あやかし姫~姫と火羅(4)~
「いっつ……」
轟煙を巻き起こすと、それは、止まった。
地に、擦り痕。
星が、落ちた。
銀狐は、朱桜ちゃん、よくこんなもの扱えたなと、腰をさすりながら思った。
目的地から随分と離れてしまった。
力を吸い取られた。
頭領の馬の乗り方も相当に荒いが、これもひどい。二度と使いたくない代物であった。
「とにかく……早く行くさね」
奇妙なものを、星から見た。
玉藻御前の館の上を通ったとき、集まっていたのだ。
九尾の一族が。金毛も、銀毛も、全て。集う理由がないにもかかわらず。
「まさかね」
館に向かう。道すがら、失礼のないようにと姿形を整える。
時々、ふわりとした浮遊感に襲われた。
「あの子……」
鬼の子も、初めてだと言っていた。
なのに、きちんと古寺に着き、その後、元気に遊んでいた。
疲れた様子を、一切見せなかった。
「ああ、ったく……」
力の差というものなのだろう。
「葉子殿?」
「……や」
ぜーと、息を吐く。
若い銀狐の集団。
一匹が使いに走り、他の者が葉子を囲んだ。
この光景、葉美が見たらどう思うか。
また、静かに怒るだろう。
「葉子殿も来られたんすね」
「これで百人力ってもんでさ」
「……ちょ、ちょっと待つさね」
息を整える。整えながら、考える。
これから、何が始まるのか。
玉藻御前が、何をしようとしているのか。
九尾が集まることは、珍しい。
年に二度、あるかないかだ。
どうして、今日、集まっている?
あたいには報せは来ていない。木助の手紙にも、そのようなことは書かれていなかった。
「お姉様」
九尾の銀狐が二匹、走り寄る。一匹の美しい狐が、変じる。
葉子に似た女が現れた。似てはいるが、冷たい容貌であった。
刃の切っ先のような、触れば、すっと斬れそうな妖気を纏っていた。
前を走っていた狐は、すぐさまかしづいた。
「葉美」
葉子の妹の葉美だった。
思わず、使いの狐に悪態をつきたくなった。木助を呼んでくればいいのに、よりによってと。
いや――と、考え直す。こっちの方が良いかも。
だって、あたいと葉美の仲は……
周りに集まっていた若い衆が、気まずそうに膝をつき、頭を垂れた。
葉子も、膝をつき、頭を垂れた。
「どうしてここへ? お姉様も呼ばれたのですか?」
葉美の声は、不機嫌なものであった。
多分、周りの者はわからないだろう。
葉子と木助、それに玉藻御前ぐらいだろうか。
この、微妙な差異がわかるのは。
やっぱり、木助の方が良かったと思った。
「……いや。あたいは私用だ」
「私用……何ですか?」
「玉藻御前にお話ししたいことがあって」
「……いいでしょう」
踵を返す。
ついてこいということだろう。
葉子は、葉美の背を追った。
狐。
殺気立っていた。
木助が、いた。
何か、指図をしていた。
金の一族の頭も、その隣にいた。
葉美は、わざと、集まりの中心を突っ切ったようだった。
木助が、気づいた。
葉子は、手を少し上げて、挨拶した。
木助はしかめっ面を浮かべていた。
金の頭に話しかけられ、ああと受けていた。
「これから何が始まるのさ?」
「呼ばれていない方には、関係ありません」
「それはそうだけど……」
拒絶されている。
背が、苛立っていた。
「ほら、葉美。あそこ、懐かしいね」
二人で遊んだ館の木。
登り、降りられなくなり、しょうがないねと葉子が背負ってやった。
「お姉様、くだらない思い出話など聞きたくありません」
振り向きもせず、そう、きっぱりと言った。
しゅんと葉子は肩を落とした。仲が縮まってきたと思っていたのに。
これでは、以前と同じではないかと。
それから、姉妹は、一言も会話を交わさなかった。
手をかざし、結界を成す呪符を、次々と無造作に破り捨てていく。
まるで、薄い紙切れのように易々と。
太郎は、無言で結界を破っていく姫様に、目を見張っていた。
この姫様は、知っている。
あの女では、ない。
だが、これほどの力……。
