小説置き場2

山岳に寺社仏閣に両生類に爬虫類に妖怪に三国志にetcetc

あやかし姫~跡目争い(40)~

「ごめんね、太郎さん」
「うん」
「ごめんね、ごめんね、太郎さん」
「もう、こんなこと――俺にさせんなよ。絶対にだからな。絶対にさせないでくれよ」
 大きな白い狼が、少女を咥えていた。
 頭を起こした白い少女が、牙をたてる狼の鼻に何度も触れた。
「みんな、ごめんね」
 腰を落とした火羅の頭に、彩華が頬を寄せた。
 葉子が、朱桜が、黒之助が、沙羅が、見やる。
 その少女の顔を、皆、知っていた。
 皆に姫様と呼ばれていた古寺の少女の姿であった。
 葉子がやれやれと額を擦り、朱桜が感極まって黒之助の袖にしがみつく。
 ひびのはいった葉子の指が姫様に見えないよう、黒之助が背中で隠した。
 沙羅の腰が抜け、ぱしゃんと水音がする。なずなと稲荷主従が息を呑む。
 太郎が、慎重に姫様の身体を地面に降ろした。
 横になった姫様の胸、ちょうど心臓のある位置に、ぽっかりと虚ろな穴が空いていた。人ならば、血を吹き出し骨肉が見える大きな穴の筈だが、暗く深く、穴とし言いようのないものとしてそこにあった。
「俺は嫌だよ、姫様」
 ずるりと、彩華が、火羅の身体から剥がれ落ちた。
 厚みの薄い、一糸纏わぬ上半身だけの身体。名残惜しむように火羅の頬を指が伝い、ずるり、ずるりと、彩花に這い寄り始める。腰から下では赤い瘴気が揺らぎ、触れる地面を腐らせる。
 彩華が離れると、火羅の右手と右足が、炭のようにぼろぼろと崩れ落ち、顔にじわじわと火傷が浮かびあがる。火羅を見やった彩華の指先には、白い消し炭がついていた。
 火羅は、やり遂げたのだと、満足げな笑みを浮かべていた。
 彩華は――照れているような、寂しげな笑みを浮かべた。
 行ってと火羅が言い、こくんと彩華は頷いた。
 太郎が、姫様の胸の穴を舐める。
 妖狼の舌には、大切な人の傷を癒す力がある――そう、伝え聞いていた。効果がないのは、知っている。どんなに舐めても、叔父の傷は塞がなかった。馬鹿な真似をしていると、火羅を見て思ったものだ。
 それでも、嘘に縋っていた。
 穴は、ただ穴であり、血も滲んでいない。まるで、姫様が人ではないのだと訴えるように、そこにあった。
 姫様は、太郎を制すると、もう一人の自分を見やった。
「お前、上手くやったな」
 彩華が、言った。
「あの時――あの子供が、火羅の身体に自分の欠片を埋め込ませた時、妾を行かせたのは正解だったな」
 姫様が、頷いた。
 火羅の傷を癒した欠片には、彩華の意識が宿っていたのである。
 まだ、あの時点では、二人の意識が少女の身体の中に残っていたのだ。
 荒れ狂う力の中で、二人は語らった。
 初めて、語らった。
 彩華が言ったように、彩花は知らなかったのだから。彩華が、ずっと内側から見ていて、時折、外に出ていたことを。その存在をはっきりと知っていたのが、太郎と、火羅と、恐らく頭領だけであることも。
 火羅の身体に欠片を埋め込ませようとしていると気づき、一か八か彩華が、彩花の後押しの元、少女の身体から流れ出たのである。
 火羅の心が毀れかけたとき、その身体の中では彩華の意識が甦ろうとしていた。
 そして、その時を――彩花が自分の身体を取り戻す機会を、待っていたのだ。
 呆けたような薄笑いの下で、火羅と彩華は、これからのことを話していたのだ。
「火羅さんに憑くなら、貴方の方がいいと思ったのです。私に大したことは出来ません」
「いや……正しい。お前は、正しかった。妾が、あの幼子と一緒に残っていれば――間違いなく、溶けて糧となったであろう。妾では駄目だった。ああ、そうだ。弱い、からな」
