ヴァイオレット・ガーデン番外編と京都アニメーションと
映画版ヴァイオレット・ガーデンを観た――限定二週間の間に、2回観た。
もともと、アニメ版は観ていない。だから、正当な続編といえる映画版を観るつもりはなかった。
京都アニメーション……涼宮ハルヒの憂鬱に始まり、らきすた、日常、中二病、メイドドラゴン等々、上京後のアニメ遍歴に常にあった名前だ。
ニコニコ動画が天下を取り、ラジオに耳を傾けながら通学していた時代――京都アニメーションは、最高のスタジオだった。
そのスタジオが燃え、多数の犠牲者が出たという報せに触れたとき、胸の中に渦巻いたのは、言いようのない感情だった。
鬱屈――今思えば、そうなのだろう。
仕事に身が入らない、あの不安定な状態は。
映画は、あの大災害の前日に完成した作品である。
奇跡的に、あの大災害を免れて、劇場上映された作品だ。
だから、観る。
そのスタッフロールには、全ての社員の名前があった。
もう、この世にはない――京都アニメーションの一員としてあったはずの日常を奪われた人々の名前が。
涙が溢れて、止められなかった。
スタッフロールが始まった瞬間――理性は決壊し、その無常さに、鬱屈さに、自身の費やした素晴らしい時間に、その全てに涙していた。
それは、自身の涙だった。自身の、京都アニメーションへの、鎮魂の涙だった。
上映最終日、二度目の鑑賞では、そこまでの感情の変化はなかった。
前向きな、京都アニメーションらしい、優しい作品だ。
あの瞬間――あの涙は、あの時のものなのだろう。
毀れた日常、それでも、新作を鋭意制作中だという。
ふり絞るように、社長が語っていた。
その言葉こそ、言いようのない感情の吐露だと、思った。