結界の呪符は、一枚一枚が強いもので。
さらに、多重に組み合わさって、金剛石のように堅牢なものになっていた。
葉子でも、三人の中で一番術に長けている黒之助でも、崩せはしないはずだ。
それを、姫様は苦もなく行っている。
格子状の、九字の印が描かれた符が、千切れ紙となる。
風もないのに、残骸が洞窟を踊る。
姫様が呪符に手をかざすたびに、ほんの一瞬、光が沸いた。
その様は、見惚れてしまうものであった。
あの女の影はないけれど、どうしても近いものを感じてしまう。それが、また、良かった。
「これで終わり」
最後の一枚を、破り捨てる。
札の残骸が、さらと一斉に風化し、消えていった。
「ねぇ、太郎さん」
「ああ?」
「……訊かないんだね」
「何を?」
ぴょこんと、耳を立てた。
「理由を……私が、こんなことをする理由を」
二人は、止めた。力ずくでも、止めようとした。
「別に、訊く必要ないからな」
「……」
「俺は、そう思ってるから……気にすんな」
「……うん。火羅さん!」
結界が消えるのと同じくして、硫黄の臭いが、太郎の鼻についた。
光が見える。
洞窟の先。
結界が消えるまでは、ただの闇であった。
迷わず、太郎は光のある方へ歩を進めた。
硫黄の臭いに混じって、妖狼の匂いがあった。
妖狼がいつも身に着けていた、香の匂いが。
姫様が、妖狼の頭に手を置いた。
熱くなっていた。
「おう」
開けた場所にでた。
硫黄の臭いが、強くあった。
壁が、赤く、胎動している。時折、煙が噴き出ている。
姫様は、探した。火羅を、探した。
気配を探ったが、なかった。
「いない……」
「いや、いる。火羅の匂いがある」
「ふ、ふふ……」
小さく、暗い、嗤い声。
姫様が、太郎の背から降りた。
もう、妖狼は止めなかった。
よろりと、歩み始める。
太郎も、歩み始める。
――火羅が、いた。
白銀に輝く鎖に縛られていた。虚ろな視線を宙に投げかけ、嗤っていた。
痛い――
胸が、痛い――
「あの子の、声が、する、する……あは……あはは」
正気を失っている。
そう、太郎は思った。
瞳に狂気の光を宿している。
涙が、灼熱洞の光をきらりと反射した。
「行こう……」
姫様が、火羅に手を伸ばした。
「触らないで!」
泣きながら、そう、牙を剥いた。
「嫌よ。もう、嫌。もう、やめてよ。どうして、私が……どうしてよ! どうして、私だけなのよ! もういい、もうたくさん! 弄ばれるのは、嫌!」
身をよじる。
鎖がじゃらじゃらと音をたてる。
太郎には、どうすることも出来なかった。
「私です、火羅さん……彩花です」
牙を剥き、ううと唸り続けている。
姫様が鎖に触れた。
一縛り、二縛りと、消えていく。
右手が降ろされ、左手が降ろされ、両膝を地面につけると、焦点の合わぬ目を、火羅は姫様に向けた。
鎖が全て消えた。
唸りを、やめる。狂気の火は、灯ったままだった。
「ふ、ふふふ……まだ、汚し足りないの? 貴方は、私の初めての人。私を抱いて、……足りないのね。抉り足りないのね。じゃあ、何度でも抉ってあげる。その目を、私が!」
「ぐっ!」
二人の、呻き。
「はは……どう? 消えてよ! 貴方は死んだのよ! 早く消えてよ! 私の前から、いなくなってよ! お願いだから……お願い、だから」
ぽたりと、姫様の眉から、血が、落ちる。
太郎の手の甲から、血が、落ちる。
火羅は、姫様の眼を、爪で狙った。
太郎が、防ごうとした。
そして、二人は傷ついた。
「違う……臭い……」
人の血の臭い――
妖狼の血の臭い――
血の着いた爪を、火羅が、見やる。
狂気の火が、弱くなった。
そう、太郎は思った。手の傷が灼ける。気にならなかった。
姫様の傷も灼けている。気にならないようであった。
「ねぇ……私も、太郎さんも、貴方の傍にいるから」
優しく言い聞かす。
火羅が、身を小さくした。
唇がわなと震えた。言葉を紡ごうとしても、出てこない、そんな様子であった。
