小説置き場2

山岳に寺社仏閣に両生類に爬虫類に妖怪に三国志にetcetc

あやかし姫~猫(7)~

 黒之助から、元検非違使が現れたと報せが届いた。
 だからといって、黒之丞の日常は変わらない。検非違使は脅威だが、こんな片田舎に流れ着くぐらいであれば、大したことはないだろうと踏んだ。勿論、この地に巣食っているのは、ただの流れ者とは言い難い面々、いつの間にか黒之助とよりを戻しているなずなが住み着いているし、西の鬼の王の娘である朱桜が当然のようにいる場所であり、警戒するに越したことはなかった。
 だからこそ、自分の張った結界が破られた瞬間、土地神に妻のことを任せると、庵を飛び出していた。
 自身の手足に等しい、糸で作った結界だ。容易く破れるものではなかった。
 森は、深閑としている。獣も、鳥も、眷属たる虫達も、息を潜めている。木々の擦れる音すら、聞こえない。
 まるで、見知らぬ森の様である。
 佇んでいる、影が一つ。
 ぎょろりと、大きな瞳で、不作法な乱入者を睨みつける。
 恢恢にして、峨峨――そして、巨躯の男だった。
 鍛え抜かれた身体を誇示するように、太い手足が衣からはみ出している。
 はちきれんばかりの肉量は、黒之丞の細身と比較すると、まるで正反対であった。
 赤い、大きな盃を背負っている。
 豪傑にして、求道者といえる、風体だった。
「妙なものを張っていたのは、主か?」
 低い、錆びついた声であった。かなりの遣い手であると黒之丞は推し量った。
 自分の技量に、絶大な自信を持っている。
 妖として、ほとんどの傷は癒せるはずなのに、その身に残していた。その一つ一つが、くぐった修羅場を表しているのだろう。
「ここは、俺の縄張りだ。勝手に荒らされては困る」
「いや、ここは、我々の縄張りだった。勝手に住み着いているのは、お前の方だろう」
「……土地神のお墨付きだ。別の場所と間違えているのではないか?」
「水神に祟られしこの場所こそ、我らの縄張りの一つである」
 百年前、この地に在った祟り神を、古寺の頭領が鎮め、代わりに羽矢風の命を据えたという。
 鎮める――端的にいえば、殺したのだ。
「水神など、いない」
「盛者必衰……世の流れは、残酷よ」
「御仁が言うと、しっくりくる。九州では随分と幅を利かせたそうだが、妖狼の姫君に手もなく捻られたそうだな、妖虎の者よ」
 黄色の毛。
 黒い紋様。
 黄金色の瞳。
 この島国に在らざる獣。
 この地を訪れ、滅ぼされし獣。
 ――虎、である。
 男は、妖虎であった。
「知恵ばかり長けた悪辣者め」
「尋常な勝負でも、火羅殿は強そうだが」
「その親しき口ぶり、火羅がいるというのは、本当のようだな」
 火羅と親しいかといわれると、それ程でもなかった。会話を交わしたことはほとんどない。琵琶を弾きに古寺を訪れる白蝉の方が、親しいぐらいだ。
「手を出すのはやめておけ。お前の同胞の残党や、玉藻御前ですらも、退けたのだぞ」
 九州を根城にしていた妖虎は、火羅が率いていた西の妖狼と、対立していた一族である。
 火羅が、九尾に対抗できる勢力を作ろうとしていた時の話だ。
 火羅の、自身を囮にした罠に嵌り、妖虎達は暴発した。
 その結果が敗北と屈服、妖虎は同盟の一員になったのだ。
 諦めきれない強硬派の残党が、古寺を訪れていた火羅を襲い、姫様――彩華という、姉の方だったそうだが――に殺されている。
 火羅が、西の妖狼に追われたのは、その時負った傷が元であり、彼らは命と引き換えに目的を達したといえた。
「白刹天は、死んだ。だから、何なのだ。儂は今、波夷羅の同胞としてここに在る。勝手に土地神の座を奪ったものを許してはおけぬ」
 鉄のような身体が内側から膨らんだ。
 そう思った時には、男の太い腕が、目の前にあった。身を沈めて躱した黒之丞の皮膚をごつとした拳が掠める。ぞわりと、産毛が逆立った。当たれば、化け蜘蛛の身であっても、ただでは済まないだろう。
 きちっ、と、黒之丞は、牙を嚙み鳴らした。
 違えることなく敵である。
 敵は殺すだけだ。
 きんと、糸を爪で弾く。躱しながら、男の腕に糸を巻き付けていたのだ。弾いた糸が、男の腕にぎゅっと食い込んだ。大鎧ですらも、容易く切り裂く糸である。不意打ちの返礼として、男の右腕をもらうつもりだった。
 男が喝を入れ、肉が弾けた。
 糸が吹き飛んでいた。
 視界の端で、漂う糸を見ながら、黒之丞は腰を落とした。
 八本の手足を持つ、半人半妖の形になっている。
「なるほど、蜘蛛か。土蜘蛛の裔であろうか?」
「いや、ただの歳経た化け蜘蛛だ」
「化け蜘蛛……何と、その程度の、取るに足らぬ妖怪だというのか。それは、興が失せた」
「ほぉ」
見栄を張るな。生まれながらの妖怪である我と、虫けらから妖怪に這い上がった主とでは、格に差があり過ぎる。これ以上の争いは無駄というものだ」
「……なずなの時も思ったのだが、そういうことは、俺を這いつくばらせてから言うがいい。ハイラの同胞と言ったな?」
「真達羅という。愚かな蜘蛛よ、命を無碍に捨てるか?」
 巌の様な顔に、憐憫の表情が浮かんだ。
 その表情が、さっと変わる。
 黒之丞の脚が、真達羅の頬を掠めたのだ。
「たいそうな名乗りをしているが、獣風情が俺を舐めるな。殺してやるからかかってこい」


