落合陽一展に行ってきた②
落合陽一氏の肩書きは、多数ある。
重要なのは、たんなる批評家ではないという点。誤解されがちだけど、不思議な格好の変な話し方をする若者ではない。
若干――言っていることはかなり考えないとわからないし、考えてもわからないことも多いんだけど。
ただ、ここまで追っていれば何となくわかってくるようになってきて、根底は一貫しているように思うのだ。
そして、根本の違い――思考回路の構成が、言語……日本語に重きを置いていないんだろうという意見がしっくりくる。日本語の情報伝達は、実はそこまで多くはない。よく、落合陽一氏の考え方として解像度というキーワードが出てくるのだが、思考回路として数理式があるのではないかと感じている。
だから、日本語で考え日本語で話すよりも、数理式で考えそれを日本語に翻訳するため、落合陽一氏のいっていることがよくわからないときがある。
日本語の情報伝達手段としての解像度が足りず――情報量が不足して、落合陽一氏の話が飛躍していたり意味不明に感じることがある、のかもしれない。
と、前書きが長くなってしまった。
質量への憧憬展では、大量の写真だけではなく、氏の本懐であるメディア・アートも展示されている。
彼を一躍有名にした、波動関連の展示は少なかったが、玉虫とレーザーの光が織りなす相似性は飽きることなく観ることが出来た。
光は刻々と微妙に色合いを変え、その結界は厨子にも使用された昆虫界屈指の輝きを誇る玉虫と似ているというのも、不思議なものである。
生物と無生物が、似通っていく。
それは、生物と数理式が魅せる一つの接点なのかもしれない。
よくよく近くで見ると、ビニールテープでぐるっと巻いてたりして、夏休みの工作感があり、それをしっかりとアート作品として成り立たせているのは、とにもかくにも、落合氏の力量によるものなのだろう。