姫様は、待った。
火羅の言葉を、待った。その間も、血は流れ続けた。
姫様の右目が、燃えるように、赤く染まっていた。
「彩花さん……太郎様……違う、ここにいるはずがない。幻よ、きっと。ここにいるのは火龍だけよ」
火羅には、火龍が見えた。
苛まれ悶える、自分が見えた。
幾重に幾重にも、万華鏡のようにその光景は広がっている。
あちらで、背を灼かれる自分がいれば、あちらで、少しの期待を抱いた自分がいる。
あの時の全てを、この場所は、映し出していた。
火羅が、この場所を恐れていたから、父は、幽閉先に、ここを選んだ。
「火龍はもう、いません」
「本物のわけがない。そんなことしちゃ駄目。そんなことしたら、迷惑が」
戻っていく。
心が、過去から、現在へと。
「迷惑じゃないよ。迷惑なわけ、ないよ」
「お願いだから。迷惑は掛けたくないの……これは夢なのよ。そう、私は火龍に抱かれ、灼かれ、朽ち果てた。あの時、私は死んだのよ」
「行こう、火羅さん」
「違う……こんなこと、あるはずがない。貴方に抱かれるはずがない。これは、この温もりは、幻想よ」
赤子のように泣きじゃくった。
赤子になすように、慈しんだ。
「太郎さん、背中を貸して」
乗せやすいようにと腹這いになると、妖狼は、
「姫様、傷、」
そう、言った。
「大丈夫だから……大したこと、ないから」
火羅の耳にも届くよう、大きな声を出した。
庇った太郎の方が、傷は深そうだった。
傷口が煙を立てている。
「嫌だ……私を見てくれる人は、もう、」
また、火羅が言った。
「いるよ」
妖狼の背に座る。火羅を抱えたまま。
火羅は、軽かった。
あの時の重さは、なかった。
「私が、います」
右目を閉じた。
血で、滲みる。
「いないの……私は、いらない子なの。だから、父上に捨てられたの」
幼さを、姫様は感じとった。
「もういいから。火羅さんは、休んでいいから」
「休んで、いいの?」
「いいよ」
「いいの、ねぇ、いいの?」
同じことを、尋ねる。
ねだるように、甘えるように。
「休んで、いいよ。その間、火羅さんは私が守るから」
「守ってくれるの?」
「うん」
「う、うぁ……守ってくれるの?」
「守るよ」
その言葉は、火羅が、ずっと聞きたかった言葉。
数百年の時を経て、やっと手にした言葉。
火龍の骸が、火羅の景色から、消えた。
「じゃあ、じゃあ、休むね。ねぇ、彩花さん」
「……どうしたの?」
「嬉しい」
火羅の目に、人の娘の姿が、宿った。
轟煙を巻き起こすと、それは、止まった。
地に、擦り痕。
星が、落ちた。
銀狐は、朱桜ちゃん、よくこんなもの扱えたなと、腰をさすりながら思った。
目的地から随分と離れてしまった。
力を吸い取られた。
頭領の馬の乗り方も相当に荒いが、これもひどい。二度と使いたくない代物であった。
「とにかく……早く行くさね」
奇妙なものを、星から見た。
玉藻御前の館の上を通ったとき、集まっていたのだ。
九尾の一族が。金毛も、銀毛も、全て。集う理由がないにもかかわらず。
「まさかね」
館に向かう。道すがら、失礼のないようにと姿形を整える。
時々、ふわりとした浮遊感に襲われた。
「あの子……」
鬼の子も、初めてだと言っていた。
なのに、きちんと古寺に着き、その後、元気に遊んでいた。
疲れた様子を、一切見せなかった。
「ああ、ったく……」
力の差というものなのだろう。
「葉子殿?」
「……や」
ぜーと、息を吐く。
若い銀狐の集団。
一匹が使いに走り、他の者が葉子を囲んだ。
この光景、葉美が見たらどう思うか。
また、静かに怒るだろう。
「葉子殿も来られたんすね」
「これで百人力ってもんでさ」
「……ちょ、ちょっと待つさね」
息を整える。整えながら、考える。
これから、何が始まるのか。
玉藻御前が、何をしようとしているのか。
九尾が集まることは、珍しい。
年に二度、あるかないかだ。
どうして、今日、集まっている?
