小説置き場2

山岳に寺社仏閣に両生類に爬虫類に妖怪に三国志にetcetc

あやかし姫~稲荷童~

 仄暗い夜、草木も眠る丑三つ時――妖達の騒がしい時間。
 小妖達に囲まれながら、姫様は書き物に勤しんでいた。
「あの子の名前は、何と言うのですか?」
 そう朱桜が口にして、姫様はさてと首を捻り、筆を置いた。
 寝床で徒然と書き物をしていた姫様は、そういえばと小妖達に目をくれる。
 移ろう季節は春へと至り、冬の残滓も僅かばかり。
 毛のある妖怪達にとっては、衣替え、もとい生え変りの時期である。
 そんな妖怪――いや、八百万の神の末端であろう、幼狐。
 朱桜のいうあの子とは、稲荷の女童のことであった。
 稲荷の姫――その呼称が定着していて、姫様は名前を聞くのをうっかり失念していた。
「太郎さん、稲荷の姫君は……何というお方なのでしょうか?」
 枕元に寝そべっていた白い狼がはふんと欠伸をする。
 そもそも、姫様は、あの稲荷の主従のことをよく知らないのだ。
 太郎達が助けたそうだが、その頃は――自分の力に呑みこまれ、何だか酷く曖昧な存在になっていた。
 気怠そうに、生え変りの時期を迎えた狼は、掌を舐めた。
「知らないぞ。姫様が知らないのに、俺が知るわけないだろ」
「……あれ? 太郎さんも知らないんですか? 仲が良いから、知っているものかと」
 稲荷の姫は太郎によく懐いていた。
 狼の姿をとった太郎の頭の上に、ちょこんと乗っかっている姿をよく見かける。
「懐かれているとは思うが」
 なかなか愛らしい童で、短くふわりと丸い髪に、林檎のような頬をしていた。
 穏やかな性格のようで、喋る姿をあまり見たことがない。穏やかというか、口数が少ないというか……怯えているというか。
 古寺の面々の中で、親しくしているのは、従者である美鏡に、太郎に、姫様ぐらいだろうか。
 悪い子ではないと思うが、なかなかの引っ込み思案であった。
「怪しいですね。もしかしたら、彩花姉様に、何か悪さをする気では。稲荷はいつも偉そうで悪そうだと、父上様が言っていました。これは捨て置けません、成敗です、成敗。大体、あの美鏡という従者だってどうなのですか。白蝉さんから琵琶を盗もうとした悪者ですよ」
 かぁと、黒い息を吐く鬼の娘。
 目が炯々と輝いていて、すごく悪そうである。
「確かに、当代の稲荷神に関しては、いい噂を聞きませんわね」
 やっと口を挟んだ火羅だが、経緯をよく知らない者の一人である。今までぼおっとしていたのは、何時ものように姿の見えない誰かさんに、散々連れまわされたなぁっと思い出していたからだ。
「火羅に追随されても嬉しくないのですよ」
「でも、あの子は、仲間の稲荷に追われた身なのでしょう? あの騒動の中、彩花さんに害を成すために、そこまでするかしら。それこそ、穿ちすぎじゃないの」  
「む、火羅は誰の味方なのですか?」
「勿論……太郎さんに懐いているのだから、悪い子とは思えませんわ」
 火羅が、太郎に、意味ありげな流し目を送ったので、姫様が口の端を強張らせた。
「私は……あまり好きではないのです」
 確かに、朱桜と一緒にいる姿を見かけなかった。
 幼い女の童同士、親しくするかと思っていたが、そんなにである。白雪や光といった、賑々しい面々が来ると、おずおず遊んではいたが。
 人見知り同士、牽制しているのだろうか。
「美鏡さんに聞いてみましょうか」
  あれこれ詮索しても埒があかない。さっさと聞くのが一番だろうと、姫様は寝床から這い出ることにした。
 
 
 
