あやかし姫~河童沙羅の憂鬱~
鼻歌、枯れ秋草、揺れる尻尾、枝振り見事な古木の影。
柔らかな日の差す森の中、たいそう機嫌の良い火羅を、沙羅は遠慮がちに眺めていた。
新鮮な驚きに少なくない薄気味悪さを感じる機嫌の良さ。
とはいっても、妖狼の姫君をよく知っているわけではないのだが。
あの折のことと、その性格が相まって、少し遠目な関係である。
どうも調子が合わないのだ。
たとえば、彩花となら話の調子がよく合う。表情はくるりと動くが内面は穏やかなもの。いつまでも話していられるし、いつまでも一緒にいられる。出会いは良くなかったが、沙羅の大切な友人である。
これが葉子だと、何を言ってるのかちょっとわからなくなる。早口に付いていくのがやっとで、理解できない事も多々あった。
以前の話で、今はわかりやすく話してくれるようになった。
火羅は、そんな葉子よりも色々と激しい。
まくし立てるように早口だし、声が小さくなったり大きくなったりするし、態度もころころ変わるし、河原に腰掛けてると思ったら死にそうな顔してるし、こんなとこで溺死されると嫌だなと話しかけると泣かれるし、正直なところ、その目まぐるしさが合わないのである。
朱桜の言うように裏表がありそうで、怖いのかもしれない。
太郎といると身を縮めているし、彩花といると高揚して気落ちして澄まし顔が慌て顔になるし、見ていて飽きない人だなぁとは思う。
とりあえず、彩花の隣にいればなんとかなるだろう。彩花はすごいのである。みんなの姫様である。なぜ姫様なのかよく知らないけど、姫様である。
姫様万歳。
そう、普通ですらない沙羅には。
「ふん、ふふふーん、ふんふんふーん」
「楽しそうですね」
「ふん……まぁ、ね」
「寒さにかまけて古寺に籠もりっぱなしだったし、たまにはお出かけして身体を動かさないとね」
沙羅は今、山にいる。彩花に誘われたのだ。急な誘いだったが、月心との約束もないので首を縦にした。
お出かけは好き、あちこち行くのは楽しいもの。
皿を渇かさないように気をつけながら、夜中によくうろうろしている。
沙羅は河童である。河童の中には、山に入り姿形を変える山童という一族もいるが、沙羅自身は何の変哲もない普通の河童だ。変化の下手な河童だ。今も頭のお皿が隠れていない。
彩花は、村から少し離れた山々に入った。ここにも澄んだ流れがあった。
彩花が一人で出かけるわけもなく、葉子と頭領を除いた古寺の面々に、火羅と黒之丞が一緒である。
太郎の話では狩りが目的なのだそうだ。
彩花ちゃん狩りもするんだと言うと、怪訝そうな顔をして、いやと太郎は答えた。考えてみれば、彩花に狩りは無理そうである。周囲の面々がさっさと狩ってしまうだろう。
村の人はお肉をあまり食べないが、彩花達はよく食べる。一緒に兎を捌いたこともある。都から来た月心も、肉はほとんど口にしない。
ここ、お寺だよねと彩花に聞いたことがある。
そうでしたよと言いながら、彩花はひょいと骨を掴んでいた。
道中、黒之助と黒之丞が、どうやって鳥を捕まえるか相談していた。多弁な黒之丞が意外だった。この化け蜘蛛とも、火羅と同じくらいな付き合いである。
魚を獲ってもいいかと、毎回毎回、律儀に聞いてくるのが接点といえば接点だ。
小川の主というわけではなく、ただ住んでいるだけの沙羅にとって、黒之助と同格である黒之丞に断りを入れられると、不思議な気持ちになった。
「普段から動いてないから、そうなるのよ」
「し、失礼な。動いてますよ、ね、沙羅ちゃん?」
「……そ、そう?」
道中、太郎も黒之助も黒之丞も、背負わなくてよいのかと声をかけ、彩花は顔を真っ赤にして断っていた。
険しい道ではない。それでも、何度か休みを入れた。火羅は、憎まれ口なのか心配なのかよくわからない言葉を呟いていた。途中から、彩花の手を引いていた。
「さ、彩花ちゃん、顔、赤いよ?」
「あっちに大きな実が。何の実かな、お酒になるかな」
「夜遅くまで書物ばかり読んでるからよ。子供の時はやんちゃだったくせに」
「や、やんちゃだったの?」
「そうらしいわ。悪戯っ子だったって、みんな言ってるもの。やんちゃで、内でも外でも騒がしかったって」
子供達や小妖達と戯れるとき、見せる顔のことだろうか。
それでも、全体に目を配る大人の視線を感じるけれど。
「それは、その、そうだったかもしれませんが……夜遅いのは、火羅さんと葉子さんのために……ああ、はい、そうですそうです、どうせ体力ないですよーだ」
「ちょっと、勝手に遠くへ行かないでよ。今日は、私が、葉子さんにあなたのお目付役を頼まれたのだから。ええ、この私があなたのね。ふふ」
「葉子さんがお目付役を?」
「太郎様では心許ないからと、お願いされたのよ。黒之助さんでもなく、私なんかを、ね。こんな私を、ね……そうは言っても、太郎様ならば、立派に守ってくれるでしょうけど」
「し、信頼されてるんだね」
そう、火羅に言うと、翳りのある笑みを返された。