あたいには報せは来ていない。木助の手紙にも、そのようなことは書かれていなかった。
「お姉様」
九尾の銀狐が二匹、走り寄る。一匹の美しい狐が、変じる。
葉子に似た女が現れた。似てはいるが、冷たい容貌であった。
刃の切っ先のような、触れば、すっと斬れそうな妖気を纏っていた。
前を走っていた狐は、すぐさまかしづいた。
「葉美」
葉子の妹の葉美だった。
思わず、使いの狐に悪態をつきたくなった。木助を呼んでくればいいのに、よりによってと。
いや――と、考え直す。こっちの方が良いかも。
だって、あたいと葉美の仲は……
周りに集まっていた若い衆が、気まずそうに膝をつき、頭を垂れた。
葉子も、膝をつき、頭を垂れた。
「どうしてここへ? お姉様も呼ばれたのですか?」
葉美の声は、不機嫌なものであった。
多分、周りの者はわからないだろう。
葉子と木助、それに玉藻御前ぐらいだろうか。
この、微妙な差異がわかるのは。
やっぱり、木助の方が良かったと思った。
「……いや。あたいは私用だ」
「私用……何ですか?」
「玉藻御前にお話ししたいことがあって」
「……いいでしょう」
踵を返す。
ついてこいということだろう。
葉子は、葉美の背を追った。
狐。
殺気立っていた。
木助が、いた。
何か、指図をしていた。
金の一族の頭も、その隣にいた。
葉美は、わざと、集まりの中心を突っ切ったようだった。
木助が、気づいた。
葉子は、手を少し上げて、挨拶した。
木助はしかめっ面を浮かべていた。
金の頭に話しかけられ、ああと受けていた。
「これから何が始まるのさ?」
「呼ばれていない方には、関係ありません」
「それはそうだけど……」
拒絶されている。
背が、苛立っていた。
「ほら、葉美。あそこ、懐かしいね」
二人で遊んだ館の木。
登り、降りられなくなり、しょうがないねと葉子が背負ってやった。
「お姉様、くだらない思い出話など聞きたくありません」
振り向きもせず、そう、きっぱりと言った。
しゅんと葉子は肩を落とした。仲が縮まってきたと思っていたのに。
これでは、以前と同じではないかと。
それから、姉妹は、一言も会話を交わさなかった。
手をかざし、結界を成す呪符を、次々と無造作に破り捨てていく。
まるで、薄い紙切れのように易々と。
太郎は、無言で結界を破っていく姫様に、目を見張っていた。
この姫様は、知っている。
あの女では、ない。
だが、これほどの力……。
結界の呪符は、一枚一枚が強いもので。
さらに、多重に組み合わさって、金剛石のように堅牢なものになっていた。
葉子でも、三人の中で一番術に長けている黒之助でも、崩せはしないはずだ。
それを、姫様は苦もなく行っている。
格子状の、九字の印が描かれた符が、千切れ紙となる。
風もないのに、残骸が洞窟を踊る。
姫様が呪符に手をかざすたびに、ほんの一瞬、光が沸いた。
その様は、見惚れてしまうものであった。
あの女の影はないけれど、どうしても近いものを感じてしまう。それが、また、良かった。
「これで終わり」
最後の一枚を、破り捨てる。
札の残骸が、さらと一斉に風化し、消えていった。
「ねぇ、太郎さん」
「ああ?」
「……訊かないんだね」
「何を?」
ぴょこんと、耳を立てた。
「理由を……私が、こんなことをする理由を」
二人は、止めた。力ずくでも、止めようとした。
「別に、訊く必要ないからな」
「……」
「俺は、そう思ってるから……気にすんな」
「……うん。火羅さん!」
結界が消えるのと同じくして、硫黄の臭いが、太郎の鼻についた。
光が見える。
洞窟の先。
結界が消えるまでは、ただの闇であった。
迷わず、太郎は光のある方へ歩を進めた。
硫黄の臭いに混じって、妖狼の匂いがあった。
妖狼がいつも身に着けていた、香の匂いが。
姫様が、妖狼の頭に手を置いた。
熱くなっていた。
「おう」
開けた場所にでた。
硫黄の臭いが、強くあった。
壁が、赤く、胎動している。時折、煙が噴き出ている。
姫様は、探した。火羅を、探した。
気配を探ったが、なかった。
「いない……」
「いや、いる。火羅の匂いがある」
「ふ、ふふ……」
小さく、暗い、嗤い声。
姫様が、太郎の背から降りた。
もう、妖狼は止めなかった。
よろりと、歩み始める。
太郎も、歩み始める。
――火羅が、いた。
白銀に輝く鎖に縛られていた。虚ろな視線を宙に投げかけ、嗤っていた。
痛い――
胸が、痛い――