 瘴気が一つの形を成す。
 鱗の生えた、一筋の尾――蛇の形。少女が火羅を苛んだとき、その身体に浮き出た紋様と、同じ形の紋様が、その下半身に刻まれていた。
「所詮……あの翁が施した、呪法の成れの果てなのだから。それでも、妾は楽しかったのだ」
 姫様の傍に着いた彩華が、動きを止め、何かを呟いた。
 火羅が、耳を立てた。
 姫様の胸の穴を、彩華が覗き込む。
 頭上を見やり、心配するなと太郎に泣き笑いの表情を見せた。
「力をうまく削いだなぁ。傷は少し残るやもしれぬが――あの子供が暴れ続けるよりは、ましであろうよ」
「姫様、大丈夫なんだよな」
 太郎が、言った。一心に穴を見やり、彩華は眼中にないようだった。その姿を見て、また、彩華は寂しげな笑みを浮かべた。
「ああ、元の形に、戻るだけよ」
「いえ、違います。元の形には戻りません。貴方は……彩華さんは、彩華さんです。私――彩花とは、違うのです」
 彩華の言葉を、姫様が力なく否定した。
「お前、何をしようとしている?」
「元の形が何であれ、貴方は私の恩人で、私の家族です――姉様」
「……八霊が、彩花の力を封じるために施した呪いの形、自ら切り離した一首の成れの果て、それが妾だと言ったであろう。おかしなことを、お前の姉などではない。傷が深いのか? 荒れ狂う幼子の意識の中で、自我を保つことは、難しかったというのか?」
「また、消えたくはないのでしょう、姉様?」
 またと、姫様は言った。
 彩華が困惑の表情を浮かべた。太郎は、少しずつ、姫様の顔色が悪くなっていることに気がついた。
「一つになるのが、一番容易い。妾はまた呪法の礎になればよい。同じ腹にいたとはいえ、生まれ落ちたのは、お前なのだ。妾には、名前すら……あ? 何じゃ、今のは? 生まれ落ちなかった、じゃと?」
 何を見て、何を知った?
 そう彩華が質すと、姫様は曖昧な笑みを浮かべた。
「違うのですよ。頭領の一首と、もう一つ――現世に生まれ落ちる前に、お腹の中で私と一緒になり消えてしまった姉様を、頭領は封印に使ったのです。姉様が、頭領の首と一つになったのは、玉藻御前様と争ったときでありましょう? 結局、私と、姉様と、頭領の欠片、そしてあの子――四つの意思が、私の身体には存在していたのです。そうしないと、多分……どこかで、ばらばらになっていたでしょう」
 ああ、そうだ、お礼を……今まで、ありがとうございました。
 こんな私を、見守ってくれて。
「一つになると、火羅さんが困ります。私も、少し困ります。こんな機会は、もう、ないです。今なら、やれる。この広い大地を、変化させようとする力、国造りの力、この力を少し借ります」
 太郎さん、立たせてくれませんかと、姫様が言った。
 大きな腕で、掬い上げた。 
「これでいいか」
「ええ。ありがとうございます」
 立ってはみたものの、太郎の腹に身体を預けないと、姿勢を維持できなかった。唇の端から、少し血が滲む。顔色がさらに悪くなっていた。顔色は悪いが、幸せそうだった。
 同じ顔をした二人の少女は、しばらく見つめ合った。顔を背けたのは、彩華だった。
「夢物語を語るな。お前に何が出来る。大人しく、あるべき形に戻れ。妾はもういい。未練はない。時間の無駄だ。いや、時間がないのだ」
「何も、出来なかった。今までは、何も出来なかった。彩華さんに、頼った。太郎さんに、お願いした。みんなに、守られるだけで、何も……でも、私は――」
 姫様が言う。
 大きく、吐血した。
 一息、吸う。
 微笑を、浮かべた。
「私は、あやかし姫ですよ」