「摩虎羅だけで暇を弄んでいるのかい? 真達羅のやつはどうしたんだ?」
 一人、紫煙を燻らせていた行商人の少女に声をかけたのは、笠を被った男女の二人組だった。
「伐折羅さんに、安底羅の姐さん、ご苦労様です」
 どちらも、旅装束である。
 男は刀を履いており、目つきが鋭く、青白い肌をしていた。
 女の方は、髪が短く、褐色の肌をしている。
「何がご苦労様ですだよ。あたい達は大したことなんてしてないだろう?」
「それで、真達羅はどこに?」
「いないのは見りゃわかるだろうが。伐折羅の目は相変わらず節穴だね」
「いないのはわかっている。どこに行ったのか尋ねている」
 伐折羅と安底羅は、二人で行動することが多い。
 傍目から見て、仲が良いようには思えないが、目に見えない信頼が培われているのだろう。
 そんなことを摩虎羅が考えていると、伐折羅が刀を抜き、安底羅が毛に覆われた両腕を広げていた。
「お、お待ちよ、お二方!? 真達羅さんは暇を潰してくると、其の辺りをうろついておりますよ」
「何が暇を潰すだ。どうせ、この辺りの主連中に、喧嘩を売りに行ったのだろう。あの男は、自分の力に驕り過ぎている」
「驕り結構、それだけ強ければいいよねー、摩虎羅」
 安底羅は、真達羅に教えを受けていた。
「波夷羅の仇討と聞いているが、真か?」
「どうも、そうみたいですなぁ。親方様の鼻息が荒いようで」
「波夷羅ねぇ。まともな奴じゃなかったけど、それでも、仲間は仲間か」
「今回は、皆さん、揃うみたいですよ。京以来ですなぁ」
「あれは、面白くない仕事であった。あの程度の者を斬るために、鍛えているのではない」
「珍しく同感だ! もう少しいいものを潰したいよ。はぁ、怖い怖い、あんたと同じ意見なんて、反吐が出る」
 伐折羅は剣士で、安底羅は拳士である。
 その卓越した武技を生かして、用心棒の仕事を請け負うことが多かった。
「お二人がいれば、百人力でありませう」
「さあて、どうだか。大狒々様を打ち破った、金銀妖瞳の妖狼がいるんだろう? 伐折羅はどう思う?」
「同族であれ何であれ、斬るだけだ」
「つまらない奴」
 摩虎羅は、にこにことしていた。こうして戯れているだけで、ああ、家族が揃ってきたと、嬉しくなってしまうのだ。