「あの子の、声が、する、する……あは……あはは」
正気を失っている。
そう、太郎は思った。
瞳に狂気の光を宿している。
涙が、灼熱洞の光をきらりと反射した。
「行こう……」
姫様が、火羅に手を伸ばした。
「触らないで!」
泣きながら、そう、牙を剥いた。
「嫌よ。もう、嫌。もう、やめてよ。どうして、私が……どうしてよ! どうして、私だけなのよ! もういい、もうたくさん! 弄ばれるのは、嫌!」
身をよじる。
鎖がじゃらじゃらと音をたてる。
太郎には、どうすることも出来なかった。
「私です、火羅さん……彩花です」
牙を剥き、ううと唸り続けている。
姫様が鎖に触れた。
一縛り、二縛りと、消えていく。
右手が降ろされ、左手が降ろされ、両膝を地面につけると、焦点の合わぬ目を、火羅は姫様に向けた。
鎖が全て消えた。
唸りを、やめる。狂気の火は、灯ったままだった。
「ふ、ふふふ……まだ、汚し足りないの? 貴方は、私の初めての人。私を抱いて、……足りないのね。抉り足りないのね。じゃあ、何度でも抉ってあげる。その目を、私が!」
「ぐっ!」
二人の、呻き。
「はは……どう? 消えてよ! 貴方は死んだのよ! 早く消えてよ! 私の前から、いなくなってよ! お願いだから……お願い、だから」
ぽたりと、姫様の眉から、血が、落ちる。
太郎の手の甲から、血が、落ちる。
火羅は、姫様の眼を、爪で狙った。
太郎が、防ごうとした。
そして、二人は傷ついた。
「違う……臭い……」
人の血の臭い――
妖狼の血の臭い――
血の着いた爪を、火羅が、見やる。
狂気の火が、弱くなった。
そう、太郎は思った。手の傷が灼ける。気にならなかった。
姫様の傷も灼けている。気にならないようであった。
「ねぇ……私も、太郎さんも、貴方の傍にいるから」
優しく言い聞かす。
火羅が、身を小さくした。
唇がわなと震えた。言葉を紡ごうとしても、出てこない、そんな様子であった。
姫様は、待った。
火羅の言葉を、待った。その間も、血は流れ続けた。
姫様の右目が、燃えるように、赤く染まっていた。
「彩花さん……太郎様……違う、ここにいるはずがない。幻よ、きっと。ここにいるのは火龍だけよ」
火羅には、火龍が見えた。
苛まれ悶える、自分が見えた。
幾重に幾重にも、万華鏡のようにその光景は広がっている。
あちらで、背を灼かれる自分がいれば、あちらで、少しの期待を抱いた自分がいる。
あの時の全てを、この場所は、映し出していた。
火羅が、この場所を恐れていたから、父は、幽閉先に、ここを選んだ。
「火龍はもう、いません」
「本物のわけがない。そんなことしちゃ駄目。そんなことしたら、迷惑が」
戻っていく。
心が、過去から、現在へと。
「迷惑じゃないよ。迷惑なわけ、ないよ」
「お願いだから。迷惑は掛けたくないの……これは夢なのよ。そう、私は火龍に抱かれ、灼かれ、朽ち果てた。あの時、私は死んだのよ」
「行こう、火羅さん」
「違う……こんなこと、あるはずがない。貴方に抱かれるはずがない。これは、この温もりは、幻想よ」
赤子のように泣きじゃくった。
赤子になすように、慈しんだ。
「太郎さん、背中を貸して」
乗せやすいようにと腹這いになると、妖狼は、
「姫様、傷、」
そう、言った。
「大丈夫だから……大したこと、ないから」
火羅の耳にも届くよう、大きな声を出した。
庇った太郎の方が、傷は深そうだった。
傷口が煙を立てている。
「嫌だ……私を見てくれる人は、もう、」
また、火羅が言った。
「いるよ」
妖狼の背に座る。火羅を抱えたまま。
火羅は、軽かった。
あの時の重さは、なかった。
「私が、います」
右目を閉じた。
血で、滲みる。
「いないの……私は、いらない子なの。だから、父上に捨てられたの」
幼さを、姫様は感じとった。
「もういいから。火羅さんは、休んでいいから」
「休んで、いいの?」
「いいよ」
「いいの、ねぇ、いいの?」
同じことを、尋ねる。
ねだるように、甘えるように。
「休んで、いいよ。その間、火羅さんは私が守るから」
「守ってくれるの?」
「うん」
「う、うぁ……守ってくれるの?」
「守るよ」
その言葉は、火羅が、ずっと聞きたかった言葉。
数百年の時を経て、やっと手にした言葉。
火龍の骸が、火羅の景色から、消えた。
「じゃあ、じゃあ、休むね。ねぇ、彩花さん」
「……どうしたの?」
「嬉しい」
火羅の目に、人の娘の姿が、宿った。