「……そうだと、良いですわ」
火羅は、彩花に気を配っていた。沙羅は、過保護だなぁと見ていた。道中におけ、過剰な気の回し方に合点がいった。
「太郎さんも黒之助さんも、狩りに行っちゃったから、火羅ちゃんが頑張るんだ」
そう続けると、火羅は笑みを消した。
「……頑張るって、何を? ま、まぁ、私は大抵の事は出来ますから、そう、造作もないですわ」
「や、山だし、狩りが目的だって言うし、熊や猪が襲ってきたら、怖いよ。私、甲羅に籠もるしか出来ないよ。か、過保護な葉子さんに認めてもらえるなんて、火羅ちゃん、さすがだね」
火羅は、多くの妖を束ねる顔役の一人であった。
その正体は、太郎よりも一回り大きな妖狼。
そろそろ力も戻って来たのだろう。
「……ちょっと待ちなさい、私、熊肉は好きだけど、熊となんて戦えないわよ。無茶言わないでよ、猪だって無理よ。私が争えるのはせいぜい兎ぐらいのものよ」
「よ、葉子さんに任されたんでしょ?」
妖狼が、慌てた。
「それは、まあ、あ、あば、あばばばば! ど、どうしたらいいの!? 今襲われたら、太郎様も黒之助さんもいないのよ! 肝心なときに役に立たない彩花さんのへっぽこ式神じゃどうにもならないわよ!」
これが顔役かー、顔役なのかー。
あんまり顔役っぽくない。
でも、偉そうにしている人だって、案外こんなものかもしれない。
「こ、甲羅に隠れる?」
「こ、甲羅なんて彩花さんや私にあるかぁ!」
「へっぽこ式神……」
「そこ、それで落ち込むないでよ!」
「へっぽこだって、白刃」
「へっぽこ式神はどうでもいいの! 火、そうよ、火をつければ、獣はやってこないわ!」
「火!? 駄目です! こんなところで火は、駄目、絶対! 山火事になります! 食料集め以前の問題です!」
「み、水ならあるよー。あー、眠いー」
「お皿が乾くわよ! って、馬鹿、ほら水、水!」
竹筒の水がお皿に滲みる。ありがとう――そう言うと、火羅は、頬を染めながら水を全部掛けてくれた。
全身に。
同じことを彩花にされたことがあった。
「何という……あ、阿鼻叫喚の地獄絵図です。衣を乾かすためには、火が、でも、山火事だし、お皿渇くし――うーん」
うーんと沙羅も考える。
この姦しさ、三人でも案外に楽しい。
火羅と残されると聞いて、どうなることかと不安を感じていた。朱桜の言葉を真に受けすぎたのかもしれない。悪い人ではないと思っていたのだが、あの賢い朱桜に断言されると、つい影響されてしまう。
沙羅の意思は移ろいやすいのである。
「沙羅ちゃん、寒くない? 風邪引かない?」
「平気平気、私はいつも水の中にいるんだよ――風邪って妖怪もひくの?」
風邪といえば、咳がこほんと出て、熱が上がって、床に伏してしまうあれである。風邪を引いた人間なら、看病したことがある。薬をもらいに古寺に行き、胡瓜を携え泊まっただけだが。傍にいるだけでありがたいとは、言われた。一人は寂しいものらしい。
沙羅にはよくわからなかった。
「妖怪も風邪ぐらいひくわよ。ちょっとかけすぎたかしら」
「ひ、火羅ちゃん、物知りだね。あ、ちょっと冷たい。山は寒いからかな。小川は温かいのに」
「やっぱり、火を焚いた方がいいわね。私が薪や炭を並べるから、彩花さんが火を付けなさい。太郎様達が帰ってきたら、昼餉になるでしょうし、いっぱいお肉を焼くことになるでしょうし」
「手軽だし、そうなるかな……お鍋もいいけど。あ、やっぱり、私が最初からやった方が」
「少しは私にもやらせなさいよ。炭ぐらい運べるわ」
「……ひ、火羅ちゃんは、優しいね」
「……な、急に、何言い出すのよ」
「火羅さんは、優しいですよ」
「は、恥ずかしがり屋さんでもある」
「だから、何言ってるのよ!」
「お、思ったことを、口にしただけです。気を悪くしたなら、ごめんなさい。私、馬鹿だから」
難しいことはよくわからない。
馬鹿だうすのろだと言われ、感情を表に出すと怒られて痛い思いをして。
笑顔を浮かべていれば、馬鹿だと言われるだけで済んだから、同じ表情を浮かべ続けて。
いつも、一人だった。だから、寂しくない。寂しいがよくわからない。自分の身を守ることに必死で、中身をどこかに置き忘れてしまった。
二人の表情が少し遠くなる。
次にやるのは、甲羅と腕で身体を守ることだ。
「勝手なことを……気を悪くしたなんて言ってないでしょ。ちょっと嬉しかっただけよ」
「あ、あの、何て?」
「うるさい! ほら、沙羅さんもさっさと動く! 彩花さん、その、私と沙羅さんに、指示をよろしく」
「……先に、準備しましょうか」
頷いた沙羅は、彩花に従う。
その後ろ姿が、少し、眩しい。
手を、引かれる。
強く、握った。
振り向いた彩花の表情に、何かが過ぎった。黙って握り返してくれた。
沙羅は、多分、鏡も水面もないけれど、顔をくしゃっとしていたと思う。
何か言いかけた火羅が、ふんと鼻を鳴らし、空いてる手を引っ張ってくれた。
ふと、二人がいなくなれば、寂しいだろうと思った。