小説置き場2

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あやかし姫~風鈴と桃と爪~

 火羅は、古寺の軒先に吊された風鈴を取ろうとした。
 お椀型の青銅製、白い短冊を揺らしながら、ちりんと涼しげな音色を響かせる風鈴であった。
「うーん」
 届きそうで届かない。
 背筋を伸ばしても、膝を伸ばしても、足の裏を伸ばしても、すいと逃げられる。
 指がつりそうになり、火羅は舌打ちを禁じ得なかった。
 いつもの縁側で、待ち合わせ。
 お風呂上がりの火照った肌を夜風がなぶる。
 激しい夕立が一降り、その残り雲で朧月が霞んでいた。
 生い茂る庭の草木は、たっぷりの雨露を光らせている。
 うだるような夏の暑さも、一雨後の夜になれば幾分過ごしやすかった。
「もう少しなのに……この、この!」
 裾がめくれるのも気にせず、片足立ちになっても駄目である。
 歯がゆい事この上ない。
 火羅は、意を決して、息を大きく吸った。
 ちりと、唇の周りが赤く染まる。
 長く赤い髪の先が、ざわりと浮き上がる。
 そして、火羅の爪が、じりじりと目に見えて伸びた。
 艶やかな少女の正体は妖怪。
 やんごとなき妖狼の姫君であった。
「届いた!」
「危ない!」
 長い爪にうまく風鈴を引っかけることが出来た。
 その拍子に足が滑り、爪に風鈴を引っかけたまま、火羅はすとんと後ろに倒れ――ぐにゅ。
 倒れなかった。
 柔らかい何かが背中を支えてくれていた。
「あ、ありがと」
 薬湯特有の、つんと鼻につく匂いがした。
 火羅の身体からも、仄かに同じ匂いが漂っている。
 腰に腕を回し、大きく息を吐く、清楚な顔立ちをした美しい少女。
 彩花、であった。
 細い身体で、頭一つ大きい火羅を、よく支えられたものだと思った。
「もう大丈夫だから」
 くると振り返り、風鈴を掌に落とした。
 彩花が、ちょっと顔を赤らめた。
 周囲を窺い、それから、緩んだ胸元を整えてくれた。
「いつも言っていますが、もう少し、その、肌の露出に気を使って下さいな……私は、気にしませんが。それで、火羅さん、何をしていたのですか?」
 妖気を鎮める。
 爪が戻らない。
「ちょっとね」
 爪を振る。伸ばしたのはいいが、戻し方が分からない。後ろに隠す。彩花が後ろを覗き込んだ。伸びっぱなしの爪に、小首を傾げた。
「爪が戻らなくなった、とか?」
「この私に限って、そんなこと、あるわけないでしょ? 彩花さん、私を侮辱してるの? 齢を重ね、数多の妖怪を従えていたこの私よ」
「……爪、切ってあげようか?」
「お願いします」
「はい」
 
 
 
 爪を短くしている間、火羅は桃に目をやった
 お皿の上、等分に切られたよく熟れた桃。
 一緒に食べようと、お風呂で彩花に誘われていたのだ。
「食べてもいいですよ?」
「わかってるわよ」
 伸ばした爪は、硬くなってもいたらしい。
 普通の刃物では切れなかったので、ちょっと呪いのかかった小太刀でゆっくりと削いでいた。
 丁寧な事だと、火羅は思う。
 ざっくりでいいのにと言うと、爪が割れたら大変ですと彩花は返してきた。
 想像して、拷問だったので、火羅はそれ以上何も言わなかった。
 羽虫が灯り皿に集まっている。
 風鈴を脇に置いていた。
 風が止み、少しずつ熱気が戻っている。
 皿に手を伸ばそうとはしなかった。
「その風鈴、どうかしたのですか?」
「ああ、これ? ちょっとね」
「ふぅん?」
 顔を見ると、興味津々なのがよくわかる。
 聞きたい癖に、聞いてこないのが彩花だった。
 言ってもいいかと、火羅は思った。
「この風鈴の短冊、白いわ」
「白い、ですね」
 彩花が、微笑んだ。
「他の風鈴の短冊には、どれも絵があるじゃない。ここの風鈴だけが白いから、私も、か、描いてみようかなって。駄目、かな?」
 あんまり上手くなかったり、何だか怖い独特の絵が、他の風鈴の短冊には描かれていた。
 小妖達や鬼っ子達が、遊びがてら描いたのだ。
 絵を描くのは大好きだから、本当はその中に混じりたかった。
 彩花の膝に乗り、ご満悦の朱桜の言い方にかちんときて、つい意地を張って、一緒に描かなかったのだ。
「どうぞどうぞ……そのために、朱桜ちゃんが残してくれましたから」
 消え入るような声で、後半はよく聞き取れなかった、
 爪を削ぐのを止めた彩花は苦笑していた。
「火羅さんは、上手だもんね。何描くの?」
「まだ、決めてないけど…・ああ、うん、そうね。彩花さんを描いてあげる。爪を切ってくれたお礼よ」
「私ですか?」
「貴方よ。駄目、なの?」
「いいですけど……」
 意外だったようで、少し視線を逸らし、何だか恥ずかしげになった。
「上手に描いてあげるから、後でじっとしてね。どういう姿勢がいいかしら。あ、衣も変える? 場所も決めないとね。いい表情、しなさいよ」
「……桃は」
 彩花が、そわそわしながら言った。
「桃、ああ、桃は、先に食べるに決まってるじゃない」
 爪を削ぎ終え、桃を食べる。
 頬を緩めた彩花は、とても美味しそうに食べていて、これがいいと火羅は思った。