「こりゃ、皆々様、こんなにお出でになって、一体全体、何事ですか?」
「すみません、大勢で押しかけてしまって」
 最初に疑問に思った朱桜はもとより、火羅や太郎、それにぞろぞろと小妖達がついてきている。
 稲荷主従に宛がわれた部屋はいっぱいいっぱい、外に立ち見が出るほどの盛況さである。美鏡は、眠っている主の傍で訝しそうに眉を潜めていた。
 なかなかの大物っぷりで、くぅと寝息をたてている姿に、太郎が微笑んでいた。
「お尋ねしたいことがありまして」
「あたいにわかることなら、答えさせていただきます」
「稲荷の……姫のお名前は、何というのでしょうか?」
「主様、ですか?」
「ええ。今さら失礼なことだと思いますが、伺うのを失念していまして。差し障りなければ、教えて頂ければと」
 ああ、それはと、美鏡は口籠った。
「そいつは、お教えできません」
「はい?」
 姫様は、思わず聞き返していた。
「彩花様には置いてもらっている恩義がありやす。ですが……お、お歴々程の力の持ち主に、名前を知られてしまっては、後々どんな障りがあるかわかりやしません。その、ご勘弁のほどを、お願いできないでしょうか」
 言っていることは、わからなくはない。
 名は重要である。その在り様すら縛ることも可能だ。
 が、それで納得しない鬼がいる。
「嫌なのです」
 朱桜が半眼になり、白目が黒く濁り、瞳が朱く染まった。
「その言い草、何なのです。自分たちは皆の名前を知っているくせに、障りが出るから教えたくない、ですか? 無礼千万なのですよ」
「あ、朱桜様、無礼は百も承知、ですが」
 幼い鬼の迫力に、美鏡は気をやりそうになった。
 慣れたもので、小妖達はさっと遠くに逃げている。
「早く、教えるですよ。私だって、名前で呼びたいのです」
 朱桜も考えてはいるらしい。
「……どうあっても、知りたいと仰るので」
 ここで朱桜を宥めても、しこりが残るだけだろう。
 もう一押ししてみようと、姫様は思った。
「俺も、名前を知らないのは、不便だ」
 一押しすると決めはしたが、どう言おうかと思いあぐねていると、太郎が、言った。
「遊ぶのにも、稲荷の姫じゃあまどろっこしい。短く言おうにも、、ここには姫はたくさんいるし」
 火羅と朱桜を、太郎は見やった。
 それから、姫様に視線を移した。
「太郎様に、救っていただいた命、ですか。そう言われては、逃げられやしませんね」
 美鏡が苦笑する。
「他言無用にございますよ。うちの主は、少々、訳ありでございます。出戻りのあたししか、こうしてお傍にいないぐらいの……話が、逸れました。主様のお名前は、宇迦様と申します。今の稲荷大明神様の末子であられます。あたいは、主様の亡き母君と、まぁ、わりかし仲が良くて、こうしてお仕えさせて頂いております」
 亡き母君――朱桜が、顔色を変えた。
「ウカってのか」
「ウカ、です」
「主様、起きていらしたので」
 寝ぼけ眼で起き上がった稲荷の童は、いっぱいの妖達に、目をまあるくした。
 それから、不機嫌な様子の朱桜を見て、怯えたように尾っぽを振った。
「あの、何か、やりました? その、怒られるようなこと、しました? ごめんなさい、します。だから、美鏡を苛めないで」
「……苛めてなんか、ないのです」
 今度は、朱桜が、弱弱しく言った。
「名前を、知りたかっただけなのです。彩花姉様が、仲良くしているのだから、悪い子ではないと思うのです。光君や白月ちゃんと遊んでいたから、良い子だとは思うのです。でも、私とは、遊んでくれないのです。だから、」
 ひくっと、嗚咽を漏らした朱桜を、火羅が抱きしめた。
「朱桜ちゃんは、その、どう遊べばいいか、わからないから」
 稲荷の童はそう言うと、美鏡の後ろに隠れた。
「……あー、主様は、恥ずかしいので?」
「なるほど……これは、姉様と火羅さんのような、そういう……」
「ちょ、貴方は、何言うのよ!?」
「姉様という人がありながら、太郎さんに色目を使うからですよー」
「な、い、妹がよくやる、可愛い悪戯じゃないの!」
「火羅は姉妹じゃないのですよー」
「この姉妹は……」
「ん、そういや、前から気になってたんだが、どうしてウカは姫なんだ?」
「それは、稲荷大明神の末の姫君ですし」
「いや、ウカは、男だろう?」
 姫様が絶句した。
 朱桜が唖然とした。
 火羅の動きが停止した。
「変だとは思ってたんだよ、普通は……若君? それとも、皇子か? なのに姫って言うから」
「太郎様、な、何をいったいおっしゃられてるのやら、あたしにはさっぱり」
 美鏡が、今日一番の動揺を見せた。
「男の子だと、弑されるから」
 宇迦が、言った。
「そう、母様が言ってた。父様には子がいっぱいいて、兄弟の人たちは、よく喧嘩して、よく殺し合うから、女の子の格好をしておけば、大丈夫って。でも、何度も襲われたし、母様達は、死んじゃったけど」
「そうだったのですか?」
「あたしも嫌気がさしちまったし、死にたくはなかったんで、一旦は離れたんですが、諭されましたし、主様は友達の忘れ形見なんで、こんなことになっちまって。その……もう少しだけ、いさせてはくれませんか? せめて、楽しい思い出を、あげたいんです。覚悟は、あたしも主様も、とうにできてますから」
「どうして、こう、ここの人達は、死にたがるんですか」
 姫様が、言った。
「ウカ……ウカ君も、美鏡さんも、好きなだけいればいいんです。守りは、十分ですから。ここより安全な場所なんて、そうそうないと思います」
「私は、助けられてしまったから、何とも言い難いけど……彩花さんは、随分なお人よしだから、頼ってしまえばいいわよ。いざとなったら、この小童だって鬼の王の娘、それに、彩華さんに勝てる存在は、そうそういやしないもの」
「……どうして、光君や白月ちゃんはよくて、私は駄目なのですか?」
 朱桜が言うと、ぱたぱたと宇迦は尾っぽを振った。
「どうしてなのですか?」
「あんたも、大人びてるわりに、案外に鈍いのね」
「……よくわからないのですが、仲良くするのですか? しないのですか?」
 太郎が、宇迦の尾を優しく嚙み、朱桜の前に突き出した
「よろしくお願いします」
「……彩花姉様に、妙な真似をしたら、許さないのですよ」
 しないよと宇迦が首を振り、火羅があちゃーと額を押さえる。
 姫様は――何とも言えない、微妙な表情を浮かべながら、だって可愛いかったんだものと、小さく言い訳を嘯いていた。