「くく、くつ、くつ、くつ。いくら妾でも……ここまでされれば、力になるさ。借りを作るのは、嫌いなのだ」
 彩華、であった。
 火羅の身体から浮き上がった彩華が、姫様の手首を掴んでいた。
「そうさぁ、借りは作らぬよ、彩花」
「待て! 辞め、きさ――太郎さん、お願いしますね」
「おう、心得た」
 そう言って、太郎は、姫様の心ノ臓に牙を突き立てた。